いろはもみじ (2/2)
ガイダンス、履修登録、サークル勧誘などなど。入学式から慌ただしい日々が続いていた。いろは坂へも頻繁には通えず、〈彼〉にもあまり会えていない。

講義が始まるまでに、一度行っておきたい。そう思いながら、学生用駐車場で待たせている愛車のロックを解除する。

ドアを開けようとしたところへ「ちょっといい?」と声を掛けられた。振り返ると男性が一人、紙の束を手に立っている。

「急にごめんね。うち自動車部なんだけど、興味ないかな。エボ乗りも居るし、初心者さん大歓迎だよ」

「自動車部……ですか」

「うん、そう。サーキット走ったり競技会出たり、他校と交流ってのもあるけど、自分で車の整備とかできるようになりたいと思わない?部室がある建物は新設でキレイだし、優秀な先輩達がいるから各科目の試験対策もバッチリ。きっときみの役に立てると思う」

爽やかな笑顔と早口でグイグイ〈入部〉を迫る男性に困惑しながら「すみません。少し考えさせてください」と断りを入れる。

「もちろん!はいこれ、チラシ。時間あったら部室にも遊びに来てね。平日ならいつも誰か居るからさ。いい返事、期待してるよ」

紙の束から引き抜いた一枚のチラシを夢子へ押し付け、彼は足早に去って行った。次のターゲットを探すのだろうか。

照明を頼りに部員や活動紹介、走行会の日程などを見ると、主に県内のサーキットで〈活動〉しているとのこと。

先程声を掛けてきた男性は、副部長こと『白煙番長』。どうやら同じ学部の先輩らしい。キリッとした顔写真と目が合ったように思う。

意味はよくわからないけれど、なんとなく楽しそうだな、と息を吐いた。



「おう。ひさしぶりだな、夢子

明智平駐車場で、夢子と愛車を迎えたのは清次だった。

「ひさしぶりー。みんな元気?」

「あいつら見りゃわかんだろ」

清次が顎で示した先、数人がこちらへ手を振っている。それを目にした夢子は笑んで、大きく手を振り返した。

ほとんど空になっていた缶コーヒーを飲み干した清次は、夢子が持っている、二つに折り畳まれた紙に目を留める。

「なんだ、それ。チラシか?」

「うん。大学の駐車場で勧誘されたの。自動車部だって」

チラシを広げて清次に手渡した。傍を通り掛かった京一も、一緒になって覗き込んでいる。


「オレ知ってるぜ。結構有名だよな、ここ」

「ああ。何度か走行会で見掛けたし、雑誌にも活動報告が載っているだろう」

「どうするんだ、夢子。入部するのか?一人で大丈夫かよ」

「迷ってる……かな。初心者歓迎、とは言ってたけど……私レベルで参加してもいいものかどうか……」

「最初は皆初心者だ。視野を広げるには丁度いいんじゃないのか。経験を積めるだろう」

夢子はまだサーキット走ったことないだろ。楽しいぜ」

「うーん……大丈夫かなあ……」

「俺達では教えられないこともあるだろうしな。人脈を作ったり、学生生活を楽しむことも必要だ」

メンバーに声を掛けられた京一は、二人へ背を向けてその場を去った。京一の背中を見送りながら、清次が呟く。

「ちゃんと記録に残るようなところで、お前の力を発揮してほしいと思うぜ。……まあ、ここでムチャしてるオレが言うのもなんだけどな」

夢子と視線を合わせると、清次はチラシを突き付け「たまにはこっちにも顔出せよ」と笑った。

「……あったりまえだよー!」

チラシを受け取りながら笑い返したけれど。声が震えそうになるなんて、変だな。嬉しくて泣きそうになるのも、ほんと、変だな。今日の私、なんか変。

「あー、喉乾いちゃった。私もコーヒー飲もうかな」

自販機へ視線を向けながら目元を拭った夢子は平静を装って振り返り、清次が持て余している空缶を指差した。

「それ、カラでしょ。捨ててくるからちょーだい」

「悪いな、夢子

「いいってことよ。ついでついで」

空缶を手に駆け出した夢子は「あぶなかった」と呟いた。もう少し一緒に居たら、たぶん涙出ちゃってた。


自販機の横に備え付けられているダストボックスへ空缶を放り込もうとして、一瞬、手が止まる。

これ、私が口つけたら間接キスかな。……いやいや、それはさすがに、超えてはいけない一線だろう。さすがに。でもバレなきゃ、

「何を考えている、夢子

頭上から降ってきた声に驚き、手から缶が離れていく。あっと思う間も無く、カランと高く軽やかな音。ゆっくり振り返ると、そこには。

「……きょーいちさん……」

「そう睨むな。解りきったことを訊いた俺が悪かった」

硬貨が擦れ合う音、電子音、さほど重くない落下音。やがて眼前に差し出されたものは、今しがた夢子が放ったものと同じ缶コーヒー。

これは何か、と問いたげに自分を見上げる夢子へ、溜息と共に京一が答えた。

「詫び、といったところだな」

「なんか、楽しんでませんか?」

「何の事だ」

「……いえ、なんでもないです。いただきます」

よく冷えた缶を受け取った夢子は、ぺこりと頭を下げる。初めて会ったときも、京一さんに缶コーヒーをおごってもらったっけ。

「今度はサーキットでも会えるな」

「あ……京一さんも、走りに行くんですね」

「まあな。楽しみにしているぞ」

返答を待つでもなく、京一はそこから離れていく。夢子のことなど忘れてしまったかのように、こちらを振り向きもしない。

ふしぎな人だ、と息を吐いた夢子は缶のプルタブを起こす。清次と同じコーヒーを一口飲んで「苦っ」と顔をしかめた。




二人に背中を押されるように、夢子は自動車部へ入部を決めた。

チラシの案内図を頼りに部室を訪れると、数人の男性がなにやらカタログらしきものを広げて議論を交わしている最中のようだ。

入部したいのですが、と夢子が告げると、その場に居た全員が立ち上がり、盛大な拍手が沸き起こった。

どうしていいのかわからず固まっていると、一人の男性が近付いてきてしっかりと夢子の手を握る。先日声を掛けてきた副部長だ。

「ありがとう!大歓迎だよ!」

どうやら女性の入部希望者は珍しいらしい。「ついにうちの部にも女子が」「これで華が」と部室内がざわついている。

副部長は夢子へ「やっぱりオレの目は正しかった。待ってたよ」と『入部届』用紙を差し出した。


活動を続けるうちに女性部員も増えるだろうと思っていたが……結局、夏休みになっても夢子一人のままだ。

先輩達は「オレらの勧誘が足りなかったせいで、田中に寂しい思いをさせてしまう!」なんて嘆いているけれど。学内には男女問わず友達が居るし、寂しいと感じたことはなかった。

それに、チーム――『エンペラー』内での〈紅一点〉に慣れてきたせいか、男性陣の中に女性が自分一人でも気にならない。

講義の空き時間を潰す場所の選択肢が増えたこと(部室の居心地もいいし)、試験対策を伝授してくれる先輩が居ることはありがたい。

自分なりに活動を続けるうち、他校の女子部員と仲良くなれたことも大きな収穫だった。

世界が広がる、なんて言ったらオーバーかもしれないけど。自分としては、入部してよかった、挑戦してよかった、と思う。


京一が言うように、チームのメンバー達とサーキットで顔を合わせることもあった。普段接するときとは違い、みんな怖いくらい真剣。でも、ここではそれが当たり前なんだ。

怪我や事故は言うまでもなく、〈死〉だって確率はゼロじゃない。〈走る〉ことを改めて認識させられ、心身が引き締まる。



それにしても夏って、いつもこんなに早く去ってしまうものだっただろうか。ここ数日は、秋を感じさせる風が吹くようになった。

いろは坂へ向かう途中、休憩がてら立ち寄ったコンビニの駐車場。夢子は助手席に放っていたカーディガンを羽織る。

去年の夏といえば、塾でも家でもずっと受験勉強してた。たぶん、人生でいちばん勉強した夏だったと思う。今は、講義の勉強はもちろん、自動車関連の勉強をして――構造や整備のことも、少しずつだけど理解できている、はず。

好きなことを学ぶって、楽しいんだな。もちろん、楽しいだけではないけど。好きだから、これからもきっと続けられる。

うんと身体を伸ばした夢子は運転席に腰を落とした。だいぶ暗くなってきたな、と呟きながらサングラスを外し、ケースへしまう。


明智平駐車場に入ると、清次の姿が目に付いた。思わず右手を振ると、こちらへ早足で近付いてくる。

まるで、私が来るのを待ってくれていたみたい。……なんて、自惚れがすぎるかな。

運転席から降りた夢子がロックを掛けると同時、清次は「ちょっと付き合え」と愛車を指した。一度頷いた夢子は、歩き出した清次の後ろをついていく。


走り出したエボ4の助手席、夢子は俯き加減で黙り込んでいる。

どこへ行くのか、何をするのか、夢子は何も訊いてこない。身体ひとつで助手席に居ることを、不安には思わないのだろうか。


運転席の清次がシートベルトを外し、目的地に到着したのだと分かった。夢子もベルトを外し、きょろきょろと周囲を見渡す。

ここは、夢子が清次と初めて会った場所――椎坂峠。駐車場には数台の車が停めてあるが、人影は無いようだ。時折、国道を通る車やバイクのライトが光る。


しばらくして、清次が躊躇いがちに口を開いた。

「お前に話したいことがある」

オレの気持ちなんて、夢子はとっくに気付いているかもしれない。だけど面と向かって、自分の言葉で伝えたいことがある。

ここに来るまで、何と言おうかずっと考えていた。考えることなんて、もともと得意な方じゃない。だから、小細工はしないと決めた。

「好きだ、夢子

途端、彼女の表情が強張ったように感じられた。拒絶を意味しているとしたら、これ以上は。――だけど、一旦溢れた想いは止められなかった。

「オレは京一と比べたら頭悪いし、女に好かれる自信もねえ。こういうことにも慣れてないしな。…………それでも、夢子が好きなんだ」

二人きりの車内。耳が痛くなるほど続いた沈黙に耐えられず、先に根を上げたのは清次だった。ダメならダメで、こればっかりはしかたないだろ。

「…………おい、夢子。オレが言ったこと、聞こえてんだろ。黙ってないでなんか言え」

「えーと…………なんで?」

「は?なんで、って……どういう意味だよ……」

「なんで清次は、私のこと……その……好きって、言ってくれるの?」

「好きなやつに好きって言うことの、何が悪いんだ」

「あ……えっと、悪いとかそういうんじゃなくて、むしろその……逆、というか……」

きっと、ここで初めて会ったあのときからずっと、変わらない――いや、今はそれ以上に強い気持ちで。


逡巡するように視線を彷徨わせた夢子は、ややあって、少し震える声で「あのね」と切り出した。

「私、ね。清次と……はじめて、会ったときから、」

ぷつりと言葉が途切れ、芳しく匂い立つように夢子の頬が色付いていく。紅葉の時季にはまだ早いはずだ。

枝から舞い落ち、空中で踊る紅葉を掴まえるような、少しばかりの遠慮と温度を乗せた指先で。清次は夢子の頬にそっと触れる。

「それで終わりか?言えよ、夢子

彼女は小さく首を振った。ぎゅっと目をつぶり、真っ直ぐ唇を結んでいる。強い意志が溢れそうになるのを辛うじて抑えるように。

「言わないなら……勝手に、想像するぞ」

熱い頬に触れていた清次の指先は肌を滑るように降下し、唇の端を掠めて顎の辺りで停止する。

そのまま、夢子の顔を上向かせると解る。伏せられた睫毛も、結ばれた唇も、よくよく見れば僅かに震えていることが。

清次の額に汗が滲んだ。尋常じゃない速さの心拍数に自分で驚きながら、半ば祈るような思いで唇を寄せる。

もし避けられたら。清次の心配は杞憂に終わった。彼女の頬に唇で軽く触れた後、夢ではないことを確認するように、もう一度。


「…………やだ、もう。私、顔あっつい」

ぽそぽそと呟き、顔を覆い隠そうとする両手を掴まえた。彼女の両手首は清次の片手に容易く収まっている。

身動きを忘れたように硬直する夢子は潤んだ眼も、染まる頬も、熟れた唇も隠すことが出来ない。

狼狽えるように目を泳がせ「み……見ないでよ」と、か細い抗議を口にした。

「隠すな。全部見せろ」

拘束を解くと、不安を揺らがせた瞳でじっと見上げてくる。自由になったその手でオレを殴っても、引っぱたいてもいい。そうでなきゃ、調子に乗っちまう。

夢子は胸元で両手を握り締め、ゆっくり唇を開いた。

「清次が好き」

やっと言えた。ずっと、言いたいと思っていた。電話でもメールでもなくて。会って、直接、伝えたかった。きっと今じゃなかったら言えなかったんだ。不意に、鼻の奥がツンと痛む。想いが通じて嬉しいはずなのに、どうして涙が出るんだろう。

「泣くな、夢子

清次の指先が優しく目元を拭う。頷いた夢子の頬へ、涙が一筋零れて伝っていく。



これからふたり、一緒に居よう。花々の春も、濃く深い緑の夏も、山が燃えるような紅葉の秋も、真白の冬も。

彼女の頬の色は紅葉。終わりかけた夏の夜、ひっそりと咲く。想い人に見守られるように色付いて。

涙で濡れた指先で、再び彼女の頬へ触れてみればふんわりと柔らかい。彼の気持ちを昂らせるには充分すぎる熱を秘めている。

指先から脳まで瞬時に痺れるような甘い痛みは、心まで強く締め付けて離さない。もちろん――繋いだ手も、絡めた指先も。離すつもりなんてはじめからないけれど。

次に彼が目指すところは、朱が差した夢子の唇。日光が誇る紅葉にも負けない、美しさに溢れている。

そんなこと、本人はきっと無自覚で居るのだろう。誘うような色の合間で溺れるように、清次は夢子へくちづけた。





[いろはもみじ] END.

いろはもみじ (1/2) *

2004/12/22, 2005/12/02 up.
(rewrite.2013/03/20)


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