思い出しただけ


『お待たせしました、エンタメ速報!今回は出来立てホヤホヤの新作CMを、どこよりも早くお届けします』
見るともなしにつけているテレビからはワイドショーが流れ、女性キャスターの明るい声が聞こえている。スタンド式のアイロン台に夫のYシャツを広げ、夢子はアイロンのスイッチを入れてスチーム量を確認した。スチームを噴射してからアイロンを滑らせ、午後の用事を頭の中でまとめる。風は冷たそうだけど晴れているから、自転車で出掛けよう。銀行と郵便局、本屋とクリーニング屋。夕飯の献立は何にしようか。

『話題のイケメンレーサー・高橋啓介さんが、新作ケータイをアピールです。早速5秒前からカウントダウン!どうぞっ』

キャスターの弾んだ声に、ふと手が止まった。アイロンのスイッチを切り収納ケースに置く。このアイロンは使った後熱いままでも収納出来るし、コードレスで軽いところが気に入って──結婚したばかりの頃買ったものだ。
ああ、そんなことよりも。
夢子は1秒毎に刻まれていく数字を見遣る。
〈彼〉と同じ名前だ。特別珍しい名前ではないが、同姓同名の人物だろうか。レーサーと聞こえたがそれは確か、一度だけ話してくれた──彼の夢だった筈だ。思い出したのは何年ぶりで、あれから何年経っただろう。懐かしさとほんの少しの期待を込めて、夢子は画面を見つめた。



青空と太陽。タイヤの跡が何本も残されているアスファルト。微かに聞こえてくるのは、車のエンジン音だろうか。テレビやゲームで見たことがある、国内のサーキットを上空から映す。長い直線の途中に立っているのはどうやら男性のようだ。視点が低くなり、徐々に男性へと寄っていく。彼は右手に携帯電話を持っている。画面に上半身が映ると、静かにディスプレイを開き90度回転させた。彼が伏し目がちに見つめるディスプレイを画面に大きく映す。レースの最中と思われる、数台の車が走っている映像。猛々しいエンジン音、排気音。タイヤからは白煙が上がっている。いずれも市販車とは大分違うようだ。その中でも一際目を引く、黄色い車が先頭に立つ。それから間も無くチェッカーフラッグが盛んに振られる。満員の客席、湧き上がる歓声。運転席から腕を突き上げる、ヘルメットを被った男性。歓声が徐々に遠ざかり、ディスプレイから男性へと視点が移る。彼が真っ直ぐにこちらを向き、凛とした声で。

『進化の先を、見たくはないか』

大手通信業者のロゴが1秒程映り、VTRは終わった。
『現在、この広告が渋谷をジャック中です。映像出ますか?』
キャスターの言葉が終わらないうち、画面右上に[LIVE]と表示され渋谷駅前の映像へ切り替わる。スクランブル交差点に4台ある大型ビジョン、先程のVTRが映っている。 それぞれ同時に流れ始めたようだ。信号待ちの人達が見上げている様子が分かる。次に映し出された数箇所の壁面広告も、携帯電話を持つ〈彼〉で溢れている。こちらを見つめる強い眼差し。テレビ電話では照れ笑いを浮かべている。ゲームに熱中する子供のような表情。
『圧巻ですねー。ちなみに駅などに貼ってあるポスターの盗難が相次いでいるそうです。皆さん、勝手に剥がしたら絶対にダメですよ!』
冗談めかしてキャスターが言い、コメンテーター達も苦笑を浮かべる。
『明日から全国でオンエアされますので、是非チェックしてくださいね。それでは次の話題。なんとあの大物タレントが──』
話題がタレントの不倫に移った後も、夢子はしばらくテレビから目を逸らせずに居た。やがて安堵するように溜息が零れた。

「夢……叶ったんだね……」

違う。夢子は自分の言葉を即座に否定した。叶ったんじゃない。彼は──啓介は、きっと叶えたんだ。自分の力で。瞳の強さはあの頃と変わらない。啓介と付き合っていた期間は長くなかったけれど、その分とても濃密だったと思う。

『ごめん、夢子。チームが忙しくて会う時間作れなくなった。……オレ達、別れよう』

ある日、突然の別れが終わりを告げる。夢子の返答を待つ様子はない。啓介の瞳に揺るぎ無い決意が見えた。もう何を言っても、何をしても無意味だと悟った。夢子が頷き、二人は友達に戻ることなく別れた。それからは啓介と会うこともなくなり、夢子は東京の小さな企業へ就職した。単なる〈趣味〉の範囲を超えて、啓介は車にのめり込んでいたように思う。夢子は免許を持っていなかったし、車のことも全然知らなかった。他の何よりも車を優先する彼を、理解出来なかった。理解するつもりなど、初めからなかったのかも知れない。今なら少しだけ、分かる気がする。だけど、過去となった今、何が分かっても──

夢子の回想を遮るように電話が鳴った。電話機の液晶画面で発信番号を確認すると、夫の携帯から。少しざわつく心を抑え、夢子は左手で受話器を取る。
「──はい」
『もしもし、夢子?今何してた?』
いつもと変わらない夫の声。夢子は受話器のコードを弄ぶように右手でそっとつまんだ。
「アイロンかけてたよ。お昼休み?」
『ああ。弁当、美味かったよ』
「……ありがと。そんなこと言うの、珍しいね」
『ん、いや、その──』
口ごもった夫の後ろで、からかうような声が聞こえてくる。
『奥さん料理上手!』
『卵焼きいただきましたー』
『バカ、お前らうるさいぞ』
声が少し遠くなった。携帯を離したのだろうか。夫の慌てたような態度に苦笑が漏れる。
「お粗末様でしたって伝えておいて。今日の夕飯、何がいい?」
『うーん……魚、かな』
「範囲広いよー。魚なら何でもいい?」
『いい。夢子に任せる』
「わかった。帰り電話してね」
『ああ。それじゃ』
「はい。待ってます」
夫が通話を切ったことを確認して、夢子は静かに受話器を置いた。

私には私の、今の生活があって──それはとても、幸せだ。過去に好きだったひとを、少し思い出しただけ。ただ懐かしいと思っただけ。彼も今、幸せだろうか。きっと幸せだろう。そうあってほしいと私は思う。

アイロン台の上で仕上げを待っているYシャツに目を遣る。夢子は再びアイロンを手に取り、スチームボタンを押した。



[思い出しただけ]END.
title.今井美樹
up date.2007/12/13
another story.For You