明るいコンビニを背にして、2人の会話は途切れなかった。どんなにくだらない話でも、夢子は笑ってくれた。
おもむろに樹が立ち上がり、夢子へ投げ掛ける。
「そろそろ秋名に戻りますか」
「うん、行こ」
愛車へ乗り込み何気なくインパネの時計を見遣ると、日付が変わって数時間経っていた。
以前夢子が言っていた〈門限〉の時間も既に過ぎている。助手席へ乗り込んだ夢子へ、躊躇いがちに声を掛けた。
「夢子さん、もう……時間、過ぎてますけど……帰らなくていいんですか?」
「今日はヘーキなの」
「あ……ああ、そうなんですか」
一瞬、桃色の妄想が頭の片隅を過ぎたが――すぐに夢子のはしゃいだような声で打ち消される。
「はちごーで、運転の特訓してもらおっかな」
「……あ……はい、喜んで……」
「イツキくんは時間だいじょぶ?」
「平気ですよ。朝まで走りましょうか!」
「おー!がんばるから教えてね!」
「任せてください」
24時間営業のスタンドで給油をし、再び給水塔の下。
発進、加速、減速、停止――以前よりも丁寧な〈指導〉を行い、夢子は真剣な面持ちで樹の動作を見つめている。
お手本を見たい、と言う夢子のリクエストに応え、秋名を何度も往復した。
助手席で無邪気に歓声を上げる夢子を、樹はただ純粋に可愛いと思った。
走り慣れた秋名を、今日で何往復しただろう。だけど、拓海には遠く及ばない筈だ。今日の配達はもう終わっただろうか。
「夢子さん、走ってみますか?」
「でもヘアピンとか怖いよー。もっとまっすぐな道ならなんとか……」
「それじゃ、秋名湖に行ってみましょう」
「まっすぐ?」
「そうですね、ほとんどストレートです。この時間ですし、他の車も通らないですよ」
「うん、がんばってみる。道案内頼んだ!」
「わかりました……って、迷ったりしないですよ」
温泉街を背にし、秋名湖へ直線が延びる。
1速でゆっくりと動き始めたAE85は、順調にシフトアップを繰り返して4速へ落ち着いた。
左手をシフトからステアリングへ戻し、そっと握り直して夢子がぽつりと呟く。
「アタシ、少しだけわかった気がする」
「わかったって……何がですか?」
「サーキットとか――兄についてったことあるんだけど、同じコース回ってばっかでしょ?なにが楽しいんだろう、って思ってたの」
夢子は運転席から真っ直ぐに進行方向を見たまま、唇の端から苦笑を漏らした。
言葉の真意を掴み損ね、樹は困惑するように運転席へ問い掛ける。
「……同じ道を、上ったり下ったりはつまらないですか?」
「ううん。意外とおもしろいなーって思った」
「夢子さんが自分で運転したら、もっとおもしろくて楽しいと思います」
「そう……だよね。あ、でもイツキくんの横で運転見てるの、すごく楽しいよ」
あなたが好きだ、とでも言われたように、樹の心臓が揺れた。
オレの顔は今きっと、フェラーリレッドなんかメじゃないくらい真っ赤に違いない。
まだ暗い時間帯で良かった。日が昇ってたらもう、恥ずかしすぎて助手席から飛び降りてる。
樹はゆっくりと後ろへ流れていく景色へ視線を向けた。
ただ黒いだけの空が薄い光をまとい始めている。間も無く朝になるだろう。
夢子の慎重な運転で、2人は無事秋名湖へたどり着いた。駐車場にAE85を停めた夢子はエンジンを切ると、安堵したように大きく息を吐く。
「あーキンチョーしたぁ。イツキくん酔ってない?」
「全然平気です。夢子さんの運転、すごくスムーズでしたよ」
「……それじゃまた、はちごー運転させてくれる?」
「はい、いつでも」
「やったぁ」
車を降りると、さすがに気温は低い。澄んだ空気の中で樹は大きく伸びをした。夢子も樹を倣い、うんと背筋を伸ばして微笑う。
紺色。群青色。蜜柑色。見上げた空のグラデーション。朝焼けは秋名富士を薄っすらと浮かび上がらせ、輪郭を明確にしていく。
「結局徹夜しちゃいましたね」
「うーん、帰ったら爆睡かなー」
「オレもですよ」
2人並んで無言のまま、色を変えていく空を眺めていた。しばらくして夢子がぽつりと言葉を紡ぐ。
「キレイだね」
秋名山を見上げる横顔に見惚れていると、夢子がふとこちらを見遣り――ほんの数秒見つめ合う。
夢子はゆっくりと瞬いて、樹が何故自分を見ているのかさっぱり分からないとでも言うように問うた。
「どしたの?」
「あ、えっと、あの……夢子さんの方が、きっ、きれいですよ!」
「やだなーイツキくん何言ってんの。テレるじゃん」
バシバシと樹の背中を叩いて夢子が苦笑する。
「いて……ほ、ホントですって」
「またまたぁー」
「……すげー頑張って言ったのに……」
肩を落とす樹を見遣り、はたと手を止めて夢子が呟いた。
「ありがと、イツキくん。すげー嬉しい」
朝陽に照らされて、やり場のない夢子の手が宙を彷徨う。
「ええ」とか「ああ」とか――あまり意味を持たない言葉しか口に出来ない自分がもどかしくて、樹は頬を掻いた。
「……帰りましょうか。オレ、夢子さんちまで送りますよ」
夢子は一瞬考えるような素振りを見せたが、すぐに小さく頷いた。
「お言葉に甘えます」
そして夢子が樹へ告げたのは、県道沿いのコンビニ。樹は頭の中で地図を広げてルートを決め、「乗ってください」と愛車へ夢子を促した。
無人の駐車場へ停めて詳しい道を聞こうとすると、夢子は助手席で静かにシートベルトを外した。
「あれ――ここでいいんですか?」
「ありがと、ウチすぐそこだから。またね、イツキくん」
「……はい、また」
アスファルトへ降りた夢子が樹へ手を振り、細い路地を曲がっていく。
後ろ姿を見送りながら、樹は運転席で大きなあくびを漏らす。街は朝を迎えて動き始めたばかり。
信号を越えたとき、銀色の車とすれ違う。どこかで見たような気がしたが――思い出せない。
「眠くて頭まわんないなー」
目元をこすりながら、樹は自宅へ向かった。
仕事を終えて帰宅する途中。夢子へのメールを打ちながら歩いていた樹が、気配を感じてふと足を止める。
コツ、という音と共に、樹の視界を長身の男性が塞いだ。華奢な銀縁眼鏡、黒いスーツ。見覚えは、ない。
男性を見上げながらも訝しんで黙っていると、彼は樹に問い掛ける。
「武内樹さん。田中夢子をご存知ですね」
樹の答えを待っている様子はない。それは問い掛けというより、確認と呼ぶに相応しいものだった。
書き始めたばかりの文章に目を落とし、樹はパタンと携帯を閉じた。
「はい」
「こちらへ。ご自宅までお送りします」
有無を言わせない口調で彼は樹を、視線で促した。
樹を待ち構えていたのはS550 AMG――銀色のボディにエンブレムが光るメルセデス・ベンツ。
傍らに立っていた運転手と思しき男性が、樹を視界に捉えて後部ドアを開ける。
「どうぞ」
促されて座席に腰を下ろすと、シートが緩く沈んだ。樹の隣に、声を掛けてきた長身の男性が座る。
ドアが静かに閉められると、間も無くして水面を滑るように発進する。
密室となった車内の空気はピンと張り詰めていて、何故か急に背筋が冷えた。
「申し遅れました。私、猟醒会――若頭代理の葉澤と申します」
葉澤と名乗った男性は、前を向いたまま短く言った。低く落ち着いた、威圧感のある声。
「……りょうせいかい……」
「あなたは先程、田中夢子を存知だと仰った。彼女の父親は猟醒会会長ですが、その事は?」
「……知りません」
彼女がスタンドに来たあの日。健二先輩がいつになく真剣な顔をして言った、帰り際の言葉。
「もしかしたら、ヤバい筋かもしれないから気をつけろ」って。
冗談だとばかり思っていた。そんなわけないと笑い飛ばした。こうして目の前に〈事実〉を突き付けられても、信じられない――
「夢子さんといるとき、同じ車を見かけました。多分、この車だと思います」
「お気付きでしたか」
「あの……気にはなっていましたけど、特に、夢子さんと結びつけて考えたり、聞いたりは、」
「そうでしょうね。あなたの性格ならそう仰ると思っていました」
「え……オレのこと知って……もしかして、素行調査とか、」
「簡単に言えばそうなるでしょうか」
混乱気味で自然と早口になってしまう樹に対し、彼は悠然と構えて居る。感情の抑揚など、この男には無いのだろうか。
銀色の車は遠回りするように、ゆっくりと街を流している。
「単刀直入に申し上げます。手を引いていただきたい。お嬢には許婚が居られます」
「は……」
「無論――只で、とは申しません」
彼は足元のアタッシュケースに手を掛け、するりと膝の上へ載せた。
留め金を外すパチ、パチという軽やかな音と共に蓋が開かれる。直後、紙幣――それも新札――特有のにおいが鼻につく。
ケースの中身を樹に向け、彼は事も無げに言い放った。
「悪い条件ではないと思いますが」
「……あの、夢子さんは、このこと……」
樹の問いに、葉澤は少し哀しいような困ったような表情を一瞬浮かべた。
「私が、あなたにお会いしたことは伏せていただきたい」
「…………」
「お嬢に会わないこと。連絡しないこと。詮索しないこと。こちらからの条件は以上です」
「……その、婚約者と結婚すれば……夢子さんは、しあわせに……なりますか?」
「ええ」
揺ぎ無い自信を含んだ葉澤の声。
彩られた爪。柔らかな掌。朝焼けのグラデーション。彼女を思うとき、最初に浮かぶのは色彩。
「……わかりました」
微かに震え掠れている自分の声が、痛い程に惨めだった。
安堵したように葉澤が頷き、手早くケースを閉じると樹へ差し出した。
「お受け取りください」
「いりません」
「しかし、それでは――」
「オレ、お金はいりません。一度でいいから、夢子さんと直接会って……話を、させてくれませんか?」
膝の上で固く握り締められた樹の拳を見遣り、葉澤は深く頷く。
「承知致しました」
車内には再び沈黙が満ちる。それはほんの少しだけ愁いを帯びていた。
「何を今更、と思われるかも知れませんが――武内さん、あなたには感謝しています」
ぽつりと葉澤が呟いた。
「お嬢は一般の男性と接した事が殆どありません。あなたと居る時のお嬢はとても、楽しそうでした」
見慣れた道路をゆっくりと曲がる。ここはいつもの帰り道だ。
「本当に、申し訳ないと思っています」
樹は何も言えなかった。何も考えられなかった。
それから程無くして、S550は静かに停車した。運転手が素早く樹側のドアを開けた途端、春の温度を感じる。
「……失礼します」
樹は葉澤に会釈をして車を降りる。薄汚れたスニーカーの足元だけ見て歩いた。
玄関のドアを開けようとして、ふと振り返る。
葉澤と運転手が並んで頭を下げている。見本のような、美しい最敬礼。微動だにしない。
何か声を掛けようかと思ったが、樹は結局無言のまま2人に背を向けドアノブを掴む。
後ろ手でドアを閉めた途端、緊張の糸が切れたようにへたり込んだ。
「あんた何やってんの?お風呂入ったら?」
母の不思議そうな声は耳に入らなかった。自分の不規則な鼓動だけがうるさく聞こえていた。
夕食と入浴を済ませた樹は自室のベッドに寝転がり、携帯電話を開いたり閉じたりしながら夢子のことを考えている。書きかけのメールは削除した。
何度目かの開閉、パチンと開ききったのと同時に着信音が鳴り始めた。
着信:田中 夢子
樹は慌てて起き上がり、迷う間もなく通話ボタンを押した。
「もしもしっ」
『イツキくん、こばわー』
「夢子さん。こんばんは」
『ねぇ、イツキくん明日の夜ってヒマ?』
「明日……遅番なんでちょっと難しいかもしれないっす。どうかしたんですか?」
『あのね、今ね、自分で爪いじってたら結構うまくいったの!』
「……はぁ」
『でね、イツキくんに見せたいなって思ったんだ』
明るい夢子の声に、不意に頬が熱くなった。
言葉に詰まった樹に、夢子が笑う。微かな吐息が樹の耳元へ届く。
『そんなつまんねーコトで電話すんなよ、って思った?』
「いえ、あの、」
『ん?なに?』
「今から、会えますか?」
『いいよ。アタシ車出そっか』
「えっと……オレ、夢子さん迎えに行ってもいいですか?」
『来てくれるの?』
「はい」
『じゃあお願いします。コンビニ行ってるね』
「わかりました、すぐ行きます」
『うん。じゃあねー』
正味1分の会話を何度か反芻し、何かを決意するように樹は愛車――AE85の鍵を掴んだ。
夢子に会ったら何を言うべきか、ずっと考えていた。考えて、考え込んで、余計分からなくなって。
とにかく早く、彼女に――夢子に会いたかった。
「見て見てっ」
約束のコンビニ。樹のAE85が駐車場へ到着するのと同時に、夢子が駆け寄ってきた。
運転席から降りる樹へ、夢子はお気に入りの玩具を自慢する子供のような眼差しで手の甲を差し出す。
夢子の爪には、淡い桜色をベースに花が咲き誇っている。コンビニの照明の下でピカピカと輝いていた。
「それ全部、自分でやったんですか?」
「うん。地ヅメにフツーのマニキュアだけど、花作るのがんばったよ」
「すごく、可愛いと思います。夢子さん、上手なんですね」
「ホント?ありがとー」
樹の言葉を受け、華やかな指先を満足気に眺めている。樹は夢子を見つめ、声を掛けた。
「乗りませんか?」
「乗りますー」
「どうぞ」
助手席へ促すと、夢子は素直にそれに従う。
「どっか行く?ってもイツキくん明日仕事なんだっけ」
「あの……少し、つきあってもらっていいですか」
「いいよ。あ――あのね」
「はい」
「ちょっとだけでいいから、秋名走ってくれる?」
「いいですよ。夢子さん運転しますか?」
「ううん。イツキくんが運転するとこ、アタシ隣で見てたいの」
「……わかりました。それじゃ、秋名に」
「出発ー」
夢子が人差し指をくるりと回す。
車内で話したことといえば、夕食のメニュー、昨日見たバラエティ番組、桜の開花状況――そんな、いつもと変わらない日常のことばかり。
決意と別れを、出来るだけ先延ばしにしたかっただけ。
AE85を停めたのは、2人で朝焼けを見た場所。
ドアを開けた夢子が湖畔を見回し、固い蕾だらけの桜の木を見つけて目を丸くした。標高が高い分、開花時期は遅い。
「ココ、桜遅いんだね。咲いたらお花見しに来よーよ」
「あの……聞いてください、夢子さん」
「んー?」
こちらを振り向いた夢子は、小さく首を傾げて言葉の続きを促した。
「オレ、夢子さんと会うのは今日が最後になります」
樹がそう告げた途端、一切の表情は滑り落ちるように夢子から消失した。樹が息を飲む。
「ウチのこと、誰かに聞いた?」
「……あ、いえ、あの、」
「ごめん。イツキくん、ウソつけないもんね」
全てを悟ったような諦めを匂わせ、それでも強張った微笑を浮かべる夢子――樹は黙って彼女を見つめていた。
オレは彼女に何を、言うべきだろう。
逡巡する樹へ、夢子が感情さえも失くしたようにぺらぺらと喋り始める。
「ね、ふたりで逃げちゃおっか。アタシ名前変えて別人になるの。おもしろそーじゃない?」
「え……」
「知ってた?戸籍ってね、結構カンタンに買えちゃうんだよ。しかもそんな高くないの」
「夢子さん、何、言って……」
「それでさ、誰もアタシのこと知らないとこで――」
「やめてください!!」
「イツキくん、最後までいいひとだね」
夢子がぽつりと呟いたそれは、2人の決別の証。先延ばしにしてきたそれを、樹は自らの手で夢子へ叩き付けた。
「アタシ、イツキくんに会えてよかったな」
「夢子さん……」
「イツキくんといるの、すっごく楽しかった。ほんとだよ」
「……っ……」
「アタシね、好きみたい。イツキくんのこと。でも、イツキくんにはアタシよりもお似合いのコがいると思うの」
涙を堪えていることを、夢子に悟られたくない。樹は俯いて、唇をきつく結んだ。
夢子は樹の右手を取り、そっと握る。スタンドの待合室での握手よりも幾分、躊躇いがちに。
樹が驚いて顔を上げた直後、じわりと互いに熱が伝わる。それは握手と呼ぶにはあまりに儚い。
「だから――イツキくんは好きなコと、しあわせになって」
「夢子さ、ん……」
「全部、忘れてちょうだい。アタシのこと、全部。…………ありがと、イツキくん。バイバイ」
数秒見つめ合って瞬きをした直後、少し掠れた声で夢子が呟いた。解かれた手を二度と離すまいと、掴むことも出来ただろう。
夢子の背中へ右手を伸ばしかけて一瞬途惑った後、樹は拳を固く握り締めて視線を落とす。
短く切り揃えられた爪を掌に感じる程、ただひたすら握り締めた。
しかたない、と自分に言い聞かせる。彼女のしあわせを願う自分が身を引くことは――しかたない。
夢子と樹の間を遮るように、暖かな風が吹き抜けた。桜の蕾と、樹の心を揺らす風。
喉の奥から零れそうになる嗚咽。時折吹く風。AE85のエンジンが冷えていく音。
それらの隙間を縫うように、遠くで微かな音が聞こえた。多分、銀色のS550。そして――きっと〈あの〉男。
自分は正しかったのだろうか。もし間違っていたなら、どうすれば――何を言えば良かったのだろう。
答えはまだ見つからない。もしかしたら、この先ずっと見つからないかもしれない。
「遅番だけどおはよーございまーす」
「おう、イツキ……お前、目赤いぞ。どうしたんだ」
「や、全然何でもないっすよ。花粉症デビューですかね」
「……俺でよかったら、いつでも話聞くからな。何でも言えよ」
「はい。……ありがとうございます、池谷先輩」
「ああ」
ロッカーの扉を開け、制服に着替える。
ふと考えてしまうのは、自分のことを忘れろと言った〈彼女〉――夢子のこと。華やかな指先と掌の温度は確かに存在していた。
ポケットに突っ込んでいた携帯電話は、ロッカー上部を区切った棚へ置く。
彼女からのメールや着信履歴、電話帳のメモリは全部消した。そうすることが当然だと思ったから、迷わなかった。
存在や関係など初めから無かったかのようにすることが。
夢子さんのこと、いつか思い出になるのかな。過去になったら、ずっとキレイなままなんだろうか。
それはなんだか寂しいけれど……きっと、彼女は彼女だけの色を見つけられるだろう。
オレは――どうかな。待ってるだけじゃダメだって、わかってたはずなのに。
考え込んでしまいそうになった樹はロッカーの扉を閉め、何度か自分の頬を両手で叩く。こういうときは峠を――秋名を走るに限る。
客を見送った池谷に駆け寄ると、樹は大声で決意を叫んだ。
「池谷先輩、今夜秋名に付き合ってください!100本ダウンヒルです!!」
「イツキ……ノックみたいに言うなよ」
殊更明るく言った樹を見遣り、池谷は何かを感じたようだ。小さく笑い、後輩の肩を叩く。
「よし、健二と拓海も誘ってみるか」
「健二先輩は来るでしょーけど、拓海はどうですかねぇ」
「うーん、そうだなぁ。健二は来るだろうけどなぁ」
「誰が年中暇だって?」
「あ、健二先輩!」
「お前……いつからいたんだよ」
「100本ダウンヒルってとこからだよ」
ふくれ面の健二を見遣り、樹と池谷が顔を見合わせてニヤリと笑う。
「で、当然来るんだろ?」
「もちろん来ますよね、健二先輩?」
「……何だよお前ら。行っちゃ悪いのか」
「そんなこと言ってないだろー」
「あ、オレあとで拓海に電話してみます」
「おう、頼むわイツキ」
「こらー、お前らしっかり働けー」
「うわ、店長っ!」
「た、タオルの補充行ってきますっ」
慌ててバックヤードへ向かう樹を見遣り、池谷が溜息混じりで健二へ呟く。
「……俺達は仕事に戻るぞ。帰れ」
「ちょっと待てって。プロジェクトDの最新情報、知りたくないか?」
「ホントですか?教えてください健二先輩!」
「イツキ!タオル補充はどうしたっ」
「あの、健二先輩の話ちょっと聞いてからで!」
「もったいつけないで早く教えろよ、健二」
「よーし、心して聞けよ」
いつもの風景。いつものメンバー。足りないものなんか何もない。
ざあ、と風が吹く。
秋名湖の桜はまだ、開花を待つ蕾のままだろうか。
彼女の爪はきっと今日も、美しく彩られているのだろう。どんな色か、知る術は何一つ無いけれど。
「いらっしゃいませ!こちらへどうぞー!」
来客に気付いた樹は大きな声を上げ、誘導のために駆け出す。沈みかけた夕陽は、いつか見た橙色だった。
オレは彼女を、彼女がまとっていた色を、彼女と見た景色を、きっとずっと忘れない。
[coLor of colorS]END.