IRIS (2/2)
昨夜から降っていた雨は、午前中に止んでいた。賑やかな祭囃子、提灯の明かりが気分を盛り上げる。待ち合わせ場所は、家族連れやカップルでごった返す。約束の時間からおよそ5分が経過しようとしていた。
夢子のポケベルを鳴らすかどうか、一成は迷っている。公衆電話に向かう間に、すれ違いになってしまったら……。
この人込みの中、双方が動き回って互いを探すのは骨が折れそうだ。溜息を吐くと、軽く背中を叩かれると同時に「今川くん」と彼女の声が飛んできた。
「遅くなってごめん。臨時交番に行ってたの」
頬を上気させて『臨時警備派出所』の看板が立てられたテントを指した夢子は、一成にじっと見つめられていることに気付き「私、なんかヘン?」と問うた。
「あ、いや、浴衣だとは思わなくて……」
「自分でやったから、髪もあんまり手は込んでないけど。結構、カタチにはなってるかなって」
「に、似合ってます。すげー、キレー……」
「キレイでしょ?あやめ柄。この浴衣、気に入ってるんだ」
嬉しそうに笑った夢子はその場で右足を軸に、くるりと身体を回してみせる。きっちりと形作られた麻の帯に竹籠バッグが爽やかだ。
確かに浴衣もキレイだけど、誉めたのはそっちだけじゃない。一成は慌て、しかし何と言ったら良いのか皆目見当もつかず、結局「はい」と頷いた。
「なんか食べたいものある?奢るよ」
歩き出した夢子の足元で、黒塗の右近下駄が涼やかな音を立てた。
参道の左右にずらりと屋台が並ぶ。型抜き屋の前を通り過ぎようとした瞬間、不意に夢子が隣の一成へ抱きついた。
一成は驚くと同時に、柔らかさと香りに全身を包まれたように感じ、心地良さで気が遠くなりかけた。なんとか踏ん張り、意識を保とうと試みる。
混雑する中で通行の邪魔になるのではないかと周囲を見回すと、皆『仕方ないな』とでも言いたげな温かい視線を寄越してきた。
「あ、あの、夢子さん……」
「静かに」
心臓が破裂しそうな一成のことはお構いなしに「スリ眼の男が居る」と夢子が囁いた。
「す、すりがん?」
「獲物を物色してる。165センチ、75キロ、50代、黒髪刈り上げ、鷲鼻、灰色開襟シャツ」
一成を盾に身を隠そうとしているのか、ぎゅっと身体を密着させる。そのおかげで、一成は彼女の胸の柔らかさをこれでもかと言う程味わっている。
(これって、し、下着……つけてるのか……?)
硬直した一成がごくりと唾液を飲み込んだ。
「財布から現金だけ抜かれたら立証が難しくなる。現行犯でないと」
警察官である彼女の真剣な声色に、煩悩が一瞬で掻き消された。一成がそっと首を回して〈スリ眼〉の男を探す。
夢子が挙げた特徴と一致する男はすぐに見つかった。時折視線が落ちるのは、男性の尻ポケットの財布を狙っているからだろうか。
「尾行する」
「オレも行く。現場押さえて、逃げたら捕まえていい……です、よね?」
たどたどしい敬語で夢子へ確認すると、背中に在る彼女の指先に力が入った。
「――気をつけて」
「夢子さんも」
二人が身体を寄せて歩き出した。いちゃついているフリをして、徐々に男へ近付いていく。男のターゲットになったのは学生カップルのようだ。〈彼氏〉の尻ポケットからはみ出ている財布へ、男が手を伸ばす。
あっと思った時にはもう、二つ折り財布は男の手中に収まっている。まるで手品のような鮮やかで美しい手付きに見惚れてしまったように、一成は言葉すら出せない。
犯行現場を確実に目撃した夢子が駆け出した。それから一拍遅れて一成も。
「ニイチャン、財布スられたぞ!」
被害に気付かないでいる男性の肩を追い抜き様に叩く。一成の声で、犯人は追われていることに気付いたらしい。神社裏手へ逃げようとしている。夢子が背後から組み付き、二人が土の上へもつれるように倒れ込んだ。
体格の良い犯人は逃走せんと必死にもがいている。いくら夢子が〈警察官〉とはいえ、女性の力で拘束し続けるのは無理だ。ふくらはぎから膝が露わになり、浴衣が地面に擦れて――美しく咲いたあやめが泥に汚されていく。
夢子の拘束を振り解き、男は足をもつれさせながら走り出す。地面へなぎ倒された夢子が「止まれ!」と吼えた。しかし男は怯まない。
男の進行方向へ先回りした一成は、真正面から渾身の頭突きを喰らわせた。男の顎が鮮血と共に上がり、よろけたところを仰向けに引き倒す。胴体を両脚でまたぎ馬乗りになり、胸部を密着させてしっかりと抑え込む。柔道でいう、縦四方固の状態だ。
(夢子さんの温もりが……オッサンに塗り替えられていく……オッサンなんかと密着してどうすんだ……でもコイツを逃がしたら男が廃る!)
逃れようと手足をバタつかせる男へ「観念しろや!暴れっと折れんぞ!」と怒鳴る。騒ぎを聞き付け、野次馬が集まってきた。
黒い警察手帳を掲げた夢子が「警察です!」と声を上げると周囲が一瞬息を飲み、静かなざわめきが広がっていく。
「手荷物とお子さんには充分な注意を!」
もがき続ける男から視線を外さないまま、夢子は小型の無線機らしきもので〈会話〉を始めた。臨時交番に寄ったのはこのためだったのだろう。
間も無く人込みを掻き分けて制服警察官が二人、駆け付けてきた。一成に組み伏せられている男に手錠をかけ、あっと言う間に〈逮捕〉してしまう。
本物の手錠を見たのは初めてで、ドラマみたいだと他人事のように思った。〈犯人〉は両側から制服警察官に抱えられ、がっくりと肩を落としている。
「事情を聴きますんで、ついて来てください」
財布を盗まれたカップル、一成、夢子の四名を見回し、ぞんざいな口振りで制服警察官が告げた。
やがて一成達が辿り着いた駐車場では、警察官が数名行き来していた。
犯人は地味な国産セダン車へ押し込められている。おそらく〈覆面〉だろうと一成が推測した。警察署へ連行され、取り調べを受けることになるだろう。
覆面の他に、のっぺりとした灰色のバスが数台停まっている。どれも窓に金網が張られており、物々しい雰囲気満点だ。
その中の一台へ乗り込むよう促された。きょろきょろと車内を見回した一成が「このバスって、護送車?」と夢子へ尋ねた。
「機動隊の人員輸送車。護送車は窓の内側に鉄格子があって……逃走防止用ね。こんなふうに金網は装備してないよ」
ひそひそと話していると、扉から制服警察官が一人乗り込んだ。長身痩せ型で鋭い眼付きの、神経質そうな男。書類の束を抱えている。
「これから一人ずつお話を聴きますので、ご協力お願いします」
時間がかかりそうだ、と全員がうな垂れた。まずは被害者であるカップルの〈彼氏〉から、のようだ。
一成と夢子はバスの出入り口付近に並んで座った。お喋りもなんとなく憚られ、ただ無言で自分の番を待つことになる。
しばらくして「失礼します」と交通機動隊の制服を着用した男性が車内に姿を現した。制服警察官と二言三言交わし、出ていこうとする時。夢子は彼と目が合い、互いに「あ」と声が漏れた。夢子が立ち上がり頭を下げる。
「少年課の田中夢子です。交機の柳原さんですよね」
「ああ。……素敵な浴衣なのに、汚してしまって残念だったね」
「――いえ。逮捕、できましたので」
「そのかわりとは言えないけど、大物が釣れた」
「大物……ですか」
「スリの銀太、聞いたことない?国内外のスリグループを束ねる“伝説のスリ師”。君たちが捕まえたの、そいつだって。三課も組対も大騒ぎ」
ぽかんと口を開けていた夢子は「写真と顔が……!」と慌てだした。
「各地で盗みと整形を繰り返していたらしいから、ほとんど別人だっただろうね。判らなくても仕方ない」
「……あ、そっか。そうですよね……すみません……」
「耳は整形しにくい部位だから、次からはそこにも注目するといい。一人一人、形が違うんだ」
「はい。ありがとうございます」
「お手柄だったね。ご苦労さま」
敬礼する柳原へ、夢子も敬礼を返す。足早にバスを降りる柳原を見送り、硬いシートへ腰を落とした夢子は放心したように俯いた。
彼女は優秀な警察官。高校生のオレなんかじゃ到底、釣り合わない。警察官同士で付き合って結婚するってのが現実的なんだろう。いや、彼女が誰とどうしようが、オレには〈関係ない〉はずだ。…………オレ、どうしたいんだ?
「えーと、今川君」
一成が声の方へ目を向ける。制服警察官は指先で書面を叩き「キミさあ」と横柄に切り出した。
「頭突きはやりすぎ。相手、少量とはいえ出血してるんだよ。“暴行”と捉えられてもおかしくないって、わかるよね?」
「……ナンだと?」
「待ってください!逃亡と証拠隠滅のおそれがあったんです。それを彼が必死に拘束して……あなたたち、見てたでしょう?」
夢子が慌てて立ち上がり、カップルへ問いを向ける。二人は頷き「その人たちのおかげです」と答えた。
「犯人取り押さえるなんて、生安の“女の子”にはムリって事でしょ。……まぁ今回はキミ、特別にお咎めナシだけど。今度からは気をつけてね?」
恩着せがましくねちっこい口調に一成が舌を打つ。やっぱりマッポなんていけ好かねぇヤツばっかりだ。
一時間程度の『事情聴取』を終えた四人がバスから降りる。ぐったりと疲れてしまったカップルへ「ご協力ありがとうございました」と夢子が頭を下げた。
「捕まえてくれて、ありがとうございました。これからは気をつけます」
「ええ。お祭り、楽しんでくださいね」
手を繋ぎ会場へ戻る二人を見送り、夢子が小さく息を吐く。
「ごめんね。せっかくのお祭りだったのに、巻き込んじゃって……」
はらり、一筋落ちた髪をかき上げた夢子が俯いたまま「帰るね」と呟いた。まるで何もかもを諦めたような声で。彼女の手首を掴み「謝ることねぇよ」と、自分で思っていたよりも強い口調で一成が言い切る。
こちらを見上げるふたつの瞳を見つめ返す。照れくさいとか恥ずかしいとか、少しも感じないことが我ながら不思議だ。
「昔っからマッポ嫌ェだけど……夢子さん、スゲェかっこよかった。勝手に首突っ込んだのはオレだし、夢子さんは警察官の“職務”ってヤツに忠実なだけだろ」
「今川くんのおかげだよ。私一人じゃ、目の前で取り逃がしてた。ありがとう」
「……いや……オレは……」
「ねえ、今度は海に行こうか」
夢子はただの〈思い付き〉をそのまま口に出した。狼狽えるように瞬きを繰り返す一成を見遣り「海、嫌い?」と問う。
「いや、す、好き……」
「良かった。私、車出すよ」
「……夢子さん、またオレと会ってくれんの」
「今日のお詫びというか、仕切り直しかな。もちろん今川くんが良ければ、だけど」
「いいも何も、オレは夢子さんと一緒ならどこでもいいっつーか……!」
夢子が「ありがと」と笑った後、花火が上がった。夜空に咲く大輪の花々を二人で見上げる。
「向こうの方がよく見えそう。あっち行こうか」
身体に響く花火の音に負けじと、夢子は一成の耳朶へ唇を寄せた。手を繋いだ二人が人の流れに乗って間も無く、背後から「ドロボー!」と、女性の悲鳴めいた声が上がる。
振り向くと、人込みを掻き分けてこちらへ慌ただしく走ってくる一人の男が見えた。右手の巾着は、女性から盗んだものだろう。どちらからともなく手を離し、ほぼ同時に〈犯人〉へ向かって駆け出した。きっと、二人とも考えるよりも早く身体が反応したのだ。
「大人しくお縄につけや!」
怒号に近い声を上げ、男の下半身目がけて一成が組み付いた。
「オレぁ今燃えてっからゼッテー逃がさねぇぞ!覚悟しろォ!」
大捕物の結果、一成と夢子は本日二度目の〈人員輸送車〉へ招待されることとなる。
[IRIS] END.
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※用語の説明 #
2014/03/19 up.
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