白狐朱夏 (2/3)
暗い山へ深く分け入るのは、やはり怖い。二人そろそろと歩を進め、ようやく川辺へ辿り着く。

「ホタル、いないのかな」

「明るいから見えにくいのかもしれない。消してみようか」

懐中電灯を消すと、自分自身すら闇に塗り潰されたように視界が黒く染まる。明るいものは月だけだ。

あ、と啓介が声を上げる。頼りなげに飛び、ひかひかと小さな光を放つ幾つもの命がそこに在った。

「すげー……」

「こんなにたくさん見られるなんて思わなかった」

「あいつにも見せたいね。きっとよろこぶよ」

ぽつり、啓介が呟く。涼介も同じ思いだ。

「うん。でももう遅いから、明日話そう。早く帰らないと、おばあちゃんが心配する」

俯き、懐中電灯の明かりを点ける。足元だけを照らす円い光は心もとないけれど、今はこれだけが頼りだ。

「――にいちゃ、」

足元の草が擦れる音、自分を呼ぶ声が川から聞こえたと思えば途切れ、涼介が振り向く。伸ばされた啓介の手が幾度か水面を叩いてやがて沈み――とぽん、と水音だけが耳にこびり付く。

明るいままの懐中電灯がすり抜け、地面へ落下した。啓介が――溺れた?まさか、下流へと流されてしまったのか。覗き込んだだけでは判らない。

穏やかな水の流れ。小さな子供でも底に足がつき、深くない筈の川。天高く掲げた掌をいきなり地べたへ叩き付けたような、容赦の無い冷たい裏切り。

風に揺れる木々のざわめき。涼やかな虫の声。速まる鼓動。震える呼吸。涼介は拳を握り、駆け出した。



辿り付いた駐在所は赤色の門灯だけが灯り、無人のようだ。ミニパトと自転車を横目に、裏手の住宅へ駆け込んでインターホンを鳴らし、ドアを叩く。

「おまわりさん!おまわりさん!」

程無くして、甚平姿の〈駐在さん〉が怪訝そうに顔を出した。制服を着て自転車に乗り、村内をパトロール中の彼に会ったことを覚えている。

田中さんとこの孫だね。どうしたんだい、こんな遅くに一人で」

「啓介が……弟が、川でおぼれた!見つからないんだ!」

さっと顔色が変わり「君は早く帰りなさい。いいね」と強い口調で言い聞かせた。間も無く明るくなった駐在所で、受話器へ怒鳴るように声を上げている。

「そう、消防団も!役場から迷子放送!」

駐在所に背を向け、涼介は再び走り出す。もしかしたら、彼女なら。少しだけでも可能性があるものは全部、掴みたいと思った。

今まで徒競走だって、リレーだって負けたことなかった。だけど今はゴールが見えない。心細く挫けそうなところへ、向かい風が強く吹いてきた。



涼介が足を止める。社を目前に〈彼女〉が姿を現したことに気付いたからだ。暗い山中で白い彼女をはっきりと視認出来、ほっと安堵する。

彼女はずかずかと涼介へ近付き「この時刻に一人で山へ入るとは。命が惜しくないか」と一喝した。

それに怯むことなく、啓介が川で溺れたと伝えた。まるで、底に居る〈誰か〉に引きずりこまれたかのように。

周囲の空気がざわりと震えたようだ。肌が粟立つ。彼女の鋭い眼光が月に煌めき、今ここで心臓を射貫かれるのではないかとさえ涼介には思えた。

「ぬしは帰れ。家人が心配しているのが分からぬか」

「――やだ!僕もいっしょに探す!啓介は僕の弟だ!」

「聞き分けい。……どれ、狐火をつけてやろう。ぬしを導き、迷わんように」

彼女が指を揺らめかせた途端。手品のように橙色の炎が空中に灯り、涼介の眼前に浮かんだ。温かく優しい光に、僅かに心が落ち着く。涙を堪え唇を結ぶ涼介の頭頂部に、そっと彼女の掌が乗せられた。

「心配無用。家で弟を待っていろ。ぬしに今、出来る事はそれだけだ。良いな」

「……わかった。ぜったい、啓介を助けて。約束」

「ああ。任せておけ」

ふわふわと漂う狐火を追って下山する涼介を見送り「川であれば、奴か」と独り言ちる。

爪先で地面を蹴り、宙に舞う彼女がしなやかに身を翻すと――たちまち〈人〉から〈狐〉の姿となった。白い狐が風を切り、空を駆ける。

他者から頼られるというのは良いものだな。知らず知らずのうちに彼女の表情が緩む。



探し人の匂いを追っていると、悠々と地を這う者がひとり。予想通りの相手である。

「待て」

上空からの制止を受け、彼女を振り仰いだのは水神・蛟(みずち)。狐と同じくこの辺りを根城にしているが、普段は遭うこともない。

蛇とも竜ともつかぬ形容し難い姿は、百年前に会った時と変わっていない。――いや、以前と比べれば、体格はやや小さくなったか。蛟はどうやら川で捕えた〈獲物〉を棲家へ持ち帰ろうとしているようだ。

胴体をがっぷり咥えられた啓介は全身ずぶ濡れで微動だにしない。両腕をだらりと垂らし、指先からは水が絶え間なく滴り落ちている。

ヒトはこれだけの事でも容易に命を落とす。気を失っているだけであれば良いのだが。脳内を巡る思案を捻じ伏せ、狐は声を発した。

「どうするつもりだ」

「見れば解るだろう。これ程強い陽気の塊、放っておけん。小者共に喰わせるには惜しい」

「させぬ。小僧を寄越せ」

「断る、と言ったら」

「我と一戦交える覚悟が在るか。撤回するならば見逃してやっても良いぞ」

急降下し地面をぐっと踏み締めた彼女は、蛟へにじり寄るように歩を進める。対峙した蛟は全身に嘲弄を滲ませた。

「ヒトに肩入れするか、貴様」

「存外悪くない。我等と違い脆弱で、生涯はひどく短いがの」

「下らん。そんなモノ、餌と同義だ。放っておけば勝手に殖える」

「ヒトなど喰らわんでも生きてゆける蛟が何故、それを攫う」

「答える必要は無い。……崇められ、祀られている狐には解るまい」

「ああ、解らぬ。我の短気は承知だな。ここで散るか退くか、即刻選べ」

刹那、巻き起こった突風に全身を包まれ――自分が狐の怒りを買ったのだと気付いた時にはもう遅い。

今の妖力で己に勝ち目など無いことは明白だ。このままでは抵抗など微塵も許されず、ただ嬲り殺される。蛟の本能が警鐘を鳴らす。


「俺の敗けだ、狐。小僧は放す」


ふっと風が止んだ。自らの言葉通り、蛟が啓介を川辺へ横たえる。そこへ近付く狐は「悪戯は余所でやらんか」と苦言を呈した。

「貴様と同様、俺もここら一帯を気に入っているのだ。出て行く気はない」

川へどぼりと飛び込んだ蛟は、やがて水と融け合うように姿を消した。勝手な奴だ、と苦笑が漏れる。

啓介へ鼻先を寄せてみるが、呼吸は一定で、出血や怪我をしている様子もない。体温も下がってはおらず、子供特有の温もりを保っているように感じられた。

「眠っているだけとは。図太いものだな」

行くとしよう。待っている者との約束を果たすために。啓介を抱え、狐が跳ねる。上空から山を見下ろすと、川に沿って灯りが列となっていることに気付いた。その他にも多数点在している。啓介を探す消防団の男達が口々に名を呼んでいる。

「皆、ぬしを心配しているのだぞ。早く帰らねばな」

陽気の塊。蛟はそう言っていた。確かに、明々と燃える太陽を抱いているようだ――狐は風に尻尾をなびかせて悠然と笑った。





狐火に導かれるように下山した涼介は、目の前に浮かぶそれだけをじっと見つめていた。風で揺れても消えることはなく、手を近付けても熱くない。一体何でできているのか不思議だ。

祖母宅の敷地に入り、玄関前で「ありがと」と小さく礼を言うと、それは一度揺らぎふっつりと消失する。

宅内へ上がり込み、僅かに開いている仏間の襖を滑らせると、祖母は仏壇に――祖父の遺影に手を合わせ念仏を唱えていた。

「……ただいま」

丸く小さな背中に声を掛けた途端、転げるように祖母が駆けてきた。

「涼介!啓介は……」

「……川で、おぼれて。おまわりさんのところに行ってきたんだ」

「そうだったの……。今、消防団も出てくれて……。ああ、ずいぶん汗かいたのね。お風呂、沸かし直したから入りなさい。タオルと寝間着は出しておくから」

一度頷いて浴室へ向かうと、ガタガタと家中の窓ガラスが震えた。また風が強くなったのだろう。



風呂上がりの涼介が再び仏間を覗くと、祖母はじっと仏壇の前に座っている。その背後で畳へ正座し、深く頭を下げた。

「夜、二人だけで山に行って、ごめんなさい」

「今は啓介を待ちましょう。さ、あなたはもう寝なさい」

有無を言わせない口調に従う他なかったが、布団に入ってもやはり眠れず、寝返りばかりを繰り返す。

それでも微睡み始めた時。とんとん、と誰かが控え目に玄関を叩く音が耳に入った。風の音でも、聞き間違いでもない。彼女だと確信した。布団を剥いで飛び出した涼介が引き戸を開けると、そこには啓介が俯せで倒れている。

「おばあちゃん!啓介、帰ってきた!」

涼介の大声に、祖母が玄関へ駆け付けてくる。上がり框へ啓介を横たえると、全身濡れてはいるが熱はなく、怪我もなさそうだ。むにゃむにゃと寝言らしきものを口中で転がし、ぐっすりと眠っている。

しかし啓介をここまで運んで来た者が見当たらない。きっと彼女が助けてくれた、約束が果たされたのだと思うと涙が出そうになり、涼介は唇を噛む。

「お風呂に入れてあげようか。涼介、手伝ってくれる?」

祖母と二人で啓介を抱きかかえて浴室へ運び、手早く湯浴みをさせる。このまま起きなかったらどうしよう――脳裡を一瞬不安が過ぎ、涼介は頭を振る。



啓介に寝間着の浴衣を着せ布団へ寝かせると、二人でようやく人心地ついたように溜息が零れた。

「そうだ、駐在さんに連絡しないとね。お医者さんにも」

慌てて電話へ走り寄り、受話器を手に何度も頭を下げる祖母を見てずきりと胸が痛む。

「お医者さんは朝来てくれるって。涼介も早く寝なさい」

「……あのね、」

彼女のことを話そう、涼介が決めたその時。屋外スピーカーと、台所に設置している受信装置から同時に軽やかなチャイムが響き渡る。

『村役場からのお知らせです。先程放送した迷子の高橋啓介君は、無事、保護されました。繰り返し、お知らせします……』

「そういえば、誰がつれて来てくれたのかしら」

ゆっくりと話すアナウンスを耳にし、ぽつりと漏れた祖母の疑問に、涼介は真正面から向き合った。



白狐朱夏 (3/3) #
白狐朱夏 (1/3) *

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