五月の詩 (1/2)
オレは五月に恋をした。


大学構内、本館掲示板前に豪が立っている。履修登録も終わり、そろそろ本格的に講義が始まる頃だ。〈約束〉の時間にはまだ早い。どこで時間を潰そうか、視線を巡らせる。

視界の端を横切った二人の男が、女性へ声を掛け始めた。サークル勧誘、またはそれに見せ掛けたナンパだろう。構内に新入生が溢れるこの時期、特別珍しい光景ではない。かくいう自分も新入生だが、彼等の目的は何も知らない〈女〉を釣ることのようだ。

「ねえ、イベサーとかキョーミない?いろんなガッコと交流するから、友達いっぱいできるよ」

「……いえ、あの……」

「見学だけでも歓迎だからさ、これから部室おいでよ。キミみたいなコに入ってほしいなあ」

「えと、だいじょぶです……」

漏れ聞こえてくる彼女の声は頼りなく弱弱しい。なんて断り下手なんだ、と豪はある種の驚きさえ感じた。

ぐいぐいと腕を引かれ〈部室〉へ連れて行かれそうな彼女が、困惑したように首を振る。こんなもの、誘拐と変わらないじゃないか。無性に腹立たしさを感じた豪は舌を打ち、三人の元へ早足で近付く。男の手首を掴み「スイマセン」と発した。

「これからこいつと自動車部に行くんで、離してもらえますか」

「……チ、男連れかよ」

「行こうぜ」

興味を失くしたように、二人がこちらへ背を向ける。やっぱり、こいつら誰でも良かったんじゃないか。被害を免れた〈彼女〉がおどおどと豪を見上げた。――成程、これはチョロそうだ。彼等がターゲットに選んだのも頷ける。

「あの、」

「嫌なら嫌って言え。騙されるとこだったかもしれないんだぞ」

「……ごめん、なさい……」

「……いや。あんたを責めるつもりは無いんだ、悪かった。……オレ、北条豪」

田中夢子です。ありがとうございました」

「ああいうのはどこにでも居るからな。構内だからって油断するなよ」

「気をつけます。あの……北条くんは、自動車部に入るの?」

「豪でいい。知り合いが居るんで、挨拶しに行くんだ。入部は考えていない」

「そうなんだ……」

田中、クルマに興味あるのか?」

「ん……うん……。まだ免許、持ってないんだけど……。いつか、自分で運転してみたいって思ってるの」

小さな夢を打ち明けるような彼女の表情は明るく、眩い新緑を思わせた。清涼な風が一筋、身体を通り抜けていくようだ。携帯電話が震えていることに豪が気付く。発信者は約束の人物、自動車部の知り合いだ。

「ああ、オレ。……今、本館。これから向かう」

手短に通話を切り上げ、彼女へ目を遣る。唇に薄っすらと浮かぶ、柔らかな微笑。豪の胸中静かに灯る、陽だまりのような温かさ。

「……それじゃあ。そのうちまたどっかで会うかもな」

「そう、だね。……あの……私、豪くんのこと名前で呼ばせてもらうから……、豪くんがよかったら……」

「わかった。――またな、夢子

名残惜しさを感じながら背を向ける。もっと、彼女と話していたかった。クルマのこと、サーキットのこと。内容なんて、なんでも良かったのだけど。

彼女に少なからず興味を持ったし、同時に興味を持たれたいと思った。また、会えるだろうか。




一段と緑が濃くなった五月の夕暮。

図書館前を通り掛かると「豪!」と友人と思しき声が飛んできた。顔を向けると、予想通り友人が手招いている。彼へ近付くと「豪の家ってさ」と切り出した。

「国内外のクルマ雑誌、バックナンバーも一通り揃ってるんだよな?」

「ああ、親父のだけどな」

田中が見たいって言ってんだけど、貸してやってくんねーかな」

「いいぜ」

「サンキュー。おーい田中!豪が貸してくれるってよ!よかったな!」

図書館出入口から夢子が転げるように駆けてくる。豪の眼前で急停止した夢子は「豪くん!」と切羽詰まった声と共に顔を上げた。

「こ、ここ、車の雑誌あんまりおいてなくて!そしたら豪くんちにあるって聞いて!キレイに読むから貸してくれないですか!」

「わかったから落ち着け、夢子

「んじゃ豪、俺部活行くからあとヨロシク」

「おう」

「自転車部、がんばってねー!ありがとー!」

手を振る友人を見送り、豪は夢子へ視線を移す。

「オレは帰るとこだけど、夢子は?」

「私も」

「じゃあこれからウチ来るか?雑誌、気に入ったやつは持っていっていいから」

「ありがと、嬉しい!遠慮なくおじゃまします!」

連れ立って駐車場へ向かう道すがら「バイト始めたんだって?」と尋ねた。

「そー。居酒屋さん、ゼミの先輩から紹介してもらったの。免許取るのにお金貯めたくて……。合宿教習って二週間くらいらしいし、夏休み中に行けたらいいなあって」

「楽しみだな」

嬉しそうに頷いて夢子が笑う。きらきら光る若葉みたいな笑顔を直視出来ず、豪はさり気なく視線を外す。


やがて一台の車の前で豪が足を止めた。つられて夢子も立ち止まり、豪の〈愛車〉をじっと見つめる。直後、車体正面から〈視線〉の高さを合わせるようにひょいとしゃがみ込んだ。

「豪くん。この車、日本の……?」

地面付近からの問いに「ああ」と答えた。

「NSX。聞いたことないか」

「んー……えーと……なんて言うか、ひらべったいね!」

「褒め言葉として受け取るよ」

苦笑を滲ませた豪が助手席のドアを開けて夢子を促す。ぱっと立ち上がり、大人しくシートに収まった夢子は物珍しそうに車内を見回した。

走り出してから、シフトノブに左手を掛けるたび視線が刺さるのを豪は感じている。例え少量でも興味を持ってくれていることが嬉しかった。

「免許取ったら運転してみるか」

「いいの?自分で運転できるなんて夢みたい」

「勿論。普通免許、取るんだろ?マニュアル車の方が運転は楽しいぜ」

言語化し難い(恐らく驚嘆を意味するであろう)声が上がり、助手席の夢子が黙り込んだ。

「……限定で取るつもりか」

「だって、オートマのがちょっと安い、し……ちょっと早く取れる……」

「早いったって合宿教習なら二、三日の違いだろう。差額くらいオレが出してやる」

「そんな、悪いよ……」

「乗りたい車が決まってないなら、オレはマニュアルを勧めるよ。今後の選択肢を狭めないためにもな。……まぁ、今すぐってわけじゃないんだ。考えておいてくれ」

わかった、と夢子が呟いた。その声には、幾つかの覚悟を含んでいるように豪には感じられた。


邸内へ招かれた夢子は感心したように「豪くんのおうち、おっきいねえ」と溜息を吐いた。直後、傍らで吹き出した豪を不思議そうに見つめる。

「……私、へんなこと言った?」

「いや。小学生の頃、クラスメイトから全く同じこと言われたのを思い出した」

「小学生レベルってことかな……」

「気にするな。こっちだ」

夢子を連れ、父の書斎へ足を踏み入れた。室内照明を点けた豪が「入れよ」と夢子を振り向く。

「すごい、広いね!図書館みたい!」

きょろきょろと室内を見回していた夢子が、棚からそっと一冊を抜き出しページをめくる。

「海外のもあるんだ。……やっぱぜんぶ英語……がんばったら読めるかな……」

「イタリア誌だぞ。イタリア語だろ」

「…………わざとだよ?」

「それは失礼」

抜き出した時と同様優しい手付きで、夢子が雑誌を棚へ差し戻す。真剣な眼差しで背表紙を見つめる夢子を、豪が何とは無しに視界に収める。たしか、貰い物の洋菓子があった筈だ。あれならコーヒーに合うだろう。二人分淹れてこよう、と思い立った時。

書斎の扉が開き、兄・凛が顔を覗かせたことに気付く。豪と視線を合わせた凛が気怠そうに「帰ってたのか」と呟いた。徹夜明けだろうか。

「大学の友達、雑誌貸すんで連れてきた。まだ親父に言ってないけど、いいよな」

「ああ、ただ飾っておくよりいいだろう。いらっしゃい、こんにちは」

雑誌を数冊抱えたまま立ち尽くす夢子は、凛から視線を外そうとしない。しばし見つめあった後、我に返ったように勢い良く頭を下げた。

「――はじめまして!おじゃましてます!田中夢子と申します!」

「ご丁寧にどうも。兄の凛です。豪と仲良くしてやってください、夢子さん」

「……はい……えと……ありがとうございます……」

「それじゃ、ごゆっくり」

ぱたんと閉じられた扉を呆けたように見つめる夢子は、明らかに動揺している。

「どうした?顔赤いぞ、夢子

「へ、へーき!なんでもないから、全然……気に、しないで……ください……」

気にするなと言われても、赤面の程度も慌てぶりも尋常じゃない。まさか――夢子は兄を相手に、恋に落ちたのだろうか。もしそうだとしたら、非常に不愉快だと言わざるを得ない。

「……コーヒー、淹れてくる」

ぶっきらぼうな口調になってしまったが、夢子は気に留めていないようだ。ぱたぱたと右手で顔を扇いでいる。

後ろ手に扉を閉め、豪が唇を結んだ。こんなこと――兄のせいで自分の気持ちに気付くなんてことが――あっていいのだろうか。オレは五月、夢子に恋をしたのだ。



五月の詩 (2/2) #

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