白狐朱夏 (1/3)
高崎の自宅から電車とバスを乗り継いで、目指した場所は山奥に在る母の生家。現在は祖母が一人で暮らしている。

夏休み中は長期間家族旅行に出掛けると友達から聞き、羨ましい気持ちもある。もちろん、表面に出すようなことはしないけれど。

両親が忙しいことは、小さい頃から知っているから――家族旅行や遠出を、ねだるようなことはできなかった。

『あなたたち二人だけでおばあちゃんち、行ってみない?』

母からの提案に、最初に手を挙げたのは啓介だった。

『行く!行くよね、にーちゃん!』

『うん、僕も行く。ひさしぶりにおばあちゃんに会いたいし』

夏休み最後の二週間。通っている塾も習い事も、全部休んで出掛けることになった。



目的の停留所を告げるアナウンスが流れる。古びたバスに揺られ、隣で眠り込んでいる弟へ「もうすぐ着くよ」と声を掛け降車ボタンを押した。

村の入口にぽつんと在るバス停では、祖母がにこにこと手を振っている。

「二人とも、大きくなったねえ。迷わないで来られた?」

「うん。母さんが全部書いてくれたから」

ステップから飛び降りた啓介は祖母へ突進し「ばーちゃんひさしぶり!」と抱きついた。

「スイカある?スイカ!」

「ちゃんと井戸で冷やしてあるよ。今年は出来が良くて、とっても甘いんだって」

高い空。広がる田畑。緑が生い茂る夏山。母の田舎へ、兄弟二人だけで来るのは初めてだ。

起床後のラジオ体操から一日が始まる。朝食後は宿題を片付け、家事や畑仕事を手伝い、昼食後は昼寝。起きてから夕方までは遊びに出掛け、雨が降れば一日のんびり過ごす。

夕食。入浴。枕に頭を置いて目を閉じた途端、すとんと眠りに落ちてしまう程の心地良い疲労感。たった数日過ごしただけなのに、二人揃って真っ黒に焼けた。



田舎暮らしを満喫する兄弟が〈彼女〉に初めて会ったのは、暑い日の午後だった。

「ばーちゃん!山、いってくる!」

「いってきます」

「はい、気をつけて。水筒持ったね。日が暮れる前には帰っておいで」

繕いものをしている祖母へ声を掛け、二人で手を振った。

「にーちゃん、山にセミいるかな!つかまえたい!」

「いっぱい鳴いてるから、かんたんに取れるかも」

虫取り網と虫かごを携えた二人はずんずんと山奥へ分け入る。やがて涼介が「階段だ」と呟いた。行先を見上げると、木製と思しき鳥居。この先は神社だろうか。

「上まできょうそう!」

突然、啓介が階段を勢い良く駆け上がっていく。背後から自分の名を呼ぶ兄の声など耳に入らない。

「いっちばん!」

掛け声と共に、啓介はスニーカーで地面を踏み締める。木々に囲まれた境内を見渡すと社がぽつんと建っており、その軒下に寝そべる一人の〈女性〉が目に入った。

「なあ!ひとりでなにしてんだ?」

啓介の声を耳にした彼女はむくりと上体を起こし、低い声で彼へ問う。

「我が見えるのか」

「おまえ、そこにいろよ。にーちゃん!にーちゃーん!」

啓介から少し遅れ、境内に踏み入った涼介が「一人で先に行ったらあぶないだろ」と弟を窘める。

「見て!女がいる!」

「……失礼だぞ、啓介」

啓介が指差した先。社をぐるりと囲む板張りの回廊に腰掛ける小柄な女性が確かに居た。

浴衣を着ており、外見は中学生か……高校生くらいだろうか。地面には彼女のものと思しき草履が転がっている。白い肌はまったく日に焼けておらず、血色を感じられない。無地の浴衣も真っ白で――まるで死装束を纏った死人のようだ。

長い髪は白髪かと思えたが、太陽光に照らされて輝くそれを見て初めて銀髪なのだと気付いた。黒色の瞳は見つめていると吸い込まれそうな深度。思わず視線を外す。それでも彼女の印象は薄れない。

髪にも肌にも色素がまるで存在しないような、奇妙な違和感が纏わりついた。



村で会った人には挨拶をするよう母からも祖母からも言われていたことを思い出し、頭を下げる。

「――こんにちは。僕は高橋涼介、こっちは弟の啓介です」

たかはし、と彼女が首を傾げた。うっかりしていた、母の〈旧姓〉を出した方が早いだろう。

田中です。結婚する前の、母の苗字」

「成程。見える者に会うのは何年ぶりかのう」

嬉しそうに彼女が笑う。『見える』とはどういう意味か。彼女がここに存在していないとでもいうのだろうか。

涼介の懸念など全く気にしない啓介は彼女の隣へ腰を下ろし、物珍しげに彼女をじっと見上げている。

彼なりに、初めて会う種類の人だということを感じているのだろう。彼女は啓介の顔を見つめ返しながら「母親の名は何という」と問うた。

「かーちゃん、高橋夢子っていうんだ。おまえ、知ってんのか」

「よく憶えている。成程、面影があるな。夢子と初めて会ったのは丁度、ぬしらと同じくらいの年頃だった」

母が自分達と同い年だった頃。その時から〈彼女〉はずっと、ここに居るのだろうか。もしそうだとしたら幼すぎる。彼女は一体――



「いっしょに遊ぼーぜ!」

すっくと立ち上がった啓介が彼女の手を取った瞬間。少なからず驚いたようではあったが、すぐに破顔して「何をしようかの」と草履へ爪先を突っ込んだ。

「セミとりするんだ!」

虫取り網を振り回し、彼女の手を引く啓介の後へついて行く。

社の前に居る、一対の狛犬に視線が吸い寄せられた。いや、これは狐だ。では狛狐とでも呼ぶべきだろうか。赤い前掛けが目に眩しい。ぴんと耳を立て、じっとこちらを観ているように思えた。

「にーちゃん!早く!」

これから楽しいことしか起こらないとでも言いたげな口調で、啓介が階段から兄を急かす。

「今行く」

狐へ軽く頭を下げ、境内を後にした。



彼女は山のことを隅々まで知っているようだ。川で魚や蟹を素手で捕まえたり、木登りをしたり、草笛を奏でたり、木の実を摘んで食べたり。思い付く限りの遊びを教えてくれた。

薄暮の頃には「また明日」と手を振り別れる〈友達〉となった。



夕飯の時、祖母へそれとなく聞いてみる。

「このへんって、中学生とか高校生って住んでないんだよね」

「そうねえ。小中学校もあったんだけど、随分前に廃校になったのよ」

「僕らみたいに遊びにきてる子、いるかな」

「お盆の頃に来てたみたいね。バス停からすぐのところ、鶏舎があるおうち。たしか、お孫さん高校生よ。男の子」

「そうなんだ」

「年の近い遊び相手がいなくて退屈でしょう」

「……ううん。楽しいよ」

友達ができたことを、打ち明けられなかった。



彼女と過ごした数日で、兄弟は木登りが得意になった。それから、食べられる木の実を見付けるのが上手になった。甘酸っぱいもの。渋いもの。宝探しのような気分で山を駆け回る。

戦利品を分け合っていると、啓介が思い出したように「おまえ、ホタル見たことあるか?」と声を上げた。

「ああ。暗くなればあちらこちらで光っているぞ」

「ここでも見れんだ!いーなあ!」

「蛍など、別段珍しいものではないと思うが」

不思議そうに赤い実を頬張る彼女へ、涼介が付け足す。

「うちの近くじゃ見られないから。ホタルって、水がきれいなところじゃないとすめないんだって」

「確かに、この辺りの水は旨い」

「水がおいしいって、川がすごくきれいってこと?」

「そうだね。山奥だと、あんまり人が来ないからかもしれない」

「へえー。おれも見てみたいなあ、ホタル」

「日没後にぬしら二人だけで来てはいかんぞ。夜目が効かぬ故、危険だ」

頷こうとした途端、啓介が呆れたように「おまえ、かーちゃんみたいだな」と言い放つ。彼女は俯き肩を震わせていたが堪えきれずに吹き出し、腹を抱えて笑い転げた。

「我が母親か。考えた事も無かった」

てっきり否定されるとばかり思っていた二人は顔を見合わせ、つられたように笑いだす。

「――ほれ、ぬしらは暗くなる前に帰れ」

「おー!じゃあな!」

「また明日」

彼女へ手を振り別れてからも、啓介は蛍のことばかり話した。昨夜見たテレビ番組のせいか、とても気に入っているようだ。



「ただいま」

「ただいもー!」

「おかえりなさい。お風呂沸いてるから入っておいで」

母が小さい頃、浴槽は五右衛門風呂だったと聞いた。入ってみたかった、と少し残念に思う。もちろん、スイッチ一つで湯を張れるのは便利でいいんだけど。

啓介の髪を洗ってやると「おれ、やっぱホタル見たい」と呟いた。

「……夜は危ないから。出かけてもいいか、おばあちゃんに聞いてみないと」

「ばーちゃん、きっとダメって言う」

うん、と涼介が頷く。啓介にも判っているのだ。泡をざっと流してやると頭をぶんぶん左右に振り、まるで犬のように豪快に水を切る。

風呂から上がってからも、夕飯の時も。啓介の身体がそわそわと小さく揺れているのが視界に入っていた。ただ啓介に落ち着きがないのはいつものことなので、祖母に怪しまれることはなかった。

一晩眠れば少しは治まるだろう。しかし布団に入ってからも啓介は諦めない。ひそひそと声を潜めて涼介へ話し掛ける。

「にーちゃん、おねがい。ホタル見たらすぐ帰るから」

「…………少しだけだからな」

結局、涼介が折れるかたちで懐中電灯一つを手に、二人はこっそりと祖母宅を抜け出した。



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