First impression
初めての一人暮らしで舞い上がっていた夢子を現実に引き戻したのは、ほとんどカラに近い冷蔵庫だった。

家賃、セキュリティ、周辺環境――賃貸住宅の決め手は人それぞれ。

夢子が今のマンションを選んだ理由は、歩いて行ける距離に24時間営業のスーパーが在ること。コンビニではなくスーパーというところがポイント。

駅からは少し遠いけれどその分家賃は安くなるし、夜間静かなことは良いことだ。

「買い出し行きますか」

すっくと立ち上がって決意を呟いた。スッピンに眼鏡、ジャージ、ただ結んだだけの髪という完全に油断した格好。

"知り合いにばったり会う可能性"がゼロだということは、こんなにも気楽なのか。夢子はダウンジャケットを羽織り、スニーカーに足を突っ込んだ。



「500円のお返しになります。お確かめください」

500円玉とレシートを受け取ると、重たいカゴを――少々気合を入れて――持ち上げる。

夢子は両手にレジ袋を提げ、自分だけの城へ帰るべく自動ドアを開けた。春の夜と呼ぶにはまだ早い。突風に身震いをする。

掌にレジ袋の持ち手が食い込んできた。よいしょ、と持ち直して家路を急ぐ。通り掛かる車のライトが背中を照らす。

大きな道路は歩道がきちんと整備されているけど、裏道に入ると狭いからちょっと怖い。この間も自転車に轢かれそうになったし――



「おい、あんた」



突然、背後から声が上がった。呼び止められたのは自分?

そっと振り返った夢子は男性を目にする。背が高く、がっしりとした体格。金髪で、割と強面。――かなり、怖い人なのではないか。

夢子は思わず警戒して半歩後ずさる。彼はそんな夢子を一瞥し、気にする風もなく何かを差し出してきた。


「これ、落としただろ」

「……あ、」

それは食パンの耳が詰まった袋だった。確かに、夢子がパン屋で買ったもの。慌ててレジ袋を片手に持ち替え、警戒したことを反省しつつ受け取った。

「すみません。ありがとうございます」

「いや」

少し離れた車道、ハザードランプを点滅させて停まっている黒い車。わざわざ車を停めて、降りて、これを拾ってくれたというのか。

普通、そこまでするだろうか。自分だったらどうだろう。親切な人って居るんだなぁ。



「あんたが食べるのか?」

無事、夢子の元へ戻ってきた袋を指して彼が尋ねる。

そのままでも良し、揚げても良し。主食にもおやつにもなる万能なパンの耳、端の切り落とし。

スーパー内のパン屋、陳列棚に無造作に積まれていて迷わずトレイに乗せた。

「……変ですか?」

「そうは言っていない」

恐る恐る聞き返すと、彼は苦笑するように吐息を漏らす。

「動物でも飼っているのかと思っただけだ」

「いえ……」

「そうか」

彼は唐突に背を向けた。車へ戻るようだ。


「あの、ありがとうございました」

夢子が再度礼を言うと、彼はちらりとこちらを振り返って少しだけ笑った。彼が乗る黒い車は、何だか大きな音を立てて夢子の前から姿を消した。



「あの人はいい人に違いない」

パン耳をレジ袋へしまい直しながら夢子が呟く。人は見掛けによらないって言うけど、多分本当だ。第一印象は――怖い、だったけれど。

「また会えるかな」

私の印象はどんなだっただろう。そう思ったところで気付いた。自分が完全なスッピンで居ることに。

初対面で"素"を晒してしまうなんて、生まれてこの方経験がない。

幾分飾った自分。素の自分。どちらも自分だけど、少しでも"良く"見せたいと思うのが女心ってモンだ。

今更後悔しても仕方ない。もしまた会えたとして、気付かれなかったら初対面を装ってしまえばいい……あまり解決にはなっていないけれど。

両手にレジ袋を持ち直し、夢子は家路を急いだ。




本日は見事な快晴。ベランダでは洗濯物が風に揺れている。

朝食兼昼食を終えた夢子は、食器を片付けて外出の準備に取り掛かった。洗顔して、コンタクトを入れて、化粧をして、髪を緩く巻いて。

歩き回るからスキニーデニムに、ぺたんこなパンプスを履いた。荷物は財布と携帯だけ。

通りに出るとフード付セーターの袖を少しまくる。今日は暖かい。散歩という名のご近所探検へ出掛けることにした。


万が一、どこかで迷子になっても携帯にはGPSが搭載されているし、自宅の場所は登録済みだ。駅へのルートはしっかり覚えたから、奥まった裏道にでも入ってみようか。

自宅マンションから路地を何本か曲がったところで、円い瞳にじっと見つめられる。


『にゃあ』


出合ったのは真っ黒な、猫。大きさからすると成猫だろう。黒猫は体をすり寄せるように、夢子の足元をうろつき始めた。随分人懐こい。思わず口元が緩む。

「ちょっとだけ、触らせてね」

夢子がしゃがむと、黒猫はアスファルトへごろんと寝転がった。存分に撫でるが良い、とでも言いたいのだろうか。お言葉に甘えて手を伸ばす。野良猫にしては毛並みが柔らかく美しい。

「首輪ナシか。どこから来たの?」

当然ながら返事はない。呼吸に合わせて小さな体が揺れている。



いきものに触れることは、命に触れるということ。

いきものを飼うことは、命に責任を持つということ。



「誰かと一緒?それとも、ひとり?」

問い掛けた途端、黒猫の耳がピンと立って、それからすぐに駆けて行ってしまった。撫で足りないような気がして慌てて追い掛ける。

そう遠くないマンションの駐車場に入っていく後ろ姿が見えた。関係者以外立入禁止であろうその場所、一瞬躊躇って侵入を決める。


黒い尻尾を発見。一台の車の下へ潜り込んでいく。


「出てこないかな……にゃ〜」

デニムの膝をつき、車の下を覗き込んで呼び掛けるが、こちらに興味を失くしたように丸まっている。

この現場を押さえられたら、間違いなく不審者扱いだろう。

叱られる前に諦めるべきか――そう思った途端、黒猫は身を起こして飛び出してきた。黒猫が駆け寄った先には、一人の男性。


「あ」

夢子が落としたパン耳を拾ってくれた人。

いきなりスッピンを見せて(見られて)しまった人。

そういえば、この黒い車はあのときの――



「……何をしている」

彼は半ば呆れるように問うた。足元に黒猫がじゃれ付いている。

「あの、猫、」

「こいつのことか」

夢子が慌てて立ち上がると、彼は黒猫を抱き上げた。


「飼い猫ですか?えっと……」

「須藤」

「須藤さん。私、田中です。田中夢子

夢子か。覚えておこう」


『にゃー』


「こいつは地域猫だ」

「……地域?」

「地域住民で飼っている。特定の飼い主は居ない。ピアスは見たか?」

須藤は抱いている黒猫の耳を指した。夢子がそっと近付くと、黒猫は夢子をじっと見つめ、彼の腕の中で『にゃあ』と鳴いた。

「あ、ホントにピアスしてる」

「野良猫と見分ける目印だな。個体管理、識別も出来る」

夢子は感心したように頷いた。

「越してきたばっかで、知らなかったです」

彼は近距離に居る夢子へ、確認するように呟いた。

「少し前に、会ったな。夢子

「!どうして――」

「分かるさ。化粧や服が違っても」

「私、あんまり変わってないですか?劇的な変身を遂げたつもりなんですけど」

「いや――変わっては居るが」


彼はそこで口をつぐんだ。


「何ですか?」

「すまない。上手く説明出来ない」

『にゃん』

「……メシの時間か」

彼はそっと黒猫を地面へ下ろした。黒猫は軽い足取りでどこかへ向かう。

「ごはん……」

「給餌の場所と時間は決まっているからな」


ふと、2人の視線がぶつかる。


「あいつを追ってここまで来たのか?」

「……不法侵入ですよね、すみません」

「謝ることはない」

ほっとしたように夢子が微笑った。そして、何かを決意したように彼を見上げる。


「あの、須藤さん」

「何だ」

「私と、友達になってもらえませんか」

「……友達?」

「こんなこと急にアレですけど……できれば、でいいんです」

「構わないが。俺と友達になりたいなんて珍しいな」

「そうですか?」


夢子はきょとんとした目をして、デニムのポケットから携帯を取り出した。


「まあいい。好きにしろ」

彼は携帯を夢子に渡し、鍵を取り出した。夢子は右手に自分の携帯、左手に彼の携帯を持って途方に暮れる。


「私、ひとの携帯開けられないです」

困ったような表情で、夢子は左手を差し出した。

運転席の鍵を開けようとしていた彼は、自分の携帯を受け取り苦笑した。オーナー情報送信を選択し、夢子の携帯を指す。


「赤外線、いいか?」

「はい、いつでも受信できますよ」

赤外線通信を終えると、彼は携帯を閉じて溜息を吐いた。


「悪いな。今日は約束がある」

「彼女さんですか?」

「……いや。それ以前に女じゃない」

「はぁ。そうなんですか」

夢子は小首を傾げて携帯をしまった。

「ありがとうございました、須藤さん」

「京一だ」

「え?」

「須藤京一」

「京一さん、ですね。失礼します、京一さん」

夢子が笑んで、くるりと京一に背を向けた。駐車場の出入り口できょろきょろと左右を見渡し、電柱の住所表示を眺めている。

京一はそんな夢子をしばらく眺め、やがて愛車の運転席へ乗り込んだ。



『にゃあ』

夢子は細い路地を探検している途中であの黒猫と再会する。

「あれ、ごはん食べに行かないの?もう食べた?」

『にゃーん』

「ありがと。きみのおかげで友達できたよ。今度、おやつでもあげるね」

そっと頭を撫でた。黒猫はごろごろと喉を鳴らしている。


「……ごはんの時間が決まってるなら、勝手にあげたらダメなのかな」

夢子は思案するように眉を寄せていたが、やがてぽつりと呟いた。


「あとで、京一さんに聞いてみよう」

真っ赤になった夢子の顔は、黒猫だけが知っている。





[First impression] END.

お題:初めて

2008/02/23 up.


須藤京一||0:top