碓氷の夜に (2/2)
碓氷峠には、軽やかな虫の声が輪唱のように絶え間なく響いている。説明を終えた沙雪が、「それで」と髪をかき上げた。

「先行、後追い、どっち?」

「後追いで行かせてもらうよ。オレはバックが好きなんでな」

野卑な笑い声に、3人は思わず眉をひそめる。

「ヤな感じ。ていうか引くわ」

「気をつけてよ、夢子

「うん。いってくる」

夢子は沙雪と真子へ手を振り、愛車――S14のドアを開ける。

静寂が満ちる車内、シートへ身体を埋めてベルトを装着し、エンジンを叩き起こす。心地良い振動を受け、唇へ薄っすらと微笑を浮かべた。

バックミラーに映るRX-8は夢子の後ろに張り付いて、今や遅しとスタートを待っている。


初めて走るコースで後追いを選んだことは正解だろう、と夢子は思う。知らない道なら、前を走る車を追い掛ける方が断然ラクだ。

ここ碓氷に限っては追い抜きのポイントは少ないが、油断は出来ない。秋名のハチロクの例もあるし。

今回の相手がどれほどの腕前か、なんてことはわからないけれど、今の自分ができる精一杯で走ろう。

後方からのライトパッシングを受け、夢子はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。




C-121を振りっぱなしで駆け抜け、うん、と夢子は頷いた。

立ち上がりで多少ベストラインから外れたが、決して悪くない。今日の自分は乗れている。愛車の機嫌もすこぶる良い。

一瞬バックミラーへ視線を遣り、RX-8が居ることを確認する。地元の車にそれほど遅れることなくついて来られるのだから、彼はきちんと"巧い"ドライバーなのだろう。

テクニックのある者と会えたことに嬉しさを感じた直後。


後方を走るRX-8のヘッドライトが一閃、全身に衝撃が走る。


心の表面をざわざわと逆撫でるような音が幾度か背後から上がり、その度に自分ごと揺さぶられる。

それが"ただの"プッシュではないということ。疑念の余地は欠片もなかった。

バクバクと鳴り出す心臓、ガードレールへ引き寄せられるような感覚を捻じ伏せ、崩された体勢を立て直し始める。

夢子は短い舌打ちを何度も繰り返しながら、前方を駆けていくRX-8を睨んだ。

随分差がついてしまった。抜き返すのはちょっとツラい、か?……いや、まだだ。まだ終わったわけじゃない。

勝負は最後の最後までわからない。自分に言い聞かせるように夢子は呟く。ステアリングを握る掌に、じっとりと汗が滲んでいる。



真っ赤なRX-8のテールまで、あと数十センチ。抜き返すことは出来なかった。



のろのろと停車したS14へ駆け寄る2人――沙雪と真子は、困惑と沈鬱を混ぜたような表情を浮かべている。

「やられた」

運転席から降り立つ夢子の一言で、沙雪の顔色が変わり、真子が息を呑む。

投げ遣り気味に指したリアサイドには、明らかな傷が見受けられた。響き渡った怒号は沙雪のものだった。

「ちょっと――あんた、ぶつけたでしょッ!」

「はあ?」

「見なさいよココ!! ただ突付いただけじゃないでしょコレ!」

「知らねーな。最初からそうだったんじゃねえの?なぁ」

「そうそう、言いがかりだろ。こいつがやったって証拠でもあるんなら話は別だけどな」

「……プッシュが悪いってんじゃない。限度ってモンがあるでしょ。こんなやり方、恥ずかしくないの?正々堂々勝負しなさいよ!」

「うるせぇな。お前には関係ねーだろ」

「悔しかったら証拠見せてみろよ。あんのかよ?」


「あるよ」


2人へ更に噛み付こうとする沙雪を、夢子の声が制した。深く静かな怒りが滲んでいる。

小ぶりのノートパソコンを抱え、せわしなく指先を動かしている夢子を見遣り、沙雪が問いを投げ掛けた。

夢子。編集、どのくらいかかる?」

「3分あれば充分」

頷きでそれを受けた沙雪は早口で彼等へ尋ねる。答えを聞くつもりなど、端から無い。

「S14に載せてるカメラの映像、ネットに上げるわ。何もしてないんだもん、誰に見られてもマズいコトないのよね?」

「あ。夢子、モザイクかけなきゃ」

「そんなもん必要ないわよ真子。夢子、ナンバーも顔も全部晒してやんな」

「ごめん、もう加工しちゃった」

「まったく……あんた作業早いのよ」

彼女達の会話を呆然と聞いていた2人は、自分達が最早"有利な立場"には立っていないことに気付く。

互いに視線を合わせ、ややあって蚊の鳴くような声でドライバーが謝罪を口にした。

「……悪かったよ」

「はァ!? こんなヘコましといてソレだけ!? ホントに謝んだったら土下座しなさいよ土・下・座ッ!!」

「もー。そんなのしなくていいって沙雪」

「ああもう!だから夢子は甘いのよッ!こいつらに言うことないの!?」

不意に手渡されたパソコンを慌てて受け取った真子は、離れていく夢子の背中を眺め、それから沙雪へ視線を移す。

男達への憤りを隠そうともしない沙雪は、静かに歩を進める夢子を目で追っていた。少し心配そうに、見守るように。



……何故、オレは夜空を見上げているのだろう。硬い地面を、嫌という程背中に感じている。うまく、呼吸、が、できないのは、



彼の疑問はすぐに解ける。

自分を見下ろしているのは、つやつやと濡れて何処までも黒いビー玉のようなふたつの瞳だった。

やがて、これ以上ない程の静謐さをもって"彼女"が呟く。全ての感情を忘れてしまったかのような、色の無い声で。

「ねえ。〈次〉はないよ。絶対ゆるさないからね」

爪が喰い込む程強く掴まれている喉奥で「ひっ」と音が出た。それは自分の声なのに他人事のように鼓膜を震わせ、現実感はどこまでも稀薄だ。

逃げ場を求めているのか、アスファルトを掻き毟るように指が踊っている。


「バイバイ、おやすみ」

ニッコリと笑った夢子が彼の喉から手を離して立ち上がり、幾度か咳込む様子を可笑しそうに眺めている。


「ねえ真子、車交換して」

「ん……ハイ、鍵。パソコン積んでおく?」

「うん、ありがと。沙雪、横乗ってちょーだい」

「オッケー。じゃあ夢子が先行ね」

腕を組んだり髪を撫でたり、まるで仔犬のようにじゃれあいながら、それぞれが車へ乗り込んでいく。

遠ざかっていく2台のテールランプを見るともなしに眺め、彼等はぼんやりと思った。



女3人寄れば姦しい――



身体の奥から込み上げてくる甘酸っぱい気持ちと胃液は"何か"に似ている。

「おい……大丈夫か?」

「……ああ……」

彼等は溜息を吐き、どちらからともなく肩を叩き合った。

やがてセルを回す音、ロータリーエンジンの始動音、気の抜けた炭酸のような走行音が碓氷峠に響く。



無人となったその場所はまるで、何事も起こらなかったかのように静まっている。

いや――事実、何も起こらなかったのだ。はじめから、なにも。

夜の碓氷峠、聞こえてくるのは虫の声。





[碓氷の夜に] END.

碓氷の夜に (1/2) *

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お題:レモン味

2009/05/31 up.


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