KISS OF LIFE (page.2/2)


「酒井、お前この後暇か?」
閉店後のロッカールーム。東堂社長に声を掛けられ、もう帰るだけの状態だった酒井は頷いた。
「はい、特に予定はないです。どうかしたんですか?」
「嘉納さんとこのエボがトラブった。夢子、家まで送ってやってくれないか」
すまなそうに社長が言う。そういえば、いつも社長が夢子の送り迎えをしていた。
「わかりました」
「大輝じゃ信用できねぇからな。最後に残ってんのがお前で良かったよ」
「……はい」
苦笑してDC2のキーを握り締める。
「悪いな。あいつエンジン室にいるだろうから、後頼むわ」
そして社長は慌ただしく出て行った。

ガレージ奥のエンジン室を覗くと、夢子がEP3のエンジンを組み上げているところだった。
普段の穏やかな顔とは違う真剣な表情に、酒井は声を掛けるのを躊躇った。
彼女は常温20度に保たれたエンジン室の中、オイルに汚れた軍手で額を拭う。
少しずつ作業を進めては傍らのノートに何か書き留めている。2つに結んだ黒髪が揺れていた。


────どのくらい経っただろう。鮮やかな手付きに見惚れていた酒井はふと我に返った。
咳払いをしながらエンジン室のドアを小さくノックすると、夢子が弾かれたように顔を上げた。
ツナギのポケットに入れた携帯電話を取り出して電波を確認している。
「ここ携帯つながらないんだったー!」
彼女が慌しくエンジン室を飛び出してきた。少しだけ乱れた髪と、弾む呼吸。
「えっと……酒井さんずっと待っててくれたんですか?」
「ああ。社長に送って行くよう言われたからさ。一段落ついた?」
「はい、お待たせしてすみません。今準備しますねっ」
赤い顔でパタパタとロッカールームへ走って行く。酒井と、目を合わせようとはしなかった。



「……嫌われてんのかな」
ポリポリと頬を掻くと、組み上げ途中のエンジンに目をやる。

夢子が組むエンジンは素直なんだ』
社長の言葉を思い出す。

『どんなにクセの強いジャジャ馬もな、夢子が手を入れるとちゃーんと言う事聞くんだよ』
それは天性のセンスだ、と社長は言っていた。
「普通」のメカニックがどんなに努力しても辿り着けない場所がある。しかし夢子はいとも容易く、そこへ到達してしまうのだと。


以前酒井が慣らしのために乗ったZ32。そのエンジンを組んだのが夢子だと聞かされて驚いた。
客の車──しかも、エンジン──を、殆ど経験のない夢子に任せてしまう社長にも驚いたが、
気持ち良く伸びる加速、曲がり、止まる──あまりにも当たり前のスムーズな挙動には舌を巻いた。
街中を低速で流しても高速クルーズでも、それは全く揺るがなかった。


夢子が組んだエンジンには「命」が宿る。
決して大雑把には踏んでいけない、独特の質感を持って「生まれ変わった」VG30DETT。
車という機械を機械と認めた上でエンジンと会話ができる、夢子の──夢子にしか出来ない仕事だと酒井は痛切に思った。
「羨ましい」?「嫉妬」?胸が疼くこの理由は一体何だ。

エンジン室の照明を落とし鍵を閉める。


俺はチューニングに携るいちメカニックとして、彼女に嫉妬しているのだろうか。
それなら説明がつく。何よりも自分を納得させるための「理由」になる。



「酒井さん、お待たせしました」
制服に着替えた夢子がパタパタと走ってくる。
ほんの少し歪んだネクタイを直してやると、みるみるうちに真っ赤になってしまった。
夢子ちゃん学校行ってからココ来てるんだっけ?」
「ハイ。あ、でももうすぐ自由登校になるんですよ。そしたら朝からこっち来れると思います」
楽しみですー、とニコニコ笑っている。エンジンを組むときの表情と、全くと言って良い程異なる笑顔。

ショップ裏手の駐車場には、東堂商会自慢のデモカーが整然と並んでいる。
その中で白いDC2のロックを解除すると、夢子が感嘆したように声を上げた。
「このインテ、酒井さんのだったんですか?」
「ああ」
「すごいカッコイィ車だなって、思ってたんですよ」
お世辞が含まれた些細な言葉の筈なのに、酒井の心臓はドクンと鳴った。
平静を装って夢子をナビに乗せたが、心臓の速度はなかなか鎮まらなかった。
進行方向を向いていても視界の隅に入る夢子の膝や指が、酒井の動悸を速めていく。

「酒井さんありがとうございました。おやすみなさい」
「……また、明日」
手を振る夢子に控え目に鳴らしたクラクションで応える。夢子は酒井のDC2が見えなくなるまで手を振っていた。



「よぅ」
「あ、トモさん!」
「久し振りだな大輝」
「はい。この間のレース、お疲れ様でした」
「まァ何とか勝てたけどな。これ、差し入れ」
「やった!いっただきまーす!」
「コーヒー淹れますね」
「悪いな酒井。夢子来てるか?」
夢子ちゃんなら事務所にいると思いますけど……」
「トモさん夢子ちゃんのこと知ってんすか?うわ、うまそー!」
いそいそとケーキの箱を開けた大輝が歓声を上げた。
「まァ、ちょっとな。大輝、モンブランは夢子のだから手付けるなよ」
「はーい」

給湯室でコーヒーの用意をしながら酒井は思案に暮れた。智幸と夢子は一体どういう関係なのだろう。

「トモ兄!」
トレイに乗せたコーヒーカップを運んでいくと、夢子の弾んだ声が聞こえた。
「トモさん、キャバクラじゃないんですからー」
智幸の腿の上に夢子がちょこんと座っている。酒井は危うくトレイを落としかけた。
「ツナギ似合ってるな。なかなかサマになってるぞ」
「でもちょっと大っきいんだよ……」
「可愛いじゃないか。コレは、夢子への土産」
「え?いいの?」
夢子コーヒーあんまり好きじゃないだろ?」
「あ、このお茶すごい好き!」
「葉っぱと迷ったんだが……ココにティーポットがあるとは思えなくてな」
「嬉しい。ありがと、トモ兄」
酒井は居た堪れなくなり、トレイを乱暴に置くとガレージへ逃げた。作業に集中しようとしたが出来なかった。
夢子が智幸に向ける人懐こい笑顔が目蓋の裏に浮かんでは消えて。無邪気な笑顔は、社長に向けるそれと同じようなものだったから。

だから。智幸に嫉妬した。

「みっともねぇ……」
立ち尽くして呟くと唇を噛み締める。口中に錆びた鉄の味が広がった。



「酒井」
「──あ、はい」
振り向くとガレージの入口に智幸が立っていた。
「お前、夢子のこと好きだろ」
投げ掛けられた言葉は突然で、予想もしないものだった。一瞬呆気に取られたが、向けられた視線を外して少し苦笑する。
「何、言ってるんですかトモさん」
「お前は──感情を表に出さない奴だと思ってたけどな」
「…………」
「さっき俺のこと、ライバルだって目で見てた」
「っ、何──」
夢子を泣かしたらタダじゃ済まないぞ。あいつは俺の妹みたいなもんだからな」
「……わかりました」
「しっかりやれよ。じゃあな」
智幸は微笑って軽く手を振り、ガレージを後にした。




夢子ちゃんお願い、も一個ちょーだい」
「ダメですよ二宮さん、あとは酒井さんの分ですっ」
「酒井さん甘いモン嫌いだもん。ね、いいじゃん」
ショールームへ戻ると、大輝が夢子に何かねだっているところだった。
甘い物好きの大輝のことだ。きっと余ったケーキをせがんでいるのだろう。右手にフォークを持ち、今にも夢子ごと食べてしまいそうな勢い。
「……別に嫌いじゃないけど」
「あ、酒井さん!トモ兄帰っちゃいましたけど会いました?」
「うん、さっきガレージで」
「そっか。良かったです」
次の瞬間、社長の怒鳴り声がショップ中に響いた。
「こら大輝ー!ちょっと来いっ!」
「げ、もうバレたか…」
「?何かやらかしたのか大輝」
「大したコトじゃないっすよ。……伝票のケタ間違えただけですもん……」
「……たっぷり絞られて来い」
「うぅ……」
ベソをかいて社長の待つ事務所へ走って行った大輝を見送ると、夢子がおずおずとケーキの箱を差し出してきた。
「あの……ケーキ、食べませんか?トモ兄のお土産なんです」
残っているのはモンブランとチョコレート。
夢子ちゃんモンブラン好きなんだろ?トモさんが言ってたよ」
「あ、でも……どっちも好きですから。酒井さん好きな方どうぞ?」
暫し考え込んでしまった酒井を、大きな瞳で見上げてくる夢子

そんな顔で見つめられたら理性なんて簡単に飛んでしまう────

「良かったら半分こにしますか?」
「──ああ、そうだね」
辛うじて踏み止まって、ぎこちなく笑った。
「コーヒー淹れます。待っててくださいね」
休憩室として使用しているスタッフルームに行くと雑然としていた。急に「ふたりきり」を意識してしまい、体温が一気に上がったのを感じる。
「中学生じゃねぇっつの」
自嘲気味に呟いたところで上がった体温は下がらず、酒井は苦笑を漏らした。



「酒井さんはお砂糖入れないで、ミルクひとつですよね」
夢子の声に心臓が跳ねる。
「ああ。ありがとう」
好みを覚えてくれていた、ただそれだけのこと。「特別」なんかじゃない。プラスチックのカップホルダーを受け取って、微かに触れ合う指先がジンと痺れた。

「半分こに切ってもらえますか?」
夢子から渡されたのは果物ナイフ。彼女は右隣に座り、酒井の手元を見つめている。
「いただきまーす」
にこにことケーキを頬張る夢子。幸せそうだ。

ケーキって、しばらくぶりに食べたけど──こんなに甘かったっけ。

チラリと隣の夢子に目を向けると、唇の横にチョコレートクリームがついていた。
「クリームついてる」
微笑いながら指摘すると夢子は頬を染めて慌てふためいている。スイ、とクリームがついた唇に触れると夢子は硬直した。
「……ごめん」
「な、何がですか?」
夢子ちゃんは──トモさんが、好きなんだろ」
「え──」
シンと静まり返るスタッフルーム。空気が一瞬で重くなる。自分のせいなのに酒井はひどく哀しくなった。


「あたし、好きなひといますから」
暫く続いた沈黙の後、夢子が呟いた。
「ぶっきらぼうで口数少なくて、でもホントはすごく優しくて──インテRにターボ乗せちゃうようなひと、です」
また、静かになる。ガレージからEP3のシャシダイ計測の音が微かに聞こえた。夢子が組んだエンジンが、目を覚まそうとしている。

カップから立ち昇る湯気は大分減っていた。

「先を越されたか……」
酒井は苦笑しながら大きく息を吐く。
「俺から告白しようと思ってたんだけどな」
きょとんとしている夢子に体を向けて真っ直ぐに言った。
「俺も、夢子ちゃんが好きです」
俺の声は多分、震えていただろう。

「……ほんと、ですか?」
「うん。ホント」
「ほんとに、ほんとですか?」
「ホントにホント。好きだよ、夢子
堰を切ったようにポロポロと涙が零れた。彼女の頬を伝うそれを、親指でそっと拭う。
「俺と付き合ってくれないかな」
「……はい」
小さな声で夢子がこくりと頷く。俺の心臓は壊れそうな程激しく鳴っていて、正直なところ呼吸すらやっとだった。
「社長にブッ飛ばされそうだな……」
やっと夢子が笑う。
「あたしも一緒に殴られるから、大丈夫ですよ」
テーブルの下でこっそりと握り合った手に力が入る。そっと触れた夢子の唇は、甘い、甘い──チョコレートの味がした。



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title.平井堅
up date.2004/12/04