助手席彼氏
関東地方の梅雨明け宣言から一週間。日中の陽射しは既に真夏のようだ。

賑わっていた『東堂商会』店内は宵の口から客足が減り始め、〈約束〉の時間が近付く頃には随分静かになっていた。

まとわりつくような暑さを振り切るように、東堂が敷地奥でガレージのシャッターを開けると同時。聞き慣れた音を捉える。

「時間どおりだな、智幸」

デモカー・NSXの運転席から降りた智幸が東堂へ頭を下げた。一見、単なる黒無地と思えるスーツ姿。二つ釦のジャケット、程良いシルエットのパンツにはシャドウストライプが忍ばせてあり、光が当たると柄として浮かび上がる。

生地や仕立てを含め、きっと夢子が智幸のために選んだのだろうと東堂は一人頷いた。

左手首の時計を一瞥し、ネクタイを緩める智幸へ「手を入れる箇所に変更はないか」と問う。

「ええ。昨日電話で話したとおり、お願いします。引き取りは明日の夕方以降で大丈夫ですか」

「そうだな。代車、どれでも乗っていけ」

「いえ、送ってもらうつもりですから」

夢子はもう行っちまったな。ああ、あいつ明日は休みだぞ」

「……そうですか。まだ誰か残ってますよね」

「表に行ってみな」

「はい。失礼します」

東堂の言葉通り〈表〉へ回ると、これから走りに行くであろう塾生を見つけた。熱心にS2000のフロントガラスを拭き上げている。

声を掛け塩那まで乗せてほしいと頼むと、彼は一も二もなく頷き「トモさん、運転してくれますか」と目を輝かせた。





東堂塾がホームコースとする塩那まではそう遠くない。到着後、橋を渡りきったところで塾生が一人こちらへ近付いてくるのに気付く。彼は友人と智幸を交互に見、智幸へ挨拶した後口早に疑問を投げ掛けた。

「おい、なんでトモさんと一緒なんだよ。おまえの車で来たのか?」

「偶然会って、ここまで運転してもらったんだぜ。超ラッキー」

「マジかよ、いいなあ。トモさん、帰りはオレの車どうすか?こないだエキマニ替えたばっかなんすよ」

彼は期待を込め、すぐ傍のインテグラDC5を指す。軽く首を振った智幸が「悪いな」と詫びた。

田中の隣に乗せてもらうつもりだ。来てるだろ」

夢子さんなら、データ取ったりしてくれてますけど……。隣って、トモさん運転しないんすか?」

「運転席のシートが小さいんだ。完全にあいつ専用だからな」

「へえ、そうなんすか。知らなかったなぁ。今度は絶対、オレの車に乗ってくださいね。約束ですよ」

「ああ。それじゃあな」

塾生達をあしらった智幸が探すのは夢子と、彼女の愛車――濃い緑色にパールが散りばめられたCR-X デルソル。

歩き出してから間も無く、視線が吸い寄せられるように一台の車を見つけた。

持ち主はドアを開け放ったまま助手席に浅く腰掛け、忙しなくキーボードを叩いているようだ。俯いているため表情はわからないが、きっと可愛い顔が台無しの(やけに険しい)しかめ面だろう。



田中

智幸から呼び掛けられた彼女は少量の驚きを滲ませて顔を上げ、しっかりと視線を合わせた上で〈彼〉の苗字を口に出す。

「……舘君」

「悪いが、送ってくれるか。切りのいいところで構わない」

「わかった。少し、待ってて」

それから間も無く立ち上がった夢子は共用パソコンを塾生へ預け、何やら話し合い始めた。頷く度に背中で髪が揺れている。

終業後、私服に着替える時間すら惜しく急いでここへ来たことが推測できた。袖を捲り上げた空色のツナギ、履き古したスニーカー。作業の邪魔にならないよう、束ねただけの髪。

女性の〈色気〉とは程遠い仕事着姿を眺めているだけなのに何故、こうも彼女を魅力的に感じるのか。久し振りに会うから――ただそれだけではない筈だ。

匂い立つような狂熱に飲み込まれそうになり、智幸は夢子から視線を外すと軽く咳払いをして平静を装う。



夢子ちゃんお疲れー。トモんちまで送ってくんだって?おいトモ、夢子ちゃんいじめんなよ」

「俺が田中を虐めているように見えるのか。心外だな」

「お疲れ様でした。お先に失礼します」

「おう、気ぃつけてなー」

そこらに散らばっている先輩達への挨拶を済ませた夢子は「行こ」と智幸を愛車へ促した。

「舘君、今日は宇都宮で会合だったよね。社長に車預けて塾生拾ったの?」

「ああ」

「代車が出払ってたなら、誰かに送ってもらえばよかったのに。帰るだけなら、べつにここ来なくたって」

「いや……まあ、それでも良かったんだが」

歯切れの悪い返答を訝しんだ夢子が、理由を問うように傍らの智幸を見上げる。

「ここに来れば、田中に会えるかも知れないと思ったんだ」

夢子は嬉しそうに顔をほころばせたが、表情を強張らせて唇を結び、素早く周囲を見渡した。

「……だめだよ、舘君。どこで誰が聞いてるか、わからないんだから」

「そうだな。悪かった」

智幸が反省の素振りを見せると、夢子は困ったように眉根を寄せて頷き運転席のドアを開ける。

腰を落とした助手席でシートベルトを引き出しながら、智幸は息を吐き安堵を滲ませた。――やっと、ふたりきりになれた。

電話やメールでの連絡も会話のうちとはいえ、直接会って話したいことが沢山あった筈だ。何から話せばいいか悩んでいると、運転席から呆れ声が飛ぶ。

「連絡もナシで、びっくりした。私が居なかったら、智幸どうするつもりだったの」

「その時に考える」

苦笑がふたつ零れた後、デルソルは発進する。2席の小さい車に一目惚れした夢子が方々探し回り、やっと見つけ出した上玉だ。

今夜はサイドウィンドウだけでなくリアウィンドウも全開にしている。車内に流れ込む夜風を受けて、夢子の髪が踊る。

「風あると涼しいね。昼間すっごい暑かったでしょ。太陽がんばりすぎ」

「作業中だからってガレージに篭ってないで、水分摂って休憩しろよ」

「そうそう、この前教えてくれた水出しコーヒーすっごくおいしい。帰りに作っとくと、濃さがちょうどいいのね。お客さんにも好評だよ」

来客用のサービスドリンクと、社員の水分補給用ドリンク。給湯室内の管理は夢子の担当なのだそうだ。コーヒーや紅茶をはじめ、客の好みに極力対応できるよう種類を取り揃えている。

子供にはジュースを選ばせ、待たせている間に退屈しないよう絵本や塗り絵、玩具なんかも用意しているようだ。手が空いているときは夢子も一緒になって遊び、懐かれて「もっと遊ぶ」などと帰り際に泣かれることもあると聞く。



特別なことが無い日常の話を聞くだけで、満たされていくように感じる。運転席の夢子へ視線を投げた。

神経を張り詰め、全身を使った瞬間の判断を積み重ねながらも夢子の口元は笑っている。運転が楽しくてしかたない、といった意味を持つ笑みに思えた。

「お前、いつも楽しそうに運転するな」

「そお?実際楽しいよ。ヘタだけどね」

対向車へパッシングを送った直後、擦れ違ったのは大輝のEK9。いつもより〈いい音〉だった。束の間、智幸がミラーへ目を遣る。

夢子に送ってもらう……いや、『田中の隣に乗せてもらう』と言ったんだ。このシート、お前専用だろ。俺には小さい」

運転席のシート左側、立ち上がった縁をポンと拳で叩いた。夢子を守る、重責を担っているバケットシート。

「あいつらは知らなかったみたいだし、怪しまれたかも知れないな」

「そっか。智幸と社長の他には乗せたことないから……」

シフトアップに応えるように、夢子の愛車・デルソルは加速し路面を駆け続ける。




肩に、背中に、腿にフィットして、安心感と勇気をくれる。体型に合わせて手を加えた〈私〉専用のシート。身体を深く包まれる感覚は、あなたを――あなたに抱かれるときを思い出す。




「この前は座面の右側、腿の辺りを削ったんだろ。慣れたか」

「ん、やっぱ右足のが踏み込むからイイみたい。もうコレじゃなきゃ嫌だな。かわりなんて、考えらんない」

「俺のことも、そう思ってくれているといいんだが」

「…………智幸なに言ってんの。きもちわるい」

「照れてるのか、夢子

「誰が、」

「どこに触れたらいいか、俺は知ってる」

ツナギ越しに柔らかな腿から膝頭へ指先を滑らせた途端、夢子はびくりと脚を震えさせた。反応は上々だ――智幸がゆっくりと口角を上げる。

「峠で夜遊びする暇があるなら付き合え。明日は休みだって社長に聞いたぞ。俺も休みだ」

「……でも私、こんな格好……。ホコリっぽいし、汚れてるよ」

「着いたら脱げばいいだろ。ああ、一緒に風呂入るか」

言葉に詰まったように唇を噛む夢子を見遣り、助手席でからかうように笑う。

夢子、今何を想像した」

「全っ然、なんにも。お酒飲んだ人は黙ってて」

噛み付きそうな勢いで吐き捨て、真一文字に唇を結ぶ。智幸も口を噤み、深く息を吐いた。飲酒に気付かれるとは思ってもいなかったからだ。付き合い程度の酒量を考えても、酔っている自覚はない。

「悪い。酒臭かったか」

「や。智幸、ちょっと顔赤いもん。いつもより喋るし……。あと、なんか……ちょっと……いつもより、えろい気がする」

「……そうか……」

車内に沈黙が落ちる。しばらくして、夢子は何事もなかったかのような口振りで「どこか寄るとこある?」と問うた。

「いや。特にない」

「じゃあ寝てていいよ、着いたら起こすから。……水、飲みかけでよかったら飲んで」

進行方向を向いたまま、左手の親指がセンターコンソールボックスのミネラルウォーターを指し示した。開封したばかりと思しき残量、水滴をまとったペットボトルを手に取り、一口飲み込む。まだ充分に冷たい。

運転席へ「飲むか」とボトルを差し向けると、夢子の左手は迷うことなく受け取りそのまま口へ運ぶ。コポコポと小さな水音が耳に心地良い。「ありがと」の言葉と共に戻ってきたボトルのキャップを閉め、素っ気無いカップホルダーへ収めた。

「少し寝る」

夢子が頷くのを視認し目蓋を閉じると、身体に伝わる振動と微かな香りが僅かに濃く変化する。車内の空気は心地良い熱を帯びているように感じられた。







都心に近付くと、煌びやかな高層ビルやタワーマンションが数多く視界に入る。建築途中の建物も在るようだ。

平日の夜だというのに、タクシーやトラック、一般車両が行き交い交通量は少なくない。宙にカーブを描く首都高速道路を見遣り、夢子は細く息を吐いた。

東京で暮らす智幸の日常に自分が居られたら。それは夢子にとって――互いにとって〈しあわせ〉となるのだろうか。



目的地であるマンションが見えてきた。敷地内に在る駐車場にデルソルを停めた夢子がエンジンを切る。

声を掛けようと助手席へ顔を向けると智幸は眠っているらしく、規則正しく呼吸を繰り返している。思わず、珍しい、と夢子が目を丸くする。普段、夢子が運転するデルソルの助手席でごく短時間の仮眠をとることはあっても、眠り込んでしまうことはほとんどなかった。

静かにシートベルトを外した夢子はまじまじと助手席の寝顔を見つめ、やがて「ほんとに寝てる」と呟いた。

運転席の座面ギリギリに膝を立てて上体を乗り出し、窓の方へ顔を傾けている智幸の右頬へ一度、唇を触れさせる。今朝剃ったであろう髭がほんの少し、唇を掠めたと感じた。

「智幸じゃなきゃ嫌だって、知ってるくせに」

独り言のつもりで呟くと同時に背中へ智幸の腕が回り、そのまま抱き締められて吃驚する。上から体重を預けることに抵抗を感じ、身体を離そうとするも彼が許してくれない。

二人の上半身は隙間ができないくらい密着している。熱くて暑くて……でもきっと、お酒や気温のせいだけじゃない。



「知ってる。泊まっていくよな、夢子

耳朶を熱い吐息がくすぐり、硬直していた身体から解けるように力が抜けていく。

「……わかってるのに、聞くの?」

「ああ。夢子の声で聞かせてくれ」

むくれるように尖らせていた唇を智幸の耳元へ寄せ、小声で囁いた。智幸の唇に穏やかな笑みが浮かぶ。

向かい合い指先で夢子の前髪をかき上げ薄っすら汗ばんだ額に触れると、やめてほしいと言うように身を捩る。

「汗、かいてるから……」

「風呂入るだろ」

夢子が頷きかけた瞬間、智幸は「一緒に」と付け加えた。ぴたりと夢子の動きが止まり、思案顔で瞬きを繰り返す。

「今更、何を考える必要がある」

掌で頬を包まれた夢子は観念したように俯き、程無くして勢い良く顔を上げた。

「こ、今夜は寝かせないから覚悟してよね!」

「望むところだ」

鼻先でせせら笑う智幸の唇に噛み付く。歯列がぶつかる硬質音、口腔内に響く鈍痛、絡み合う舌の柔らかさと熱を夢子は確かに知っていた。

欠けて渇いて満たされたがっていた心と身体に、多量の熱情を注ぎ込まれるようだ。このままでは溺れてしまう、微かな不安が夢子の脳裡を過ぎる。



どうにか上体を引き剥がし、智幸を見下ろすと――ふたつの瞳は真っ直ぐ夢子を見上げている。射るような強い視線を逸らせない。

「覚悟しろと言ったのは夢子だろう。忘れたか」

否定の意思を持ち、視線を合わせたまま首を振った夢子は熱源に飛び込むつもりで智幸へ身体を預ける。彼に身体を包まれることは即ち快楽の海に溺れることと同義。それも十二分に理解していた筈だ。

身体の芯を揺さぶる熱の在り処を知っているのは、助手席の智幸だけである事実も。目蓋を閉じるからこそ、肌に触れるものを痛切に感じるのだろう。

腰を抱き寄せる腕の太さ、幾度も押し付けられる唇の厚み。慣れた筈の感触に、夢子の全身は過剰とも思える反応を示す。

ふたりで溺れるのなら構わない。智幸の手に触れると間髪入れずに指が絡む。繋がれたのは互いの手だけではないと身に沁みる。

彼の心を満たす存在になりたいと願う。その願いが既に叶っていることに、夢子はまだ気付いていなかった。





[助手席彼氏] END.

お題:バケットシート

2013/07/17 up.


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