白狐朱夏 (3/3)
翌朝。目を覚ました啓介の視界に映ったのは、自分を覗き込む祖母と、白衣を着た中年男性。上体を起こすと、消毒薬のような臭いが鼻を掠めた。
「おはよう、啓介君。昨日、川で溺れたんだって?」
「だれが?」
「……君が」
「へ?おれが?」
「昨日、涼介君と蛍を見に行ったっておばあちゃんから聞いたよ」
「あ!ホタル見た!すっげーいっぱいいた!」
「うん、山で蛍を見たんだね。それで、川に落ちたことは覚えてないかな」
「落ちてないよ。おれ元気だし」
啓介の言葉を受け訝しげに体温や血圧を計り、視触診を行った彼は「健康そのものだね」と苦笑した。
「問題ないみたいだけど、今日は一日おとなしくしていようか」
「えー、やだ!おれ元気だってば!」
「念のためだよ。様子を見て問題なければ、明日から遊びに行ってもいいからね」
「啓介。お医者さんの言うことはきちんと聞くものでしょう」
「……ちぇ。わかったよ、ばーちゃん。おれ、今日は家にいる」
「ええ。いい子ね」
むくれた啓介の頭を撫で、祖母が立ち上がる。
「早くからありがとうございました」
「いえいえ。何かあったらすぐ連絡ください。お大事に」
大きな往診鞄を手に、医師は隣村へと戻っていった。
「ばーちゃん、にーちゃんは?」
「畑に行ったよ。ほら、朝ごはん食べなさい」
へーい、と生返事で洗面所へ向かう啓介は浴衣を思いきりはだけさせ、もはや布の塊を帯で身体に巻き着けているような状態だ。
昨夜きつくない程度にきちんと着付けたつもりだが、啓介の寝相には敵わなかったということか。もう少し工夫が必要ね、と祖母は一人頷いた。
「涼介」
すっかり手慣れた畑仕事の最中。自分を呼ぶ声に顔を上げると、祖母が勝手口から手招いている。そろそろ昼食の時間だろうか。
祖母に続き勝手口から台所へ上がると、朱塗の一段重箱と日本酒の一升瓶が鎮座していた。
「山で会った女の子のこと、話してくれたわよね。あの子のところへ、これを持っていってちょうだい」
「僕、一人で?」
「おばあちゃんは、もう会えないの。気付いた時には、姿を見ることができなくなって。涼介と啓介が、あの子に会えるなんて思わなかった」
重箱と一升瓶をそれぞれ風呂敷で包みながら、祖母が話してくれた。ずっと昔から山を、村を守り豊穣を司る存在。社に祀られている狐――いや、ひとのかたちをした〈狐〉のことを。
彼女はやはり〈人〉ではなかったのだと聞かされ、驚きはしなかった。涼介はただ理解した。
「お酒は飲んじゃだめよ。水筒に麦茶を入れたからね。帽子も忘れないで」
「はーい。いってきます」
出掛ける前に啓介の様子を覗くと、うとうと微睡んでいるようだ。このままおとなしくしていればいいのだけど。
山へ入ると、探す間もなく彼女が現れる。うきうきと楽しそうな雰囲気を漂わせていると感じた。
「僕が来ること、わかってたの?」
「稲荷寿司と酒の、旨そうな匂いがしたのでな。待ちきれんかった」
涼介が持っている重箱と一升瓶を軽々持ち上げ「勿論ぬしの匂いも、判っていたぞ」と嬉しそうに促した。
階段を上り辿り着いた境内は初めて来た時と同じように暑く明るく、濃い緑色が茂っている。
回廊に腰掛け、麦藁帽子を傍らに置くと彼女が「弟はどうしている」と問うた。
「だいじょうぶ、元気。でも今日は寝てなきゃだめだってお医者さんに言われて。きっとたいくつしてる」
「だろうな」
二人同時に、苦笑を滲ませた笑みが漏れる。
「これを返しておこう」
彼女が懐中電灯を差し出した。受け取ったそれには、啓介の字で『たかはしけいすけ』と記されている。昨夜、涼介が川縁で落としたものだ。すっかり忘れていた。
「……啓介を助けてくれて、ありがとう」
「なんの。ぬしも無事で良かった。夜間、子供だけで山に入ってはいかんぞ」
「うん。もうしない」
背負っていたリュックへ懐中電灯をしまう。
彼女がどこからか取り出したのは湯呑み程の大きさの、白磁の盃。素朴な佇まいで、彼女の掌によく似合っていた。
きょろきょろと辺りを見回した涼介が「とっくり、ってないの?」と、一升瓶を包む風呂敷を解き始めた彼女へ問う。
「ああ、いや……普段はその……ラッパ飲み、というやつでな。行儀が悪い、という事は承知しているのだが」
きまり悪そうに肩をすくめた彼女はいそいそと一升瓶の封を切り、香りを楽しんでいる。
「僕がついであげる」
涼介が両手で一升瓶を受け取ると「ぬし一人では重かろう」と彼女の手が添えられた。二人でゆっくりと注ぐ。澄み切った液体でとくとくと盃が満たされていく。
「では、有難く頂こう」
顔の高さへ盃を掲げ、涼介へ微笑んでみせたかと思えばたちどころに一杯を飲み干し溜息を漏らした。
涼介が重箱の蓋を開けると彼女も覗き込み「こちらも旨そうだな。ぬしも食え」と勧めてくれる。
昔は幾人もの参拝客がここを訪れ、こぞって〈狐〉へ稲荷寿司を供えた。その中でも、田中家の作るものが一番旨かったのだそうだ。
重箱に詰められているのは稲荷寿司、漬物、煮物、卵焼き。彼女へ渡した一膳の箸は、迷うことなく稲荷寿司を選んだ。
涼介も「いただきます」と稲荷寿司へ箸を伸ばす。祖母が箸を二膳持たせたのは、供えるだけでなく一緒に食事をしてくるように、という意味があったのだろうか。
「……ねえ。本当に……きつねなの?」
「ああ。驚いたか」
頷いた彼女は稲荷寿司を嚥下し、続いて胡瓜の漬物をぽりぽりと齧る。しばし考えていた涼介はやがて首を振り、思い付いたように「きつねだからやっぱり、おいなりさんが好き?」と訊ねた。
「好きだが、我は何でも食べるぞ。そもそも狐は肉食の筈だ。他者を狩り、食べて命を長らえる。ぬしも、生物を食べるだろう」
魚や肉を――〈命〉をいただくことへの感謝。
「……人も、食べるの?食べたことある?」
「ああ。数百年ほど前だったか。山中で行き倒れた者を弔いがてらな。生きている者を襲うような事はせんかったが」
「今も……人を食べたいと思う?」
「いや。我等はモノを喰わずとも空腹を感じないのだ。食事は道楽だな。食物としてはこちらの方が断然旨いぞ」
稲荷寿司と漬物に続き、彼女は卵焼きを一切れ頬張る。祖母の作る卵焼きはしっとり黄色く、ほんのり甘い。
「ぬし、夢子の作る稲荷寿司を食べた事はあるか。あれも旨い、我の好みだ」
「……母さんはいそがしいから。家のことは全部、お手伝いさんがやってくれてる」
「左様か。味が途絶えてしまうのは実に惜しいのう。夢子に習い、ぬしも作れるようになれ」
「うん。帰ったら、母さんに聞いてみる」
「良い良い。子は素直が一番だ」
「僕、もうこどもじゃないよ」
「それはすまんかった。ではぬしも飲むか」
悪戯っ子のような笑顔を浮かべた彼女から向けられた盃へ恐る恐る鼻を寄せると、嗅ぎ慣れない酒の香りが鼻腔から脳天を貫く。
左右に首を振り「そこまでは大人じゃないみたい」と否定した。
「早く大人になりたいと願うか」
頷く涼介を横目に、盃をぐいと飲み干した。
「我の姿は直に見えなくなり、いずれ忘れる。それが、大人になるという事だ。これまで見える者は皆、そうしてきた」
「母さんも?」
「ああ、ぬしくらいの頃は毎日のように我と戯れたものだ。高等学校を卒業する頃、一人で村を出てな。それから暫く会えんかった。嫁入りの頃、男とここへ挨拶に来た事があってな。二人で酒と稲荷寿司を供えてくれたが、我の姿は見えんかったようだ。我はずっとここに、社の軒下に居たのだが。その何十年か前にも同じ事があった。ぬしの祖母にあたる者だろう。ヒトとはそういうものと、我は理解している」
忘れられることが、あたりまえなんて。僕は忘れないのに。
「ここに来る前、おばあちゃんが会いたいって言ってた」
「我の事を憶えているか。嬉しいものだ。継がれる血のせいか……見えやすい血があるのだろうな」
「僕のご先祖様はみんな、見えてたの?」
「見える者とそうでない者が居る。ぬしの母親と祖母の前には随分、見える者は居なかったのう」
僕の何代前のご先祖様だろう。おばあちゃんに聞いたら、知ってるかな。話してくれるかな。
「ぬしが酒を旨いと思える頃には、我の事など忘れているかも知れん。ヒトは我等と違い、忙しない生物だろう」
「……忘れられるって、さみしくないの」
「さみしい、か。そうだな。ぬしらに会うまで久しく忘れていた」
四季の移ろいを共に感じ、生まれ死んでいく生命を見守る。ヒトは脆く、儚く、美しく、愛おしい。狐が何百年生きようとも決して変わらぬ真理であった。
「ぬしが子を連れて来る時が楽しみだな。きっと、ぬしに似て聡明な子であろう」
「僕が結婚して子供が生まれて……?そんなの、まだずっと先だよ」
「なあに、ほんの数十年だ。我にはちいとも遠くない」
通り抜けた風に少しだけ、秋の気配。もうすぐ夏休みが終わる。彼女が静かに盃を置いた。
「戻って弟の傍に居てやれ。あやつ、寝小便癖が治らんうちは頼りにならんのう」
「……啓介がまだおねしょしてること、ないしょにして」
「相分かった。誰にも言わんよ。ぬしと我との約束だ」
「うん、約束。ゆびきりしよう」
差し出した小指に、彼女の白い指が絡められる。
「ゆーびきーりげーんまん、うーそつーいたらはーりせんぼん、のーます。ゆーび、きった」
涼介の声に彼女は目を細め「懐かしいな」と呟いた。誰と約束したんだろう。そっと手を離す。
「僕、そろそろ帰る。お酒、飲みすぎちゃだめだよ」
「ああ。馳走になったな。美味であったと伝えてくれ」
涼介が被り直した麦藁帽子のてっぺんをポンと叩いて彼女が笑う。
歩き出した背中へ「涼介」と声が飛んだ。彼女に名を呼ばれたのは初めてだ――振り返ると見つめられていることに気付き、どきりと心臓が強く動いた。
「ぬしら兄弟の心は強く結ばれ、替わりは居らん。これから先、歩む道が異なろうとも互いを大事にせい」
「……僕は、絶対忘れない!また来るから!今度は僕が、おいなりさん作って持ってくる!」
有難う。彼女の唇がそう動いたのは、きっと見間違いではない筈だ。
空になった重箱は随分軽い。涼介は風呂敷包みを振り回すように祖母宅へ駆けていく。
「ただいまっ」
「おかえりなさい」
「おいしかった、って言ってたよ。僕もいっしょに食べたんだ。ごちそうさま」
重箱を受け取った祖母は柔らかい笑みを浮かべ「ありがとうね」と頷いた。
「啓介が飽きちゃったみたいで、手に負えないのよ。相手してあげて」
啓介の布団周辺は今朝より随分散らかっている。チラシの裏に落書きしたり、紙飛行機を作ったり。啓介なりに退屈を紛らわせようとしていたのだろう。
涼介が「ただいま」と声を掛けると、寝転がっていた啓介はぴょんと飛び起き満面の笑みをこちらへ向ける。
「にーちゃんおかえり!遊びに行こ!」
「今日はおとなしく寝てないとだめだって、朝お医者さんに言われただろ?言うこときかないと、いたーい注射されちゃうぞ」
注射と聞いた啓介は真顔で口を噤み、おとなしく布団に身体を横たえる。
涼介は枕元に放られた絵日記やドリルを手に取る。ドリルはまだ手つかずのページが多いが、絵日記は毎日きちんと書いているようだ。
セミを取ったこと。スイカを食べたこと。畑で草取りをしたこと。大きなミミズを掘り当てたこと。木登りをしたこと。
意外なことに、どこをめくっても〈彼女〉のことは書かれていなかった。好都合といえる。
「啓介。あのひとに会ったことは、二人だけのひみつにしよう。できるか?」
「わかった!おれと、にーちゃんだけのひみつ!ばーちゃんにも、かーちゃんにもとーちゃんにも、だれにも言わない!」
目をキラキラ輝かせて頷く弟とゆびきりを交わす。まあ、話したところで誰も信じてはくれないだろう。子供の空想、戯言と取られるだけだ。
彼女が言ったように、自分達はいずれ彼女のことを忘れてしまうのだろうか。
眠ってしまった啓介に、ガーゼ地のタオルケットを掛けてやる。寝相が悪いから、きっとすぐに蹴飛ばしてしまうだろうけど。
ねえ、母さんは狐に会ったことを覚えてる?おいなりさんとお酒が大好きで、子供みたいに笑うんだよ。
人のかたちを取っているのに、時々、耳や尻尾が出てきちゃうんだ。白くてきれいな大きい耳と、ふさふさで何本もある長い尻尾。
『田中家の孫が狐を見た』という話は、狭い村中をあっという間に広がった。村人やその血縁者から〈見える〉者が出ることは、村にとってとても縁起が良いらしい。
訪れる人達は野菜や鶏卵などを兄弟宛に持参し、食事の際に少しで良いから口にしてほしいと申し出た。
「夢子ちゃん以来か。やっぱり、継いでたんだなあ」
仏壇へ手を合わせ、昔馴染みの郵便局員が呟く。
社へ訪れる者も多くなったと聞いた。賑やかになって、彼女が喜んでくれているといいと涼介は思う。
啓介の一件以来、梅雨のようなしとしと雨が数日続き、外へ遊びに行くことは出来なかった。
「あいつ、元気かなあ。おれらに会えなくて、さみしくないかなあ」
「平気だよ、きっと。ほら、ドリルは全部終わらせてくるって母さんと約束しただろ。もうすぐ夏休み終わっちゃうぞ」
「にーちゃん、教えて」
「自分で解いて、分からないところだけ」
「……けち」
鉛筆を噛み噛みドリルを睨む啓介へ「また二人で来ようか」と投げ掛けると、顔を上げて大きく頷いた。
「ゆびきり!」
テーブルを挟んで互いに手を伸ばし、ゆびきりげんまん。誰かと約束するって、嬉しいことなんだな。
兄弟が高崎へ帰る日。天候が心配されたが、朝からすっきりと晴れた。祖母が台所から声を掛ける。
「そろそろバス停へ行こうか。二人とも、忘れ物はない?」
「へーき!ドリルも全部やった!」
「おや、偉い偉い。これ、お昼に二人で食べなさい」
祖母から受け取った包みに鼻を寄せていた啓介が「おいなりさんだ!」と歓声を上げる。
「おれ、ばーちゃんのおいなりさんだいすき!すげーうまい!」
「僕も好き」
「そう言ってもらえると嬉しいねえ。簡単だから、夢子と一緒に作ってみたらどうだい」
「でもかーちゃん、料理しないからなー。練習したら、おれのほうがぜったいうまくなるよ!」
「楽しみだねえ。そうだ啓介、トイレは済ませたの?行ってきたら?」
「うん!」
バタバタと走る啓介を見送った祖母は、膝をついて涼介と目線を合わせ、両手を握った。
「涼介。あなたはお兄ちゃんだから、我慢することもあるだろうけどね。誰にも遠慮なんかしなくていいのよ。言いたいことがあるなら、きちんと伝えなさい」
皺ばかりで小さな祖母の掌は優しく、橙色の狐火を思い起こさせて何故か鼻の奥がツンと痺れた。
泣きそうだけど、泣いちゃいけない。お兄ちゃんだから。涼介は唇を真っ直ぐに結び、一度だけ頷いた。
赤い前掛けの地蔵が建つ祠の隣、村の入口のバス停。一日数本しか運行していない、市街地へ向かうバスがやって来た。客は乗っていない。
ここへ来た時と同じ、古ぼけたバスに乗り込んだ二人は最後列へ、靴を脱いで上がり込んだ。膝立ちで後方を見ていると間も無くバスが発車し、手を振る祖母がだんだん遠ざかっていく。
大きく振り返していた涼介の手が止まる。山の頂上に光を見たのだ。まるで〈彼女〉が身体を翻したように、視界の端でほんの一瞬。それは確かに白く煌めいた。
ふ、と涼介の唇に笑みが浮かぶ。再び、祖母へ手を振る。
帰ったら、母さんにおいなりさんの作り方を教わろう。誰にも負けないくらい、おいしいおいなりさんを作るんだ。
そしたらきっと、また来年。おいなりさんを持って、彼女に会いに行こう。その次の年も、次の次の年も。
彼女のことをずっと忘れたくないから。僕のことを――僕らのことを、ずっと覚えていてほしいから。
「啓介。帰ったらいっしょに、おいなりさん作ろうか。母さんに習ってさ」
「作る!おれ、ぜったいうまいの作るから!」
祖母の姿がすっかり見えなくなるまで。涼介と啓介はずっと、手を振り続けた。暑い夏を終わらせたくない、そう思ったのは初めてだった。
[白狐朱夏] END.
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2013/10/02 up.(メルマガ読者様限定 先行公開.09/30)
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