いままで見た中でいちばんきれいな色を挙げるとしたら、オレは迷うことなく秋名湖の朝焼けを選ぶだろう。
スタンドからのいつもの帰り道。樹の足取りは軽い。
今日はR35とGTOとボクスターに会えた。オーナーさん、みんなイイ人だったしラッキー。また会えるといいな。
ボクスターの人は週末にサーキット行くって言ってたけど、オレもいつかハチゴーで走るんだ。
帰ったら、池谷先輩から借りたビデオ見て研究しよう。
ニコニコと路地を曲がった途端、それは起こった。ライトに照らされた瞬間、目が眩んで――
「う、わぁッ!?」
鈍い衝撃が全身を襲い、アスファルトにうつ伏せに倒れ込む。咄嗟に伸ばした左手を地面に打ち付け、痛みよりも熱を感じた。
住宅街に程近い道路の片隅に、シンと静寂が訪れる。
(ああ、オレ、轢かれたんだ……)
少し揺れた意識のまま薄目を開け、自分を〈轢いた〉車を見上げる。
日本の道路事情を無視したエアロ、もちろん車高はベタベタ、窓は車体と同じ真っ黒なフルスモーク、キャンバー角度つけすぎ――
高級セダンの代名詞・セルシオをこんな風にイジるのって『VIPスタイル』って言うんだっけ……。
もしかしたらカタギの人じゃなかったりする……?
背中にお絵描きしてるコワモテのお兄さんが出てきてボコボコにされたりして。
それで最終的に、生コンと一緒に詰められて海に沈められちゃったり。
あ、でも群馬には海がないからとりあえずトランクとかに積まれて……
(なんだかんだで絶対殺されるッ!!)
短い人生を振り返る余裕もないだろう――サヨナラ、オレのバラ色の未来――きつく目をつぶったその時。
「ごめんねー痛かったぁ?」
明るい声が上から降ってくる。うずくまっていた樹が恐る恐る顔を上げると、およそ車に不釣合いな女性。
珍しいものでも見るようにまじまじと樹を見下ろしていた。
てっきり怖いお兄さんに怒鳴られるとばかり思っていた樹は拍子抜けし、命の心配はしなくて良さそうだと溜息を吐く。
「ケガとかしてない?立てる?」
「え、だ、だだ大丈夫です」
「家まで送るよ。乗って」
「や、あのっオレんちすぐそこですから、」
「まぁいいから、どーぞ」
彼女が〈右側のドア〉を開けて樹を促した。
よろよろと立ち上がり、シートにそっと腰を下ろしたところで左ハンドルに気付く。
(左ハンてことは……レクサスのLS……400、かな?)
カーナビのディスプレイからは音楽番組が大音量で流れている。
シートベルトを着けながら家までの道順を簡単に案内すると、彼女は少しだけ首を傾けた。
「多分わかると思うけど、間違ってたら教えてね」
「は、はい」
LS400は少しフラつきながら発進した。ステアを握る彼女の両手には、力が入り過ぎているように見える。
信号待ちの無人の交差点。流れてくる音楽に合わせ、ステアリングの上で指が踊っている。
その指先に施されたネイルアートは海に似ていた。深い蒼の上に白い貝。
繊細な芸術作品に見惚れていると、樹の視線に気付いた彼女が笑う。
「アタシ運転ヘッタクソでしょー?」
「いや、そんな、」
「自覚はあるんだけどねー」
信号が変わる。彼女はあっけらかんと笑って交差点を左折した。
(あ、ウィンカー忘れてる……)
「名前、何てゆーの?」
「あ――オレ、武内樹っていいます」
「イツキくん、ね。アタシ田中夢子。何かあったら電話ちょーだい」
左側から手渡されたキラキラの携帯電話。
ディスプレイに表示されているのはオーナー情報――0から始まる11桁の番号と『田中 夢子』という名前。
樹は慌ててポケットから引っ張り出した携帯にそれらを登録して、零れ落ちそうなほどのデコレーションが施された携帯を彼女へ返した。
飾り付けてるビーズの粒(ラインストーン、とかいうヤツだっけ)が取れたらどうするんだろう?付け直すのかな?
素朴な疑問が浮かんだところで車が停まり、気付けば自宅のすぐ近くだった。
「ここでいい?」
「あ、はい……あの、どうもすみませんでした」
「えー?なんでイツキくんが謝るの?悪いのアタシなのに」
「でもオレが飛び出したんだし、」
「アタシなんかテレビ見てて一時停止の標識見落としたよ?」
「……マジすか……」
「うん。あ、なんかあったらすぐ電話してよねー」
「は、はい」
地面に降りた樹がそっとドアを閉めると、夢子が運転席から手を振り真っ黒いセダンが遠ざかっていく。
ぽかんと口を開けた樹は、右手に携帯電話を握り締めたまま立ち尽くしていた。深い蒼色の爪がやけに鮮やかに目に残る。
樹の火照った頬を、温い風がそっと撫でた。
「おっはよーございます池谷先輩!」
「イツキ、おはよ。左手どした?」
清掃をしていた池谷が、手首に包帯を巻いた樹を訝しげに見遣る。
「あ……昨日転んじゃって、カーチャンに無理矢理。でも全然ヘーキっす!」
「そっか。あんま無理すんなよ」
「はーい」
午後。立花店長は池谷と樹の2人に「サボるなよ」と釘を刺し、配達兼得意先回りへ出掛けた。
少し遅い昼休憩を済ませた樹があくびを零し、涙目で呟く。
「いやー今日も天気いいっすねー」
「もう春だろこれは」
日陰から太陽を見上げ、池谷も樹につられてあくびを漏らした。
「お、派手なレクサス――LSだな」
池谷の何気ない一言に、樹の心臓が跳ねる。
「こちらへどうぞー!」
飛び出した池谷の誘導に従い、漆黒のLS400はゆっくりと給油エリアへ進んでいく。
「いらっしゃいませ。ハイオクですか?」
「えーと……ハイオク満タン、カードで〜」
「ハイオク満タン入りまーす!窓お拭きしますか?」
「あ、洗車ってお願いできますかぁ?」
「ハイ、勿論。コースが色々あるんですが……どれにしましょうか?」
ラミネート加工されたメニューを差し出し、池谷が説明する。大きなサングラスを掛けた彼女は、少し思案するような表情でそれを見つめた。
「じゃあ……この[手洗い&室内清掃コース]でー」
「わかりました。お時間いただきますので、あちらの待合室でお待ちください」
「はーい。お願いしまぁす」
彼女は屈託なく笑い、鍵を抜いて池谷へ差し出した。小さなバッグを手に車から降りた彼女は、紛れもなく昨夜の――――
「田中さん!?」
「イツキくん。ココで働いてんだぁ」
目を真ん丸くして棒立ちになっている樹を見て、夢子が小さく笑った。
「い、池谷先輩、」
「……イツキの知り合いか?話すんなら中入れよ」
池谷は意表を突かれたように立ち尽くし、それでも平静を装って待合室を指す。
「ありがとうございます!」
樹は夢子を促し、待合室のドアを開けた。
「そこ座ってください。あ、コーヒーでいいですか?」
「お構いなくー」
樹はカップホルダーとインサートカップを手に、コーヒーメーカーを操作する。
コーヒーフレッシュとスティックシュガーを添え、テーブルにそっと置いた。
「どうぞ」
「ありがと。イツキくん、やっぱケガしちゃってたんだね」
ソファに腰を下ろした樹の左手を見た夢子が、サングラスを外して沈んだように呟く。
「いえ、全然ヘーキです!その、母がちょっと大袈裟で……」
夢子は小さなバッグから無地の茶封筒を取り出し、湯気を立てるカップの横へ置いた。
樹の方へ指先で滑らせたそれは、1cm程の厚みがある。緋色の爪がひどく眩しい。
「受け取って」
「……何すか?」
樹は訝しげにそれを手に取り、何気なく中身を取り出した。
「治療費」
素っ気無い封筒に入っていたものは、帯封がきっちりと巻かれた札束。それも手が切れそうな新札。
帯封には銀行のロゴマークと、今日の日付。樹の手の中、福沢諭吉が静かにこちらを向いている。
樹は夢子と諭吉を交互に見遣り、驚くことすら忘れたようにあんぐりと口を開けた。
「……あの……田中さん、これは……?」
「とりあえず100万。足りなかったら――」
「う、受け取れません!!」
慌てて札束を押し込み、封筒を夢子に突き返す。夢子は絶句し樹を見つめた。
「だって、イツキくん左手ケガしてるでしょ?」
「ちょっとひねっただけです!それなのに、こここんな大金、受け取れるわけ、ないですよッ!!」
「えぇ……困ったなぁ」
ソファの背もたれに体を預け、夢子が細い息を零す。何かを考えるように目をゆっくりと瞬かせて、そして樹を見据えた。
「どうしても受け取ってくれない?」
「だ、ダメです!」
「それじゃあ、かわりにアタシと付き合ってくれないかな」
「……は?」
「さすがにケガさせてそのままじゃ、コッチとしても納得いかないわけよ」
少し低いトーンで夢子が言った。
「や、あの、付き合うって――」
「えーとね。カンタンに言えば、アタシと友達になってほしいってコトなんだけど」
いまいち展開が飲み込めず、訝しげな樹を見遣り――夢子が微かな苦笑を漏らす。
「アタシみたいなのはタイプじゃないかな」
「そんなこと!ていうか田中さんこそ、オレみたいな……」
「イツキくんみたいな、何?」
「……その、オ……オレで、良かったら……」
俯いて小声で答えると、夢子が笑って右手を差し出した。
「握手しよ」
差し出された夢子の右手、緋色で彩られた爪。
否が応でも目を惹くカラフルなネイルにしばし見惚れ、樹もそっと右手を伸ばす。
夢子は微かに震えている樹の手を握って、嬉しそうに微笑んだ。
「――あの、オレも洗車、行ってきます!」
慌てて手を離して立ち上がり、ドアにぶつかりそうになって足が絡まる。
樹は夢子の掌の感触を忘れられないまま、右手でスポンジを鷲掴んだ。
「ありがとうございましたー!またどうぞ!」
「あ……ありがとうございました!」
樹の誘導でのろのろと進み、夢子は手を振ってスタンドを後にした。
「で?今の誰だ、イツキ」
「……えっと……友達、です」
「いつの間に……!」
日陰で憎憎しげに舌を打つと、池谷がじとりと樹を睨む。
「お前、和美ちゃんとはどうなってるんだ」
「どうって言われても……別に、どうもなってないですよ」
秋山和美――樹よりひとつ年上の〈友達〉。彼女を見送った渋川駅を思い出す。つい先日の出来事なのに、随分昔のように。
「はーァ、新しい出会いってわけか。ったく、なんでイツキばっかり……」
池谷は帽子を脱いで髪を掻き回し、思い出したように呟く。
「ボディも室内も全然汚れてなかったっつーか、かなりキレイだったんだよなぁ。燃料も……満タンってわけじゃないけど結構入ってたし」
「はあ……」
「あと車内がすげえいい匂いだった」
「……そーすか」
「あの子、お前に会いに来たんじゃねぇの?」
「え……」
「真に受けんなよ!」
帽子を被り直した池谷はスリーパーホールドを決め、涼しい顔で樹の頚動脈を絞め上げた。
「今度オレにも紹介しろよな、絶対だぞ」
「い、池谷先輩、ギブです!カンベンしてくださいよー」
首に巻き付いた池谷の腕をぺちぺちと叩きながら、樹が悲鳴を上げる。
「――あ、健二先輩!」
「ん?またか」
健二の180SXがスタンドへ入ってくるのを見付けた。運転席から降りる健二へ、樹が精一杯叫ぶ。
「健二先輩、助けてくださいっ」
「何やってんだよお前ら。客いないからって遊んでんなよ」
「何しに来たんだよ健二。相変わらず暇なヤツだな。他に行くとこないのか」
池谷の言葉にムッとしたように健二が片眉を吊り上げたが、何も聞こえなかったかのように問いを返した。
「さっき、LS出てったろ?黒のゴツいやつ」
「ああ。それがどうかしたのか」
「どっかで見たことあるような気がするんだけど。ひょっとしたらヤバい筋じゃないのか」
「ヤバい……って何がだよ」
「コレだよ、コレ」
健二は人差し指で頬を指し、斜めにスイと滑らせた。
「まさか。女の子だし、イツキの友達だぞ」
「え?ホントか、イツキ」
池谷の腕の中、樹はぐったりとうなだれていた。
「おい、イツキ!大丈夫かっ!」
「いや……どう見てもお前のせいだろ、池谷」
「イツキ!戻って来い!!」
池谷は思い切り力を込め、樹の両肩をガクガクと揺さぶる。
ハッと視点を戻した樹が口元の涎を拭って呟いた。何故か恍惚の表情を浮かべている。
「……キラキラした川の向こうにすごくキレイな花畑があって、そこで死んだおばあちゃんが手を振ってました」
「おいおい……ヤバかったな池谷」
「ああ。危うく新聞沙汰だった」
「えーと、健二先輩どうかしたんですか?」
「いや……さっきのレクサス、乗ってる人さ」
「?はい」
「お前の友達なのか?」
「……そうです」
健二の問いに、少し俯いて樹が答える。
「いくつなんだ?学生か?」
樹は視線を宙に浮かべた。
「知らないっす」
「どこ住んでるとか」
「さあ……」
「何も知らないのか?」
「だって昨日初めて会ったんですよ」
「それ友達って言うのかよ」
「いいんです!!」
自信満々の樹を見遣り、呆れたように池谷が呟いた。
「しかし不思議な子だよなー。若いのにプラチナカードだったし」
「それってゴールドカードよりスゴイやつですか!?」
「まあな。しかし何つーか……雰囲気あるよな。車みたいにハデじゃないけど、なんか惹きつけられる、って言うか」
「へー。オレも会いたかったなーその子。イツキ、何て名前なんだ?」
「田中夢子さんですよっ」
樹が誇らしげに胸を張った。春風がそよそよと3人の間を吹き抜ける。
「ずいぶん浮かれてんなー……イツキ、今度あの子来たら絶対紹介しろよ」
「あ、オレも呼べよな」
「絶対にダメです」
有無を言わせない樹の口調に、池谷と健二が顔を見合わせる。
「聞いたか、池谷」
「ああ。許さん」
2人がキラリと目を輝かせ、樹を取り押さえた。秋名山に程近いスタンドは、今日も平和そのもの。
夢子との初めての〈デート〉が決まったのは、4月に入ってすぐのこと。左手の痛みはとうに消えていた。
出会った翌日に来店して以来、夢子がスタンドに来ることはなかった。
そのかわり――と言えるかはわからないが、毎日のように電話やメールのやり取りをしていた。
『男女が前もって時間や場所を打ち合わせて会うこと』をデートって言うって、聞いたことがある。
だから付き合ってるかどうかは関係ない。誰が何と言おうと、これは立派なデート。
そんなことを自分に言い聞かせているうち、約束の時間になる。
一箇所にじっとして居られずウロウロと歩き回っていると、夢子の声が聞こえた。
「イツキくん!」
渋川駅バス停のすぐ傍、ハザードを点けて停まっているLS400。開け放たれた運転席の窓から、夢子が手を振っている。
込み上げる嬉しさを抑えて樹が駆け寄ると、夢子は笑って助手席を指した。
彩られた爪はシャンパンゴールド――いや、それよりも濃厚な――R34の限定色に近いだろうか。
「乗って乗ってー」
「し、失礼しますっ」
助手席側へ回り込むとドアをそっと開け、樹はシートに腰を下ろした。
夢子がアクセルをゆっくりと踏み、それに応えるようにLS400がゆっくりと動き出す。
シートベルトを締めて行儀良く助手席に収まる樹を視界に捉え、夢子が小さく吹き出した。
「やだなー、そんな緊張しなくていいのに。イツキくんてマジメだよね」
「すっ、すいません」
「そーやって謝るトコとか」
「あ、えっと……」
困惑する樹を見遣り、苦笑するような吐息を漏らした。
「イツキくんのいいトコじゃないかなーと思うんだけど」
「……ありがとうございます」
「アタシ、イツキくんのことまだあんまり知らないのに……こんなこと言うの、変かな」
「そんなことないっすよ」
「ま、これからお互いに知ってけばいーよね」
「……はい」
かあっと頬が熱くなり、思わず俯いた樹が問う。
「田中さんて、あの、何してる人なんですか?」
「んー、何もしてない」
「……?」
「簡単に言うと無職ー」
「はあ……」
「イツキくんは、あのスタンドでバイトしてるの?」
「えっと……高校のときからバイトしてて、今月から正社員になったんですよ」
「そーなんだ。エライなー」
「いや、そんな。……そのツメ、ネイルアートってやつですか?」
「そーだよ。今日はけっこー地味だけど」
「地味、ですか……」
「うん。地味です」
運転席から右手をひらりと舞わせ、夢子が笑う。彼女の笑顔は人を惹き付ける――池谷先輩も言ってたっけ。
不意に視界を侵す極彩色に目が眩むように、樹はしぱしぱと瞬きを繰り返した。
平日の昼下がり、暖かな陽射し。桜の開花も早まりそうだ。ファミレスで向かい合うと、夢子がメニューをめくりながら樹へ問う。
「イツキくんていつも何して遊んでるの?」
「えっと……やっぱり車ですかね」
「あ、峠とか走ったり?」
「はい。田中さんは――」
「夢子でいーよ」
「……夢子さん、は、何してるんですか?」
「アタシはねーどっちかっつーとインドア派。だから家にいることが多いかなぁ」
「そうなんですか」
「でもドライブしたり出かけたりするのも好きだよ」
「カッコイイですよね、LS」
樹は傍の窓から、駐車場に停めてあるLS400を見下ろした。黒は他の色を混ぜたとしても、決して自らの色を変えない。
「アレは兄からのお下がり」
「へえ……夢子さん、お兄さんがいるんですか」
「うん、年離れてるけど」
「オレ一人っ子だから、兄弟いるの羨ましいですよ」
「そう?あ、エアロとか全部、アタシじゃなくて兄のセンスだからね」
兄の、という箇所を夢子は強調した。つまり、車もそれに付随するパーツも、自分で選んだものではないということを。
「はぁ」
「ハデだしゴツいから嫌だったんだけど。……乗ってると愛着わくみたい」
「あ、わかります。自分の車って、なんか特別ですよね」
「ねー」
傍からは2人の会話に特別な意味などないように見えるだろう。
互いに視線を合わせて会話をすること、それ自体に意味があるのだと樹は知った。
食事を済ませた後、ドリンクバーで粘ること数時間。すっかり日も落ち、窓の外は紺青の空。夢子が店内の時計を見遣り呟いた。
「あ――ごめん、アタシそろそろ帰んなきゃ」
「え、あ、もう……ですか?」
「ウチ、門限があるの」
「ああ……それじゃしかたないですね……」
「いまどき古いよねー門限なんて。しかもちゃんと守るアタシとか」
「そんなことないですよ。しっかりしてるって言うか……」
門限のある家。それを守る娘。もしかして、夢子は良家のお嬢様……だったりして。
もしそうだとしたら、今まで自分が持っていた〈お嬢様〉のイメージを根底から覆さねばならない。
樹が考え込んでいる間に夢子は伝票へ手を伸ばす。それに気付いた樹が慌てて制止した。
「あ、オレ出しますよ」
「ダメだよー。お詫びもしてないんだからアタシが払う」
「オレ一応社会人ですよ?それに、女性に払わせるなんて――」
「お金に性別は関係ないでしょ」
「オレにとっては十分関係あります」
「うーん……じゃあ自分で食べた分払う。それでどう?」
「……えぇと……」
「はい決まり」
改めて伝票を手に取り、顔の横へ掲げて夢子が笑う。今度は強引に伝票を奪ってしまおう、と樹は決意した。
「今日はどうもありがとうございました。送ってもらっちゃってすみません」
「いえいえコチラこそ。楽しかったよ。ありがとイツキくん」
「あの……今度は、オレが夢子さんを迎えに行ってもいいですか?」
「え、」
瞬きを幾度か繰り返した夢子が、やがて嬉しそうに頷いた。
「――うん、また遊ぼ。帰ったらメールするね」
ひらひらと手を振って、夢子とLS400が遠ざかる。
次に会う〈約束〉。それはまるで、生きる希望に似ている。
大袈裟だって、笑われるかも知れないけれど――オレにとっての〈本当〉だから。
自然と口元が緩む――景色も気持ちも、何もかもが春色に染まるようだ。
陽射しは日毎、暖かさを増していく。
念入りに洗車したAE85で、約束の場所へ向かった。渋川駅が見える頃、沈んでいく太陽は燃えるような橙色。
彼女と会うのは数週間ぶりになる――信号が青に変わり、樹は深呼吸を何度か繰り返してステアリングを握り直した。
以前樹が居た場所で、夢子が手を振っているのが見えた。
すぐ傍へゆっくりと停車して助手席側のドアを開け、夢子へ声を掛ける。
「お待たせしました。どうぞ、乗ってください」
夢子はしげしげとAE85のボディを眺めて、助手席にすとんと腰を下ろす。
「ねえイツキくん、これ何ていうクルマ?」
「ハチゴーっていうんです」
「はちごー、ね。覚えた」
シートベルトに手を掛けた夢子がVサインで笑う。指先は、橙色よりもずっと鮮やかなオレンジ色だ。
無邪気に笑う夢子に見惚れかけ、うろたえるように樹が問う。
「……どこ、行きましょうか」
「イツキくんが普段走ってる峠ってどこ?」
「秋名です」
「じゃあ、そこに行きたいな」
「でも今の時間だと、その……走る、っていうのは難しいと思いますよ」
「別に飛ばさなくていいよ。ちょっとね、見てみたいんだ」
「わかりました。それじゃ、秋名に行きましょう」
「出発ー」
バックミラーを見遣ると同時に、後方へ一台のセダンが停まる。銀色の――メルセデス・ベンツだろうか。
動く気配はない。ウィンカーを点け、樹はAE85を発進させた。
「――あ、伊香保温泉近いんだ」
「はい。秋名は上りと下りがあって、ここが上りのスタートです」
「なるほどー」
温泉街を背にし、AE85は秋名を駆け上がっていく。交通量は思っていたより多くない。
「それで、ここがゴールですね」
「イツキくん、もう一回!」
手品をねだる子供のように、夢子が人差し指をびしっと立てた。喜色満面ってこういうことを言うんだろう――納得させられる。
「はぁ、それじゃ、もう一回……」
樹は今来た道を戻るべく、AE85の鼻先を温泉街へ向けた。
夢子にねだられるまま、もう一回を何度繰り返しただろう。コーナーを〈攻める〉わけでもなく、ただ走るだけ。
飽きることなく樹の手元を眺めていた夢子は、助手席から感嘆したような細い溜息を漏らした。
「マニュアルって楽しそうだね。アタシもマニュアルで免許取ったけど、もうダメだろうなー」
「それなら、夢子さんも運転してみます?クツも大丈夫そうだし」
「えぇー絶対ムリだよ!クラッチなんて忘れちゃったもん」
「オレが隣で教えますから」
「でも……はちごー、壊しちゃうかも」
「平気ですよ」
「うー……」
給水塔が見下ろすスペースで即席教習が始まった。
最低限の事項を簡単に教えてはみたものの、樹は自分のアドバイスに今ひとつ自信が持てずに首を捻る。
「頭で覚えるより、とりあえず動かしてみましょうか。わかんないことがあったら教えます」
あっさりと樹が言い、夢子は少なからず驚いたようではあったが――意外にも素直に「やってみる」と頷いた。
「クラッチ、つないで……あ、わ、動いた!」
まさに〈恐る恐る〉といった表現がぴったり当てはまる。じわりと前進を始めたAE85、運転席の夢子から歓喜の声が上がった。
「あ、ブレーキ――」
突如、前のめりになって動きを止めるAE85。静まり返る車内で、シートベルトの大切さを身をもって知った2人。
「エンストしちゃった……」
「気にしないでください!オレも最初はこんな感じでしたから」
「ごめん……。えっと……ブレーキ踏むときは、クラッチも一緒に踏むんだっけ」
真剣な表情で夢子が呟き、慎重に鍵を回す。セルがキュルキュルと鳴きエンジンが息を吹き返した。
「落ち着いてやれば大丈夫ですよ」
樹の言葉を受け、再度そろそろと動き出すAE85。
「うぁ、怖っ!」
夢子の大声と共に、先程よりも静かに停車するAE85。エンストは免れたようだ。一歩前進、と言えるだろう。
慌ててサイドブレーキを引き上げた夢子が、ひどく気落ちしたようにぼそぼそと呟く。
「ごめんね、イツキくん。アタシやっぱムリみたい」
「……代わりますか?」
夢子はこくりと頷くとシートベルトを外し、運転席のドアを開けた。
つい先程まで樹が座っていた助手席に腰を下ろし、夢子が長い溜息を吐く。
「イツキくんホントすごいよー」
「オレなんかまだまだです。慣れですよ、慣れ」
「そーいうもんかなぁ」
「そういうもんです」
「ね、下りってどこから?」
「ここからですよ」
下りのスタート地点を指した途端、樹の腹部から細長い音が鳴る。慌てて腹を押さえるが既に遅い。
一瞬間を置いて夢子が吹き出し、くすくす笑いながら助手席でシートベルトを引いた。
「アタシもおなかすいたな」
「……何か食べたいものありますか?」
「あ、カップ麺!」
「……え?」
「コンビニで買ってさ、お湯入れてそこで食べるって夢だったの」
「あの、夢子さん……そんなんでいいんですか?」
「だって青春ってカンジしない?」
瞳をキラキラと輝かせた夢子が同意を求める。
「それくらいの夢なら今すぐオレが叶えますよ」
「ほんとに!」
「オレ奢りますから」
「う、それは……」
「コンビニの会計くらい、オレに払わせてくださいよ」
「あー……えっと、じゃあエンリョなく」
ぺこりと夢子が頭を下げ、樹はコンビニを目指すべくサイドブレーキを下ろした。
「いらっしゃいませこんばんはー」
レジ横に置いてある電動ポット、水量は満水に近い。樹は[再沸騰]ボタンを押し、カゴをひとつ手に取った。
彼女はどこへ行った――店内を見渡すと、ある棚に熱い視線を送っている。
ずらりと並ぶカップ麺、ざっと30種類以上はあるだろうか。夢子は商品をひとつ手に取り、物珍しそうにパッケージを眺めている。
「どれにしようかなー」
「これはコッテリ系でニンニク強いですね。あ、そっちはパッケージに騙されないように。チャーシュー小さすぎてびっくりしますよ」
「イツキくんよく知ってるねー」
「まぁ……。夢子さんはこういうの、あんまり食べないんですか?」
「うん、食べたことない」
あっさりと夢子が言い、隣の商品に手を伸ばす。
女性だから――カロリーとか、塩分とか、栄養バランスとか気にしてカップ麺を食べないんだろうか。
「ありがとーございましたー」
コンビニの前でカップ麺食べて喋るなんて、部活帰りの中高生みたいだな――樹は苦笑した。
つい先月まで高校生だった自分が言うのも、なんだかおかしいかもしれないけど。
樹は割り箸を勢い良く割る。それはパキンと小気味良い音を鳴らし、かつてない程美しく真っ二つに割れた。
なんかいいことあるかも、と漠然と思うのも、至極当然と言えるだろう。