青空、稜線、筑波山。(1/2)
自分の苗字と晴れた日が大嫌いだった。
登下校や買物で近所を歩いていると、必ずと言っていい程声を掛けられる。
『あら〜こんにちは、城島さんのお嬢さん。先生によろしくね』
恐らく、近所に住む"誰か"。私が相手を知らないのに、相手は私を知っている。
咄嗟に作った笑顔は、卵の薄膜のようにべたりと張り付いてひどく不愉快だ。それを指先で剥がしながら、夢子は自宅の看板兼表札へ一瞥を投げた。
うちは茨城の片田舎で小さな病院をやっている。両親共に医師で、内科や小児科を診る病院。
なんとなく体調悪いかなーってときに、とりあえず行くような"町のお医者さん"。
地域に根差した城島医院の一人娘――それが私の肩書きだ。
院長である父は厳しいひとで、染髪も化粧もピアスもバイトも夜遊びも禁止されている。帰宅が門限の午後6時を過ぎるようなら、必ず連絡を入れること。
口を開けば「学生は勉強が本分」と諭すように言ってくる。
……いつからか、私はそんな父を苦手と感じるようになっていた。きちんと目を合わせて話をした最後はいつだっただろう。随分前のことのように思う。
その日も朝から晴れていて、私はひどく憂鬱だった。
連日猛暑だ酷暑だとテレビが騒ぎ立て、うちに熱中症の患者が運び込まれることも度々あった。
待ちに待った夏休み、のはずが……私のクラスは"進学コース"だから、毎日のように講習がある。
本当は行きたくないけど、サボると後々面倒だから仕方なく――ああ、勉強なんてしたくない。
「いってきまーす」
「夢子」
玄関のドアを開けようとした時、背中へ父の声が飛んだ。振り返った夢子は真っ直ぐに自分を見る、白衣姿の父と視線を交錯させた。
「帰りは何時だ」
「講習なら、お昼で終わるよ」
「それなら1時までには帰ってこられるな」
「……お昼、食べてくるかもしれないし」
「誰と、どこで」
「まだ決めてない」
「そうか。決まったら……」
「携帯にメールする。いってきます」
夢子は父の言葉を遮るように――いや、父から逃げるように玄関を飛び出した。
途端、突き刺さるような陽射しに目が眩む。夢子の心とは対照的な、夏色に澄んだ空。
こんなに晴れて、いい天気なのに。私は何が気に入らないのだろう。
不意に心の奥で虚しさを感じ、夢子はそれを吹っ切るように早足で学校へ向かった。
「夢子、ごはん食べに行かない?」
退屈な講習が終わった途端、前の席から声が飛んだ。
「いいよ。どこ行く?」
「う〜ん……何食べよ。パン?麺?米?……あ、電話ぁ」
彼女は携帯電話を取り出して通話を始める。
夢子が鞄にノートとテキストをしまい終えるのと同時に、彼女は照れ笑いを浮かべたまま頭を下げた。
「夢子、ごめ〜ん。カレシが校門とこ来てるみたい」
「良かったじゃん。すぐ行かなきゃ」
「それより、夢子はどうなの?」
「どう、って……何が」
「好きな人とか、いないの?」
「全然いないねー。出会いもないし」
「確かに出会いはないよね〜」
「いや、もう出会わなくていいでしょ。彼氏待ってんじゃない?」
「あ、そーだ。ゴメンね!」
「はいはい」
苦笑しながら友人へ手を振った。どこかふわふわとした足取りで、彼女は教室を後にする。
恋人が絶えたことのない彼女を、特別羨ましいと思ったことはない。
彼氏がほしいとか、恋愛がしたいとか――そういうことを、自分は望んでいるわけではないのかも知れない。
恋愛禁止と明確に言われているわけではないけれど、無言の圧力めいたものは感じている。
――私は、こんな時まで父の"言葉"に縛られている。
机に置いた鞄に視線を落とした。寄り道せずに真っ直ぐ帰れば、自宅に着くのは12時40分頃だろうか。
夢子は鞄から携帯電話を取り出し、受信メールの[家族]フォルダを開く。父から送信された、ひどく事務的な文章が並んでいる。
なんか、家に帰りたくないな。
溜息と携帯を鞄へ放り込み、硬い椅子から勢い良く立ち上がった。
ジリジリと肌を焦がす太陽。
「あっつ〜……」
なるべく日陰を選んで、夢子は黙々と歩き続ける。
しばらくしてたどり着いたそこは、街外れに在る建物。時代に取り残されたような古びれたゲームセンター。
自動ドアを開けると冷気が全身を包み、熱と暑さと汗が引いていく。
周囲に客が居ないことを確認すると、夢子はそそくさと一つの筐体へ近付いた。お目当てはダンスゲーム。
最新版がリリースされたために誰にも見向きされない旧型筐体は、先月から店内の隅に追いやられている。それでも健気にデモ映像を流し続けていた。
どうか撤去されませんように、と祈るように呟きながら、夢子は100円玉を投入した。
4曲分を踊り終えた夢子がエンドロールを眺めながら悦に入っていると、パチパチと手を打つ音が後方から上がった。
驚いて振り向いた夢子は、こちらへ拍手している中年男性を目にする。彼は心底感心したといった表情で「巧いんだな、お嬢ちゃん」と賛辞を呈した。
いつから観られていたのだろう、もしやナンパだろうか、などと考えているうち、彼は筐体後方のバー付近まで近付いてくる。
容易にパーソナルスペースへ侵入された夢子は、彼と自分を遮るものを頼り無く思い――眉間に僅かな苛立ちを浮かべた。
しかし彼はそんなことなど気にも留めず、夢子へ問うた。
「昼メシ済んだか?」
「……まだです、けど」
「よかったら一緒にどうだい?この前できたカフェに行くつもりなんだ」
「……あの、すみません。……ナンパですか?」
警戒心と好奇心を半分ずつ含ませた声で夢子が問いを返す。彼はとんでもないとでも言わんばかりに目を剥き、大きく首を振った。
「オレがいくら女好きでも、高校生には手を出さない」
真顔で言うその人は、どう頑張っても悪い人には見えなかったから――だから夢子は、呆れるように笑って頷いた。
「そのカフェに、ごはん食べに行きましょう」
「お、そうこなくちゃな」
彼は笑い、近くの駐車場に車を停めてあると手短に言った。
薄暗い駐車場の中で確かな存在感を持つその車は、夢子の視線を釘付けにした。
「――34R」
夢子がぽつりと呟いた言葉を聞き、彼は驚いたように「ほう」と息を漏らす。
「知ってんのか。車には興味ないと思ってたぜ」
「はい、正直よく分からないです。でもGT-Rだけは、何て言うか……特別なんです」
「それは嬉しいねぇ」
本当に嬉しそうに――まるで秘密を共有する特別な人間と出会ったように笑って、彼は助手席のドアを開ける。
「さ、乗ってくれ」
やっぱり悪い人じゃないんだな、と夢子は根拠もなく確信した。
「名前、聞いてなかったよな。オレは星野好造」
運転席から朗らかな声。夢子は少し考えた後、自分の名前を口にした。
「――夢子です」
「苗字は?」
夢子は静かに首を振り、拒否の意を示す。
自分の苗字が嫌い、などという子供じみた理由を口にすることは躊躇われた。
「それじゃ、オレが苗字当ててみようか」
そんなことできるわけがない、と開きかけた夢子の唇は凍り付く。
「城島。城島夢子だろ」
恐らく彼は知っている。私が"城島俊也"の娘であることを。彼は誰で、私の何を知っているのだろう。
助手席で身体を強張らせる夢子を見遣り、彼はそっと笑んだ。
「確かに城ちゃんの娘だな。似てるよ、城ちゃんに」
「喜ぶべきですか?」
突っぱねるような口調は自分でも棘があると夢子は思った。――彼は、気を悪くしただろうか。
「なるほど。嫌いか、父親が」
しかし予想に反して満足そうに笑っている。自分の強がりなど、ひどく幼稚なのだと思い知らされた。
街中の景色は太陽に照り付けられて凶悪な輝きを持っている。
「……嫌いじゃ、ないです。両親のことは尊敬してますし」
「尊敬ねぇ。城ちゃん喜ぶだろうな」
何と返すのが適切なのだろう。夢子は俯いて唇を結んだ。
「知りたくないか?昔の城ちゃんのこと」
彼の言葉に顔を上げる。運転席から投げ掛けられたそれは、ひどく魅力的な誘惑だった。
→青空、稜線、筑波山。(2/2) #
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