姉模様 (2/2)
今日は思っていたよりも早く帰宅できた。運転席からリモコンを操作しガレージのシャッターを開けると、姉用の駐車スペースは空っぽだ。

どうやら最近、彼氏ができたらしい。告白され、断る理由もないので『友達からってことで』付き合い始めたそうだ。

仕事帰りにデートだと言っていたから、遅くなるのだろう。酒癖が異常に悪いってことがバレなきゃいいけど。いつものようにボディを軽く拭いてから、ガレージの照明を落とした。


ダイニングテーブルで書きものをしている母へ「ただいま」と声を掛ける。

「おかえり。すぐ食べる?」

ああ、と答えながらジャケットを脱いだ。


食後の熱い緑茶をテーブルへ置いた母が声をひそめて「夢子、今度の人とはどうかしら」と口にした。

「どうって」

「長続きすると思う?」

「さあ」

そろそろ誰かもらってくれるといいんだけど、と母が細い溜息を吐いた直後。玄関が開いたことにダイニングの二人が気付き、互いに顔を見合わせる。父は先週から出張中だし、帰るコールが母との約束の筈だ。

「……ただいマキバオー……」

やがて弱弱しい声と共にリビングのドアが開けられた。

「おかえリバーサルポイント、っておまえ顔死んでるぞ。今日デートだったんだろ」

「またフラれた…………」

夢子は力なくソファに座り、がっくり肩を落としている。

立ち上がり近付くと、負のオーラが全身から漂っているように感じられた。油断すれば飲み込まれてしまいそうな、危うい深度を湛えている。

「……向こうから告っといてフるとか、意味わかんねーな。そんなの、さっさと忘れろ」

うな垂れてくぐもった声は「ドライブつれてけ」と言っているようだ。

「どこ行く?甘やかしてやるから光栄に思え」

背後から手を伸ばし、くしゃくしゃと髪を撫でる。顔を上げた夢子はじとり、こちらを見遣り「どこでもいーよ」と立ち上がった。

「着替えるか?メシは」

「帰ってからでいい」

鞄を持って行かないのは、ごく短時間の助手席ドライブがしたいだけなのだとオレは知っている。姉との暗黙の了解だ。

「気をつけて行っておいで」

声を掛けてくる母に「行ってくる」とだけ返し、コート掛けのジャケットを手に取った。鍵はポケットに入れたままだ。

ガレージへ行くと、夢子が助手席側に佇んでいる。ロックを解除した途端、「痛っ」と声が上がった。

「どうした」

「……静電気」

むくれたように吐き捨て、助手席へ乗り込む。まずい、このままではドアを思いきり強く閉められてしまう。ドアを閉めようと伸ばされた夢子の左手が空を切り、まるで犯人を見るような目付きでこちらを見上げた。

「そのまま乗ってろ。閉めるぞ」

静かに閉めたドアの向こう、俯いた横顔に翳りを見た。

運転席へ腰を落とす。車内の空気はまだほんのりと温い。

「雨、降りそうだな」

独りごちてゆっくりとガレージを出る。夢子と一緒に、遠出でも用事でもない〈ただのドライブ〉をするのは久しぶりだ。

勝手にラジオを選局している夢子へ「そいつ、変わったことなかったか」と訊いてみる。

「うーん……あ、手ぇ怪我してたみたい。包帯巻いてたから、どうしたのって聞いたんだけど。なんにも話してくれなかった」

「へぇ。そっか」

その他にも聞きたいことが色々とあるけれど、夢子が話したい時でいいか。しつこく聞いたってキレるだけだ。

聴きたい番組が特別無かったらしく、選局を諦めた夢子は手足を放り出してぐんにゃりと助手席に座っている。それからしばらく黙り込み、ビルに映り込む車体を眺めていた夢子が「あたしさあ」と口を開いた。


「黄色い車がガレージにあるの、ヤだったのよね。イヤでも目ぇ行くし、自分じゃ絶対選ばない色だし。今はもう慣れたっていうか、気にならないけど。

しかもこれ買う時、あんた全部自分で出すって言い張ってさあ。ほんと、ばかだなって思ったわ。親を頼るって言ったらアレだけどさ、半分くらい出してもらえばよかったのよ。車なんて買っておしまいじゃないってのに、かっこつけちゃって。

そんであちこちイジってんだからキリないっての。お金幾らあったって足りないでしょ、車で遊ぶのって。

ああ――でもホラ、これってあんたの唯一の趣味……みたいなもんなのよね。車のほかにお金使うこと、あんまりないみたいだし。こんなんじゃ、あんたと付き合う女がかわいそすぎるわ。構ってもらえないだろうし、ぜんっぜんお金かけてもらえなさそうだもん」


誰に言うでもなく垂れ流されていく言葉には口を挟まないこと。少しは気が済んだのか、ふん、とひとつ息を吐いた姉へ問い掛ける。

夢子はそいつのこと、好きだったのか」

「……わかんないけど、これから好きになったかもしれないじゃない。今、好きな人にフラれてかなしいってより、まだよく知らない人にフラれたあたし、なんなのってかんじ。ばっかみたい」

あはは、と乾いた笑いが助手席から零れた。進行方向、真っ直ぐ前に視線を向けたままステアリングを握り締める。



「あのひとは、なにであたしを判断したのかな」

今にも泣きだしそうに震えた夢子の声は、雨模様の空と似ているように感じた。



「……明日早番だろ。そろそろ帰るか」

「はあ……。帰ろっか」

「ああ。帰ってメシ食って、ゆっくり風呂入って寝ろ」

「そだね。どんなにくるしくても、おいしいものたべてうんこしたらなおるよね」

赤信号で停車する。言おうか言うまいか逡巡し、「夢子。おまえ」と切り出す。

「職場でうんことか言ってねえだろうな」

「言うかばかやろう。姉貴を見くびってもらっちゃ困るよboy?」

「ムダに発音いいなババア。年の功か」

ぼそりと呟いた喉元を、夢子の左手が急襲する。細い指が的確に気道を塞ぎ、素直に「やばい」と感じた。運転席で咳き込む弟を眺めていた夢子は「参ったかクソガキ」と低い声で呟く。

「チョークて……反則だろクソ姉……。オレが運転してるってこと忘れてんじゃねえよ」

「HAHAHA!本気でやるかよ。喉輪落としブチかましたろか愚弟」

「おまえの体重でできると思ってんのか」

「えー……じゃあコブラクラッチでいい」

「じゃあって何だよ、意味わかんねえ」

「信号変わったよ」

「……わかってる」

大げさに肩をすくめた夢子は、窓の外へ視線を放る。助手席で僅かに髪が揺れた。



帰宅後。夢子は玄関を開けるなり、キッチンに居るであろう母へ「ただいまー」と大声を上げる。直後くるりと振り返り「風呂」と言い捨てた。

「先に入りなよ。あたしが入るまでに上がっておいて」

「オレそんなに時間かかんねえの、知ってるだろ」

「おなかすいたー、ごはんなにー」

弟の返答を聞きもせず、姉は靴を脱ぎ散らかしてばたばたと洗面所へ駆け込んでいく。

舌を打ちながら揃えてやったのは、昨年の誕生日に贈った通勤靴、兼運転靴。あまり日を置かずに履いているせいで、少々くたびれてきているようだ。足に馴染んで、気に入っているということでもあるけれど。さて、今年は何を贈ろうか。

いや、ここで長考していては夢子に見咎められる。そうなればチクチクと小言を寄越すに違いない。さっさと風呂に入ってしまおう。



「いやあ、いいお湯でしたなあ!」

洗面所から夢子の声がした(いちいち声が大きいのは習性だと思うことにした)。


「飲むか」

背後からスポーツドリンクのペットボトルを差し出すと、鏡越しに「あとで」と返ってきた。ターバンのようにタオルを巻き付けた夢子は、掌でぺちぺちと顔中を叩いている。恐らく化粧水で保湿しているのだろう。

「トリートメントは」

「ん、これから」

「じゃあオレがやってやる。ドライヤーもな」

「なに、どしたの。気ぃ利くじゃん」

「甘やかしてやるって言ったろ」

棚からアウトバストリートメントとドライヤーを手に取った。

「これ、テーブルに置いておくぞ」

ペットボトルを掲げると「おー」とふやけた声が返ってくる。



上手く殻を剥いたゆで玉子みたいな肌になった夢子が洗面所からやって来て、キッチンに立つ母へ「ねえ」と声を掛けた。

「ドライヤー使うよ、うるさいけどごめんね」

「いいから、早く乾かしなさい。風邪ひくでしょう」

「はーい」

ソファへ腰を落とし、頭に巻いていたタオルで水気を取っている。やがて「もういいや。はい」とこちらへ背中を向けた。

オイル状のトリートメントを温めるように掌で伸ばすと、ふわりと香りが広がる。夢子はこの香りが気に入って、ずっと使い続けているのだと言う。まだ濡れている髪をざっと二分し、毛束の中間から毛先へ手ぐしを通すようにといていく。

髪も肌も日頃の手入れを惜しまず、いつもきれいで在りたいと願うひとは――きっと、美しいのだと思う。

ペットボトルを傾けていた夢子がこちらを振り向き「ちゃんと髪から離してね。頼んだよ」と念を押す。

「おう」

これくらいのことなら、いつだってやってやるよ。ドライヤーのスイッチを入れ、風音で呟きを掻き消した。




ニュース番組を見るともなしに眺めながらソファにもたれ、市の広報紙をめくっていると――ふと背後に気配を感じ、緩慢に振り返る。

「そこの愚弟」

「なんだよクソ姉」

「今晩、腕貸しな」

「ホント素直じゃねえよな。腕枕してくれって言えばいいだろ」

「腕だけくれてもいいんだぞ」

「鬼か」

山賊のような野太い笑い声を上げ、姉がリビングを後にする。その際、洗濯物を畳んでいる母へは「明日早いからね、おやすみ」とごく普通に声を掛けていた。

ソファから立ち上がり「まだ眠くねえよ」と不満を呟きながら洗面所へ向かう。渋々歯ブラシを手に取った。歯磨き、フロス、デンタルリンス。一日を締める決まりみたいなもの。



二階、自室の隣。姉の部屋のドアをノックすると間も無く「入りたまえ」と偉そうな答えが返ってきた。

部屋へ入ると、夢子は姿見の前で仁王立ちになりコートを睨んでいる。ドアを閉めながら「なにしてんだ」と問うた。

「んー、明日雨っぽいからさあ。また寒くなりそうだし、ちょっと厚手の着てくかなーと思って。クリーニング出しといてよかったわ」

「女って毎日大変だよな、服とか髪とか化粧とか。ご苦労なことで」

「まあねー」

姉を横目に掛け布団をめくり、どさりと身体を横たえた。溜息と共に力が抜けていくことを心地良いと感じる間も無く「おいこら」と怒号が飛んでくる。

「真ん中占領しないでよ。あんた朝遅いんだから奥行って」

しっし、と手を払われ、壁側へ身体を寄せる。

明日のコーディネートが決まったらしい。隣へもぐり込んできた夢子は、ヘッドボードに置いてあるリモコンで灯りを消した。途端、真暗になった部屋。加湿器のタンクから時折、こぽこぽと水音が聞こえる。

「オレ全然眠くないんだけど」

「目つぶってたら眠くなるって。早寝早起き朝ごはんだよ。はいオヤスミー」

反論など聞く耳を持たない暴君は、弟の腕枕に乗せる頭のベストポジションをもぞもぞ探っている。やがて「よし」と小声が零れた。それから間も無く、規則正しく深い呼吸が聞こえてきた。寝付きが良いにも程がある。

腕に触れる顎、首。羽毛の掛け布団より柔らかな二の腕。逃げ場の無いシングルベッドで、二人は互いを温めるように身体を寄せ合っている。

密着せざるを得ない状況を作り出したのは夢子だ。オレのことはただの〈温かい抱き枕〉程度にしか思っていないのかもしれないけれど。

姉を――夢子を守るためなら、オレはきっとなんでもするだろう。





ヘッドボードで携帯電話のアラームが鳴っている。痺れた腕を持ち上げて電子音を止めた。直後、さあさあ、しとしと、雨音が聞こえることに気付く。天気予報は大当たり。

昨日よりもだいぶ寒いな、と肌が感じている。一雨ごとに着実に、冬が足音も無く忍び寄ってくるようだ。冷え症だと言う夢子が雪だるまのように着膨れるから、見ていて楽しい季節ではあるけれど。ふ、と片頬が上がる。

上体を起こすとベッドが軋んだ。壁の時計を見上げる。早番勤務の夢子は家を出た頃だろう。

立ち上がり、携帯電話のリダイヤルを探る。呼出コール数回も待たず繋がった途端、名乗りも相手の様子を窺うこともせず「例の件」と切り出す。

『――おう』

「手に包帯巻いてたって、夢子が心配してたぞ。見えるとこに傷作るなって言ったろ」

『全然、かすり傷だぜ。あいつが大げさなんだよ。被害届は出してないみたいだけどな』

「まあいいや、もう関係ねえし。お疲れさん」

『…………』

「なんだよ」

『いや、その……。執着、しすぎじゃないか?これで何人目だよ。夢子ちゃんだって、結婚――』

「そん時はそん時だ。また頼むわ」

『…………ああ。じゃあな』

通話を終えて放り投げた携帯電話を凹んだ枕が柔らかく受け止め、まるで抱擁みたいな音を立てた。


ガサツで口が悪く、外面だけは妙に良いオレの姉、夢子。彼女にだけは知られたくない〈秘密〉を、オレは一生背負うと決めたんだ。

カーテンを開けると、雨音がこれまでよりも強くなった。夢子の涙雨でないことを願う以外、オレに何ができるだろう。





[姉模様] END.

姉模様 (1/2) *

お題:失恋

2013/12/12 up.


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