For You
両耳にイヤホンをねじ込んで好きな音楽に浸って、街の雑踏に紛れてしまえば──ほら、〈私〉は居なくなる。ここに何百人、何千人の人が居ても、私はひとり。
信号待ちの間、数十分前の会話が頭を過ぎる。あれが会話になっていたかどうか、思い返すだけで吐き気がする程不快だけれど。
『またパチ屋?もうやめなって』
『はぁ?私のお金じゃない』
『い…った、痛いってば!やめて、────』
周囲の空気が動き始めたことに気付いた。歩行者信号が青に変わり、人波がざわついている。
夢子はくたびれたブーツの爪先に視線を落としたまま、周囲の波に身を任せて歩き始めた。国籍も外見も様々な人間が居て、皆一様に他人のことは気にしない。
派手なロゴ入りショップバッグを幾つも抱えた女性達とすれ違う。彼女達はまるで示し合わせたかのごとく、似たような格好をしている。仲間であることの象徴だろうか。
それに比べて私ときたら、せっかくの平日休みなのに行く当てもなく誘う友達も居ない、淋しい女だ。雑踏の中で改めて〈孤独〉という現実に気付かされ、自嘲気味に息を吐く。
曲のサビに差し掛かった辺りで、低いノイズがざらついた。このウォークマンと何年付き合ってきただろう。最近調子悪かったし、そろそろ寿命かな。薄手のコートに留めている、リモコンの液晶ディスプレイに視線を落とす。古びてはいるが、これといった異常はないようだ。
夢子は歩きながら、肩に掛けている鞄に突っ込んでいた本体を取り出した。細かな傷が、沢山付いている。今のウォークマンはHDDやメモリタイプが主流だし、保証期間が切れたこいつを修理するより買い替えた方が安いのかも知れない。後で電気屋へ行ってみよう。カードポイントが結構貯まってるから、安く買える────
思案の最中、背後からの衝撃を感じたと思ったら突然音楽が途切れたその直後。ガシャン、と──絶命に似た音が足元で上がった。耳に入れないようにしていた街の喧騒と、歩行者の流れを断ち切った自分への苛立ちが、まるで針のように無遠慮に肌へ刺さる。
横断歩道の黒と白。その上で機械の破片が散乱し、つい先程までお気に入りの音楽を鳴らしていたMDは飛び出していた。
────ああ、壊れてしまった。今の私と何が違うのだろう。何も違わない。今の私と何一つ。
白黒の横断歩道上で立ち尽くす
夢子と、落下した──壊れたウォークマンを避けて人波が流れていく。今しがた通り過ぎたそこには何も無かったかのように、それぞれが目的地へ向かう。まるで落ちている小石をまたいだように、自分の進路を変えたことなど数秒後には覚えていないだろう。
夢子は伝えるべきものを失ったイヤホンを外し、のろのろと首へ引っ掛けた。
落下して壊れたそれを拾い集めているのは、大きな掌だった。もう使い物にならないことが誰の目にも明らかなのに──彼は大切なものに触れるように丁寧に、
夢子のウォークマンとMDを掌へ乗せていた。程無くしてウォークマンを手に立ち上がった人は背の高い、金髪の男性。真っ直ぐ射るように、
夢子と視線を合わせた。
「──悪い。弁償する」
「……いえ、あの、もともと調子悪かったんで、べつにいいです」
「良くねぇよ。オレの気が済まねぇ」
「…………」
「借りがそのままになんの、気持ち悪いだろ」
「っ──私がいいって言ってんだからそれでいいでしょッ!」
叩き付けるように叫んだ直後、涙が零れた。穏やかな平日、快晴の午後、渋谷駅前、横断歩道の真ん中で。一体何をしているんだろう。最低だ、私。
自分の傍を通り過ぎていく人達の好奇の眼差しを全身に受け、
夢子は俯いた。
彼は躊躇うことなく、俯いている
夢子の肩を抱いた。促すように歩き出した彼につられて足を動かした
夢子は、歩行者信号が点滅していることに気付く。
初対面なのに強引で、だけど触れられることが苦痛ではない──嫌悪感がまるで湧かないことに
夢子は途惑った。
陽の当たらないビルの隙間には温い風が吹いている。彼は
夢子の肩に置いていた手を離し、正面から向き合った。
「……どうしたんだ、これ」
彼は遠慮がちに、
夢子の頬へ指先を伸ばした。赤く腫れ、唇には乾いた血がこびり付き、痛々しいという表現以外に何も思い付かない程の。
「誰に──」
「言わないで」
指先が触れようとした刹那、
夢子が発した言葉は深く鋭く彼の心に沈んだ。
「……こんな傷は何ともないから、だから、私のことを可哀相だとか思わないで」
行き先を失った彼の右手は途惑い、やがて拳としてきつく握り締められた。
「あんたのために、今オレにできることはあるか」
「……安っすい同情。いらない、意味ない。バカみたい」
「そんなんじゃねぇよ」
「──だったら、抱いて。今ここで。出来ないでしょ?出来もしないなら最初から言わないでよ」
夢子は彼の掌からウォークマンを取り上げ、肩に掛けている鞄へ放り込んで踵を返した。
「思ってもねぇこと言うなっ!」
怒気を含んだ声に足がすくんだ。近付いて来る苛立った靴音に、
夢子の背中は硬く強張る。
────痛いのはもう嫌────ごめんなさいごめんなさいごめんなさい────!
両手で耳を塞いだ。外耳道は筋繊維が収縮する音で満たされ、自分の体が鳴らしている音だと思うと不思議と安心できる。聞きたくないことは、こうしていれば聞こえないのだから。そして目を閉じれば、私の世界は闇と静寂に包まれるのだ。
熱を感じて目を開けると、彼の両腕が在って──抱き締められていることに気付く。
「泣きたいなら泣けばいい。あんたの気が済むまで、こうしてるから」
両手に遮られてくぐもっていたけれど、彼の声は確かに聞こえ、
夢子の心にしっかりと刻み込まれた。
隙間無く押し付けられた彼の体から、
夢子の背中へ鼓動が伝わってくる。何の前触れも無く与えられた安らかな温もりを拒める程、自分は強くないということを認識する。
夢子は躊躇った後で恐る恐る彼の腕に触れ、空を仰ぐ。ビルの隙間から見上げる空はただ青く澄んでいた。
夢子が体を離そうとすると、それを察した彼は直ぐに腕を解いた。
「……あの、……ありがとう」
振り返り見上げると、彼は安堵したかのように表情を緩める。
「しっかり笑えてんじゃん。安心したぜ」
彼の指先が唇を掠め、
夢子は驚いたように幾度か瞬きをした。
「私、笑ってた?」
「ああ。笑ってる方が可愛いぜ。下ばっか向くなよ」
「……誰にでも、そういうこと言うんでしょ?」
「ちげーって」
彼は苦笑して大袈裟に手を振ったかと思うと、
夢子が驚く程に真剣な表情を見せる。そして
夢子が首に掛けているイヤホンを指に絡め、改めて謝罪の言葉を口にした。
「壊しちまって、悪かった」
「ううん。ずっと調子悪かったから。かえって吹っ切れたし、良かったのかも」
「やっぱり弁償させてくれよ」
「そこまで甘えられない。……今ので、充分だよ。だからもう気にしないで」
「……わかった。ごめんな、と、サンキュ」
自分をじっと見つめる視線に、彼は「何?」とでも言うように片眉を上げてみせる。
「私、あなたのこと知ってる気がする」
「誰にでもそんなこと言うんだろ?」
「違うよ。知ってるって、絶対」
「ま、そのうち分かると思うぜ」
イヤホンからそっと手を離し、彼が笑う。その笑みはひどく無邪気だったが、どこか意味深なもののように思えた。
「一人で大丈夫か?」
「うん。ありがとね」
「ああ。──じゃあな」
彼がゆっくりと右手を上げた。季節外れの向日葵のような眩しい笑顔に
夢子はこくりと頷き、彼に背を向けた。
帰ったら、捨てよう。彼氏との関係も、ウォークマンも。別れるきっかけを掴めないままダラダラ付き合っていたけれど、これからはきっと前を向いて歩いていける。
それにしても、誰だったんだろう。どこかで絶対、見たことがあるはずなのに……思い出せないなんて悔しい。
「──ねぇ、アレってさっきの?」
「ウソ、本物だったの?似てんじゃなくて!?」
薄暗いビルの隙間から通りへ出ると、周辺の女性達が驚いた様子で同じ場所を見つめている。つられるように見上げた先には、商業ビルの壁面に掲げられた大型ディスプレイが在った。そこに映っているのは恐らく国内のサーキット場。ストレートの長さに見覚えがあった。富士だろうか。何台もの車が、熾烈な争いをしているようだ。ゲームソフトのCM?レースの開催告知?F1車とは違うみたいだけど……
夢子の疑問はすぐに氷解する。
携帯電話が映し出され、映像が『高画質液晶をセールスポイントとする新機種のCM』だと気付いた直後。
夢子は呆気に取られて口をポカンと開けた。強い眼差しで真っ直ぐにこちらを向いた人が誰か判った途端、そこかしこから歓声が上がる。
『進化の先を、見たくはないか』
つい先程、それも耳元で聞いたばかりだ──間違えるはずがない。力強く澄んだ声で、画面の中の彼が言った。
「駅前に居たよね?」
「何で教えてくれないの!? ホンモノ見たかったー!!」
「何だろ、スペイン坂かな」
「行ってみない?ナマで見れるかもっ」
「いやー、もしソコだとしてももう無理っしょー」
「ネットに番組収録とかの情報出てない?」
「待って、ケータイー」
周囲の浮き足立つような雰囲気に飲み込まれそうになり、
夢子は自分を落ち着かせるために深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。駅へと歩き始めた
夢子が気付く。壁面広告も、街灯に掲げられた広告も全部、彼──『高橋啓介』だった。ずっと下ばかり見ていたから、全然気付かなかった。なんだか少し勿体無いような、可笑しいような……
夢子は静かに耳元へ手を当てた。
『下ばっか向くなよ』
「……ありがと」
彼の言葉を思い返し、ポスターの前で
夢子がぽつりと呟く。唇から柔らかな笑みがこぼれ落ちたことには気付かないまま、印刷された彼の笑顔へ背を向けた。信号が点滅を始め、
夢子は雑踏の中を縫うように駆け出した。首に掛けたままのイヤホンが、歩調に合わせて弾むように揺れている。鞄の中でウォークマンとMDが擦れ合い、存在を誇示するように無機質な音を立てたが、
夢子にとってそれは間違い無く幸福の音色だった。
[For You]END.
title.宇多田ヒカル
up date.2008/09/25
another story.
思い出しただけ