ふれて未来を (1/2)
触れるもの。てのひら。くちびる。鎖骨のくぼみ。

それは全て、夢の中で。夢で逢えるだけで、幸せだった。



「酒井のカレーおいしそ。一口ちょーだい」

左隣からの声に一瞬、身体が揺れた。

のんびりと食事を楽しんでなんかいられない昼休憩、賑わう定食屋。残りが半分程になった、カレーライスの山を崩していたスプーン。

すくったままの一口では多すぎると思い、取り直そうとした。自分が口を付けていない、皿の上の新しい場所を。

しかし、今そこにあるものを寄越せとでも言うように、左腕を突付かれる。急かされているように思え、右手が躊躇う。

「――どうぞ」

試しに彼女へ差し出してみると、まるで腹を減らした雛のように口を開けて、何の遠慮も無くカレーライスを頬張る。

スプーンから奪われたそれは咀嚼され、やがて嚥下されていった。ごくん、と鳴った喉の音がやけに耳に残る。

「ん、ありがと。おいしい」

深い意味など無いことが、分かっていても。見事、空になった銀色のスプーンに、間接キスを意識せずには居られない。

食べかけをねだられることはこれが初めてではないが、何度やられてもどうにも気恥ずかしい。緩みかけた表情を取り繕い、食事を続けた。


「しかし夢子はよく食うよなァ」

「その分動くから大丈夫だと思いたいよねぇ」

彼女の左隣で大盛り五目ラーメンを啜る"先輩"との何気ない会話を、少し羨ましいと思う。

ひとつふたつの年齢差なんて、無いのと同じ。そう自分に言い聞かせている。


やがてペチンと小さな音がして、視界の端でお団子頭が軽く下げられた。手を合わせてお辞儀。彼女が食事の前後に必ず行っていること。

「ごちそーさまでした」

「お前食うの早えーよ!」

「先戻ってるね」

「走んなよー」

「わかってるって」

夢子はカウンターへ日替わり定食のトレイを上げながら、店の奥へ「ごっそさんした!」と声を掛ける。

間髪入れず張り上げられた「毎度!」の大声を背に受け、夢子は店を出ていく。快晴の空の下、早歩きで遠ざかっていく紺色のツナギを見送る。


「……ごちそうさまでした」

誰に言うともなく呟き、空になった皿へスプーンを――静かに置いたつもりが、思ったよりも大きな音に動揺している自分に気付く。

火照る舌と心を抑えようと、グラスの冷水を飲み干した。




彼女は県内の大学を卒業後、一般事務員として採用されたと先輩から聞いた。

東堂商会において初となる女性の採用に、彼女の父親と社長が知り合いだという噂が流れたが、真相は定かではない。

さぞかし車好きなのだろう、と期待されていたが実は真逆で、通勤用軽自動車のボンネットを自分で開けたことすらなかったという。

以前は「どこぞの企業OLかっていう洒落た感じの、制服みたいなの」を着て、髪はサイドで結んでいたらしい。

勤務開始当初はパソコン相手の事務作業、接客、電話応対のみだったが、本人の希望で軽作業を手伝うようになった。

作業時の動き易さを考えた結果、勤務服は現在も愛用している紺色のツナギ、髪型はお団子に落ち着いたそうだ。

今では事務作業と軽作業が半々。女性がツナギでパソコンに向かう姿も、見慣れるとなかなか良いものだ、と酒井は思う。

現在の東堂商会には、以前の夢子のような"車"に興味のない女性客も増え、相談等に指名されることも多くなった。

恋人や友人に付き添って来店した女性――多くが通勤や買物用の車を所有している――を、次回来店で客へと変えたのは夢子だ。

清掃の徹底、女性向け雑誌のラック設置、ドリンクサービスの品質向上。各所の小さな変化は、やがて明確な数値として表れた。

結果として女性客や売上額は増加したものの――夢子が提案した当初、女に媚びるのは気に入らない、そう食ってかかったスタッフも居た。

ウチはそういう店じゃない。車に興味のない女に、現場を知らない事務員に何が分かるのか、と。

「私からも質問いいですか」

苛立ちを浮かべた男性達に囲まれた夢子は、臆することなくただ穏やかに微笑っていた。


これっぽっちも興味のない場所に連れてこられた人の気持ち、わかりますか。

つまらなさそうな表情で、携帯電話を操作する彼女達を見て、何か思うことはありませんか。

恋人の買物に付き合わされて、うんざりした経験はありませんか。


「もっと、車を楽しんでもらいたいと思うんです。チューニングとか、サーキットとか、おおげさなものじゃなくても。自分の車のこと、なんにも知らないのってちょっともったいない。少し前まで私がそうだったから」


静まった会議室、乾いた空気を掻き回すエアコンの音だけが低く唸るように聞こえていた。それまで議論の行方を見守っていた社長が口を開く。

夢子に任せてみよう」

やると決めたら手を抜くな――東堂の言葉に彼女は「はい」と頷いた。



「信頼っつーのは、いくら金積んだって買えねえからな」

社長はそう言い、夢子の背中を押した。


客単価の高くない"女性客"の相手を数多くこなすのは、いずれは大きな受注へと繋げるための種蒔き。

会議終了後にそう向けると、彼女は「いや、べつに」と首を傾げた。


「10分ちょっとのオイル交換も、じっくり付き合って馬力上げてくのも、一件一件が大事なお客様でしょ。専門的なことはできないけど、私にできる範囲を着実にやってこうって。車って結構楽しいって思ってもらえたら大成功だよ」


妻に内緒で小遣いをやりくりしていた夫が、妻を伴い来店するようになった。夫婦で作業を見学し、家族への隠し事を減らすことができた、と彼は笑った。

運転が苦手だった女性が、恋人に付き合って来店し、移動手段だけではない車に興味を持った。現在では運転講習やライセンス講座に参加しているそうだ。

夢子は、それぞれの車との関わり方さえ変えてしまった。こう言っても、決して大げさではないと思う。



先輩から聞いた、彼女にまつわる話はまだある。それらを知っている彼を妬ましいとさえ思った。

彼女への尊敬の気持ちが淡い想いへ変わったのは、何がきっかけだっただろうか。

せめて制服姿を見てみたかった。当時の写真がどこかに置いてあるだろうか。せいぜい数年前の写真なのだから、あちこち捜索するまでもなく見付かるだろう。

自分の知らない彼女の過去を、知りたい、知りたくない、本当の気持ちさえ分からないで居る。

ガレージ奥で作業の手を止めた酒井は、眉間を揉んで深く溜息を吐いた。



ふれて未来を (2/2) #

酒井||0:top