a pain in...
「――ッざけンなこの野郎!」

昼休みが終わりに近付く時間。眠たい午後の授業から少しだけ手前。突然大きな怒鳴り声が響き、教室の中にほんの一瞬沈黙が落ちた。


クラス委員という名の雑用係、昼休みにこき使われるのは勘弁してもらいたい。そんなことを思いながら職員室から戻ってきた夢子が、教室の入口で足を止める。

怒号は間違いなく、今入ろうとしている自分のクラスから聞こえた。


机や椅子が倒れるような音、途惑いを隠せない生徒達のざわめき。覗き込むと教室の真ん中で慎吾――庄司慎吾――が、男子生徒の胸倉を掴んでいた。喧嘩、だろうか。

夢子が教室の中へ足を踏み入れた直後、慎吾の上半身が不自然に揺れた。

正拳突き?いや、掌底打ちか――慎吾は明らかに顔面を狙われていた。周囲からは大袈裟な悲鳴が上がり始める。辛うじて攻撃を避けた慎吾は、胸倉を掴んでいた手を離す。

相手は体格の良い空手部のエース。しかし、フルコンタクト空手でも顔面への攻撃はルール違反の筈。

喧嘩にルールは無用だが、このままでは怪我で済まないかも知れない――

キッと相手を睨み付けた慎吾は右の拳を――傍目からも分かるほど固く、握り締めた。


「慎吾っ!」


夢子の鋭い声にびくりと体を震わせ、彼が振り向く。その隙に、傍に立っていた男子生徒――苗字は東海林、庄司と同じ読みで紛らわしい――が焦ったように慎吾の左頬を殴った。

殴ると言うよりは、出来損ないのビンタみたいな腰の引けた平手打ちだ。慎吾はまともに食らった痛みよりも先に、怒りを感じる。

「てめぇ……」

ぼた、と床へ血が落ち、慎吾が左手の甲で乱暴に口元を拭う。殴った本人は右手を突き出したまま、目を白黒させている。当たるとは思っていなかったのだろうか。

拭っても溢れ続ける赤に、耳障りな悲鳴がそこかしこで上がった。


――うるせェな。唾液で出血量が多く見えるだけだ。ガタガタ騒ぐンじゃねェよ。邪魔すンな――


慎吾が2人へ殴り掛かろうとしているのは、誰の目にも明らかだった。机の間を小走りで駆け、夢子は慎吾の右手を制止するように両手で包む。

唇を赤く染めた慎吾は放心したように、涙を滲ませた夢子を見つめた。喉が渇いているせいか、夢子の声は掠れている。

「来て、慎吾」

いつの間にか集まっていた野次馬を押し退け、夢子は慎吾を引きずるように教室を飛び出した。震えていたのは自分か、慎吾か、分からなかった。



階段を下り廊下を走り、保健室が見える頃、授業開始を告げるチャイムが鳴った。

保健室のドアには【不在:校内のどこかにいます】というふざけたプレートが下げられている。

夢子は慎吾の右手を掴んだまま、ノックも忘れて飛び込んだ。室内の蛍光灯は点いているものの、養護教諭はプレートの通り不在らしい。

すぐに繋いだ手を解かれた。夢子は薬品棚のガラス扉に手を掛ける。置いてけぼりを食らったように立ちすくんだ慎吾は、右手が熱を持っていることに気付く。

その後、薬品と暖房の"保健室のにおい"を鼻で感じた。背後で開け放たれたままのドアを静かに閉めた。


「しょ、消毒、しなきゃ……」


べそをかいたように薬品棚を漁る夢子を尻目に、慎吾は奥に備え付けてある水道へ向かった。ホルダーから紙コップを一つ引き抜き、蛇口をひねって水道水で満たす。

何度か口をゆすぎ、吐き出した水に赤色がなくなるまでそれを繰り返した。出血が止まったことを確認し、紙コップを握り潰す。

唇も汚れているだろう――左手を濡らしてゴシゴシと拭う。

窓に映った自分の顔は、どこか寂しそうで気に入らなかった。すぐに目を逸らす。左手の甲に描いた赤、小さく舌を打った慎吾はハンドソープを泡立てて執拗に洗い流した。


自分がひどく惨めに思えて、存在ごと流してしまいたかった。


ざっと取り出した数枚のペーパータオルで手を拭いて、紙コップとまとめてゴミ箱へ放る。

慎吾が振り向くと、夢子は薬品棚にある消毒液や救急箱等、応急処置に必要と思われるものを次々とカートへ並べていた。


「おい、夢子……何する気だよ」

呆れたように問うと、夢子は脱脂綿だの包帯だのを手にこちらを向く。

「だ、って慎吾、怪我、血出て、消毒しないと、」

「落ち着けって。もう止まってる」

混乱している夢子に見せようと大きく口を開けたが、少し離れたところで夢子がぽつりと呟いた。


「……見えません」


そりゃそうだよな――と苦笑しながら、水道と薬品棚の中間あたりに置いてある丸椅子へ腰を下ろす。軽く手招くと、夢子は持っているものをカートへ置いた。

途惑いながらこちらへ近付いてきた夢子が、今までにない程の近距離に居ることに慎吾は少し驚いた。再び口を開き、左手の人差し指で頬の内側を示す。

上半身を屈めて口腔内を覗き込むと、傷はすぐに見付かった。夢子は眉根を寄せ、そっと体を引く。

「……痛くない?」

「もうだいじょぶだって。出血量の割に大したケガじゃねェよ」

「やっぱり消毒する?」

夢子は右手で、カートに置かれた消毒液を指した。どう見ても家庭用とは違う、素っ気無いデザインのボトル。

ガーゼと、でかいピンセット――"セッシ"というらしい――は、カートの上で既に臨戦態勢である。

「それ、オレの口ン中に突っ込む気かよ……」

「あ、舐めちゃうかもしれないね。口はダメなのかな」

「今気付いたのか。絶対マズいだろ」

「作る人だって、味は気にしてないと思うよ」

「いらねェ。ほっときゃ治る」

「慎吾がそう言うならいいけど。制服は洗った方がいいんじゃない?」

夢子が触れたのは、学ランの袖口。口元を拭ったときに付いたらしい汚れは、よく見なければ分からない程度のものだった。


「こンくらい平気だろ」

「うーん……普通に洗濯できるかも知れないけど、落ちるかな」

「家で洗う。ダメならクリーニング出して、ジャージだな」

「あ、駅前のクリーニング屋さんに"超速コース"があるんだって」

「へェ。じゃあ帰り寄って出してけばよくね?」

「そだね。結構大きいお店だから、行けばすぐわかるよ」

夢子と普通に話せることで、救われたような気がした。何から?何故?――よくわからないけれどオレは安堵して、気付いたら唇で笑っていた。


「慎吾、どしたの?」

「……なんでもねェ」

緩んだ口元を引き締め、ごまかすように小さく咳払いをした。

夢子は「変なの」と呟き、カートの上に散乱している消毒液や包帯やその他をしまい始める。シンと静まる室内、金属や容器が触れ合う音が微かに聞こえるだけ。

慎吾は夢子の横顔を眺めていたが、やがて丸椅子から立ち上がって救急箱を取り上げる。ずしりと重いそれを棚へ戻すと、夢子は「意外」とでも言いたそうに笑った。

「ありがと」

妙に照れくさかったから聞こえないフリをした。

薬品棚のガラス扉を閉めると、夢子が一瞬迷って慎吾へ問い掛ける。

「なんで、喧嘩になったの?」

「それは……あいつらが夢子のこと、」

そこまで言いかけ、慎吾は口をつぐむ。



『――委員長とかは?』

『あいつは地味だけど、実はエロいとか良くね?』

『それイイわ。試しに一発ヤラせてくんねぇかな』


勝手な言い草に、無性に腹が立った。

下卑た笑い声に、我慢出来なかった。


夢子とオレは、付き合ってるとか、そういう関係じゃない。ただのクラスメイト、ただの友達。

名前で呼び合うことだって、クラスにオレと同じ苗字の奴が居るからってだけの理由。

どうやらオレは"友達"を中傷されて、平気で居られる程図太くはなかったようだ。

うまく説明出来ないけど、夢子を汚されたような気がしてひどく嫌だったから――だから思わず手が出てしまった。



黙り込む慎吾へ、夢子が恐る恐る尋ねた。

「私が、原因なの?」

「違ェよ。クソ、あいつら殴っときゃ良かったぜ」

「……どんな理由でも、暴力は良くないよ」

至極、真っ当な意見だ。俯いた夢子はきつく唇を結んでいる。

「ったく……わぁったよ。ケンカはもーしません」

「――うん。そうして」

夢子が顔を上げて、笑って、何度か頷いた。


「大丈夫なら、教室戻ろっか」

「は?普通サボるだろ?」

「何言ってんの。まだ授業始まったばっかだよ」

「……あ、痛てて」

慌てて頬に手を当てる慎吾を見遣り、夢子は呆れたように溜息を吐いて腕を組んだ。眉根を寄せて唇を尖らせ、じとりと慎吾を睨む。

「――ンだよ夢子、オレはケガ人だぞ?もっと優しくするべきだろ」

「優しくって、痛いの痛いの飛んでけ〜とかすればいいわけ?」

「……それはそれで、アリっつーか……」

「はいはい」

夢子が距離を詰めて、掌を――指先をそっと、慎吾の左頬に当てた。そしてゆっくりと、幼子をあやすように撫でて。

「慎吾の痛いの、お山の向こうに飛んでいけ」


オレが痛みを感じているのは、多分――そこじゃない。


「……これでいい?」

夢子の柔らかな掌と指先が離れることが、たまらなく不安にさせる。

「足りねェよ」

「何?もっと飛ばすの?痛くないって言ってなかった?」

「そこじゃねェ」

「じゃあ、どこが痛いの?」

きょとんとしたような夢子の問いに、うまく答えが見付からなかった。

「……別に」

「もう……どこか痛いなら正直に言いなよ」

「や、だいじょーぶ。マジで」

「本当に?」

「ホントに」

「わかった。行こ」

ここへ来たときと同じように、夢子は慎吾の右手を取った。


静まり返った校舎の中、上履の足音が2人分。階段を上りきるのと同時に、どちらからともなく手を離す。

甘い痛みと熱がゆっくり引いていく。どこか名残惜しいような、寂しいような。慎吾は掌を見つめて立ちすくんだ。


「帰り、クリーニング屋さん連れてってあげるね」

囁くような夢子の声に、はっと顔を上げる。夢子は既に背を向けて歩き出していた。


――こんな関係も、結構悪くないンじゃね?


慎吾は夢子の背中を追って教室へ向かう。ポケットに突っ込んだ右手は、やけに温かく感じた。





[a pain in...] END.

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お題:消毒液

2008/01/19 up.


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