それは甘美な誘惑の音色
曇天、気温15度。シューズが踏みしめるアスファルト。スーツ越しに背中を叩かれる感触。脱ぎかけたヘルメット越しに、称賛の声。

「小柏すげえ、またタイム縮めたな。オレも負けてらんねー」

「わたし、将来プロになりたいんだ」

新鮮な空気を吸い込んだ夢子は、相手の表情が曇っていることに気付く。

「プロって、お前それ本気で言ってんのかよ」

「……どういう意味?」

「女がプロのレーサーなんか、なれるわけねーじゃん」

身体が震えると同時に目が覚めた――心底呆れた、といった声色がまだ、耳に残っている。あの日から何度もみた、忘れられない夢だ。

夢子は息を吐き、枕元の時計へ手を伸ばす。床に就いてから1時間も経っていない。目元を擦ると指先が冷たい。期せずして流れ落ちた涙、はらはらと枕へ染みていく。


そこは小学生の頃、父と兄に連れていってもらった県内のサーキット。はじめは父のMR2に同乗したり、兄がカートで走るところを見ているだけだった。

それでも充分楽しかったけれど、サーキットでのルールを覚えて、自分でカートに乗り始めたらもっと楽しくなった。

新品のスーツやグローブが身体に馴染んでいく心地良さ。カートシューズを何足も履き潰して、わたしは一端のレーサー気取りだった。

夢にでてきた彼は――自他共に認めるわたしのライバルだった、他校の同学年男子。確か、F1ドライバーになりたいと言っていた。

彼は今、どうしているのかな。きっと、夢に向かって努力している。あの頃と同じように夢を追い駆けて、走り続けているのだろう。



わたしは女だから、プロレーサーにはなれないのだろうか。わたしが女だから、夢を持つことさえ許されないのなら。それが本当なら、わたしは女でいたくない。

真偽を確かめることすらできず、ただ悶々と走り続けた。タイムは思うように伸びなかった。今のわたしなら、どうしただろう。あの頃抱いた夢は本当だったはず。




サーキット通いをやめたのは、中学に入ってすぐの頃だった。

薄赤く色付いた下着を呆然と見下ろし、下腹部へ手をあてた時。理解せざるを得なかった。

毎月、毎月、閉経するまで何十年もずっと、規則正しく血を流し続けるわたしの身体。それは抗いようもなく女であることの証明。女でいたくない、という自分の意思に反して女であり続ける事実を眼前に突き付けられている。

何故か悔しくてたまらず、誰にも見つからないようにトイレで泣いた。悔し涙を流す場所は、今までずっとサーキットだけだったのに。

「父さん。わたし、カートやめる」

その日わたしは、レーサーになる夢を捨てた。



夢子。週末、行かないか?」

カートをやめることを父に伝えてからも、兄は以前と変わらずサーキットへ誘ってくれた。それを断り続けることはつらかった。

わたしの夢はまだ見つからない。何かを探すように、ただ勉強だけに集中していた。他に何も、考えないように。

「えっと……ごめん。土日、塾で模試なんだ」

「そっか、忙しいんだな。それじゃあまた今度誘うな」

「……うん。ケガしないで、がんばってね」

「ああ、サンキュ」

頭を撫でてくれる兄の掌はいつも優しかった。わたしはこんな優しさを、誰かに与えることができるのだろうか。

カートをやめてから伸ばし始めた髪は、ずいぶん長くなっていた。


高校に入ったら、何か見つかるだろうか。他に特別することもないし、どうせならトップクラスの高校を目指したい。目標は高い方が俄然、燃えるタイプだから。

その後――推薦を受けて志望校の特待生となったことは、きっと運が良かっただけじゃない。地道な努力が実ったと、思ってもいいだろう。

目標をひとつクリアした途端、次の目標が欲しくなる。卒業まで、あと少し。

人生を振り返るにはまだ早い。これから先にはもっと、いろんなことがあるんだろう。そうでなければつまらない。



すっかり目が冴えてしまった。父はまだ起きているだろう。兄はたぶん、バイクでいろは坂を走っている頃だ。

明日も授業があるし、このまま夜更かしはできない。喉が渇いている気がした。少しだけ水分を摂って、また寝よう。

時計の傍らに置いていたヘアクリップを手に取り、髪をざっとまとめて留めた。長い髪の扱いも、今では当たり前のようにこなしている。




階段を下りると、リビングのドアから光が漏れていることに気付く。何気なくドアを開けた途端、エキゾーストノートが身体へ飛び込んできた。

音量は大きくなかったけれど、まるで欲していたかのように夢子の全身が「音」を吸収する。

瞬時に叩き起こされる奥底の衝動。ありありと鼻先を掠めるタイヤのにおい。煙。熱。風。汗。涙。滾る。震える。身体も心も、わたしの全部を持っていかれる。――――走りたい。今、すぐにでも。

いや、ひとまず落ち着こう――夢子は掌を胸元へ当て苦笑した。

わたしは走ることを――しんどくて、難しくて、とびきり楽しいことを忘れるなんて、きっとこの先もずっと、できはしないのだ。



軽い咳払いの後ダイニングチェアへ腰を下ろすと、パソコンの画面――恐らく走行データを見据えている父は、目線を束の間こちらへ寄越した。

夢子。まだ起きていたのか」

「目、覚めちゃった」

テレビに映っているのはサーキットを走る兄。私たち兄妹の成長記録は、県内のサーキットで撮影されたものがほとんどだ。しばらく眺めているうち思い付いた疑問が、夢子の口を開かせた。

「免許、取れるのって16歳だっけ」

「ああ。原付免許だな」

「教習所行くのに、学校の許可ってすぐもらえるのかな」

「いや、厳しいだろうな。特にお前が行く高校は」

「あ……うん、そうかもね」

苦笑を含めて頷いた直後、歓声とは違う種類の声が上がる。先頭集団で大きな事故が起こったようだ。

後続車が2台、あっと言う間に巻き込まれていく。身を乗り出すと、まとめていた髪が一束ほつれ、頬を掠めて胸元へ流れる。

流れるクラッシュ車輌を避け、カイの車がトップに立った。もうすぐゴールだ。どうかそのまま、駆け抜けて。


「公道とは違う、サーキットなら免許は要らない。知ってるな」

静かにキーを叩く父が夢子へ問い、夢子は座り直しながらもテレビから視線を外さずに耳を傾ける。

「……知ってる」

「週末は空いているか」

「うん。推薦もらったし、卒業までおとなしくしてればいいんでしょ」

「おとなしく、か。無理だろうな、お前には」

「ムリだね。父さんの娘だもん」

「その上、あれが兄じゃあな」

父が指差した先には表彰台の兄。カメラに気付き手を振る兄の笑顔。夢子も知らず笑みを浮かべる。

兄の情熱は、一緒に走ったあの頃と変わらないまま――今はそれよりもっと、もっと、熱くなっているのかもしれない。

テーブルへ頬杖をつくと、指先が髪に触れた。

あの頃――サーキットを走っていた頃はメットを被るため、ショートヘアーを維持することが自分にとっては当たり前だった。

カートをやめてからは、半ば意地のように髪を伸ばしていた。それは……自分の性別をきちんと受け入れるつもりで?

そんなの、とっくにわかってる。明日、学校の帰りにでもバッサリ切ろうか。きっとまた、いろんなことがラクになる。そしたら、



バイクの音を捉え、夢子が瞬発的に立ち上がり玄関へ向かう。やれやれ、とでも言いたげな父の視線が背中へ飛んで、それでも夢子は嬉しかった。兄へ言おうと心に決めたから。

わたしをまた、サーキットにつれていって。いろんなことを教えて。あの頃みたいに一緒に走ろう。



靴を履くことすらもどかしい――スニーカーの踵を潰し、ドアノブに手を掛ける。

耳奥に淡く残るエキゾーストノートを捕まえるように、夢子は玄関を飛び出した。





[それは甘美な誘惑の音色] END.

お題:エキゾーストノート

20011/07/07 up.


小柏カイ||0:top