夏影トワイライト (1/2)
彼と出会ったのは、高崎のでっかい病院。実習でくたくたに疲れ果てた帰り道だった。

資料やファイルを山ほど抱えて、外灯が作る自分の影ばかり見ながら最寄のバス停へ向かうとき。ひょいと背後から手提げバッグを奪われた。背の高い〈犯人〉は数歩向こうからこちらをじっと見つめている。

処理が追いつかない夢子の脳内。それでも、バッグの中身を失くしたら大変厄介な事態になる、ということだけは解った。

丸めていた背中を伸ばしながら見上げた空は一面、群青色に塗られている。

警戒しながら彼へ近付くと――犯人は突然、非礼を詫びて名乗った。今の今まで〈仕事〉していた病院と同じ苗字。それは特別珍しいものではないけれど、彼に見覚えはない。共に働いたスタッフの中には居なかったはず。

歩き出した後姿についていくと、どうやら彼は病院の裏手に向かっているようだ。

関係者用駐車場の隅、一台の車が目に留まる。凛然と白く、美しい車。スポーツカー、という種類だろうか。彼が愛おしそうに視線を遣ったその車は、佇まいがどことなく彼と似ているように夢子には感じられた。

促されて腰を落とした助手席。走り出した車中で聞かされたのは彼自身のこと。それから『プロジェクトD』のこと。


「実験というか、試してみたいことがあるんだ。協力してくれないか」


数週間後に茨城で行われる〈公道バトル〉当日、それもレース前のメンバーの食事を夢子に任せたいと彼は言った。

「どうして私に?」

純粋な疑問だった。院内で実習中の学生は恐らく自分一人。学生だから時間に余裕があるだろうとか、そんな理由なんだろうか。

「実習……いや、仕事と向き合う姿勢に惹かれた。それに、君がこの問題にどう向き合うか興味がある」

ううん、と唸る。まいったな。このひとは、食の大切さを知っているんだ。

実習と同じように、テキストや講義での勉強だけでは得られない〈経験〉を積めることは大きな魅力。

論文やレポートの題材にはならなくても、研究室での話のネタにはなるかなーなんて、我ながらずる賢い思いもあったけれど。

彼に協力することで得られる利益はいろいろあるだろうけど、何よりも〈高橋涼介〉――彼の存在そのものに興味が湧いた。

先程の説明では、予定している日程は実習期間が終わる頃。スケジュールには余裕がありそうだ。夢子には断る理由がなかった。

「わかりました。喜んで協力させてもらいます」

実習で疲れて空腹であることを忘れるくらい、楽しみでしかたないイベントができた。自宅へ送り届けられてからも、ウキウキした気分のおかげで実習レポートはスムーズに片付いた。



自分が興味を持ったことについて、調べたり考えたりするのは楽しい。メニュー。食材。器具。食器。手順。

野菜はいつも、近所の農家さん達が出荷できないものを分けてくれるから話してみよう。主食は先に確保しておいたほうがいいかな。こまごました食器や器具は、大学の物品貸出が使えるかもしれないから調べておかないと。

毎日の講義で学んだことのいくつかは、きっと役に立っていると思う。




あれ以来涼介とは携帯で何度かやり取りをして、メニューもだいたい決まったところ。〈プロジェクト〉に携わるメンバーの名前も、一通り覚えたつもりだ。

今日はいよいよ『キッチン付の車』が自宅にやってくる日。予定時間より少し前、自宅の駐車場には自分の車一台だけが停まっている。

「ん、来たかな」

移動販売なんかの小さなケータリングカーが来ると思ってたら、予想以上に大きなワゴン車。後ろにもう一台、ついてきているみたい。

よく灼けた肌の男性が、ワゴン車の運転席から降りてこちらへ「ども、中村賢太です」と頭を下げる。

〈バトル〉のドライバーではなさそうだ、同い年くらいかなと年齢を想像しながら名乗りと一礼を返したら、涼介の姿が目に入った。

「涼介さん。これ、どうしたんですか」

「借り物だが……使ったことは?」

「こういうのは初めてです。中、見てもいいですか」

頷く涼介を後目に、颯爽と乗り込んだ。内部を一通り見渡すと、キャンピングカーのようである。さすがにこの中で宿泊はできなさそうだけど、一人で動くには充分な広さのキッチンスペース。

よく手入れされたピカピカのコールドテーブルに指先を滑らせた。冷蔵庫の上面を調理台として使うことでスペースを確保している。

電子レンジ、シンクやガスコンロが備え付けてあり、壁面や上部の収納棚には食器と調理器具も揃っているようだ。

調理室をコンパクトにまとめるとこうなるんじゃないだろうか、と思わせる納得の機能美。

「クルマのくせにナマイキだ!」

思い付いたまま、鼻息荒く言葉を発した。ある種の褒め言葉ではある。

「気に入ってもらえて嬉しいよ。ということで、預けていくから一通り使ってみてくれないか」

手渡された取説をパラパラめくった夢子は「これって普通免許でも乗れるんですか?」と疑問を呈す。

「勿論。ただ、運転は彼に任せてくれ。シェフの手は大事にしたい」

不意に、夢子の右手が宙に浮く。すっかり油断していた手の甲に一度、涼介の唇が確かに触れた。左手で取説を抱えながら、自分がまるでヒロインにでもなったかのような錯覚に陥る。

こういうことをサラっとやれちゃう人が現実に居るんだなあ、なんて他人事のように感動してしまった。

「何かあれば、携帯へ。――期待しているぞ、夢子

その後二人が乗り込んだのは、この間の白い車ではなく、暮れていく太陽に似た色の車。賢太さんが運転するみたい。

遠ざかる車を見送った夢子は「期待されてることだし、いっちょやりますか」と呟いた。



夏影トワイライト (2/2) #

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