税込21円
知らなかった。今となっては言い訳にしかならないけれど、赤城のチームが嫌いだなんて――そんなこと、全然。

「赤城山に行きたい」って言ったとき、毅の表情が曇ったように見えたのは気のせいじゃなかったんだ。



「……どうして赤城なんだ?」

「これ、見て」

夏が終わろうとしている日曜の朝。夢子が毅の目の前に広げたのは、関東エリアのドライブガイドブック。

〈日帰りコースガイド3・赤城山の大自然を満喫!!〉

毅はそれを受け取り内容を目で追う。


「あたし、赤城って行ったことないし……山岳コースなら毅も走ってて楽しいかな、って」

険しい顔でページをめくる毅を不安げな瞳が見上げている。

「……ここからだと、ちょっと遠いかなぁ。無理なら、ほかのとこにしよ」

「いや……。夢子が行きたいなら行くか」

「いいの?」

「ああ。免許、持ってるよな」

「?うん。お財布に入れてる」

「じゃあ高速使ってくか。夢子の運転でな」

ガイドブックを閉じて毅が微笑った。

「…………あたしが、32運転するの?」

「確か、教習以来高速は乗ってないんだよな」

「でも、……若葉マーク持ってないし」

「とっくに一年経ってるだろ」

「……怖いもん……」

「じゃあ赤城は諦めるか?」

「やだー、イワナ食べたいよぅ」

毅からガイドブックをひったくり、慌ててページをめくる。

「ほら。大沼にね、イワナのお店があるの」

「……それが目当てか」

「だって〜」

瞳を潤ませておねだり光線を出すと、ほんの一瞬毅の頬が緩む。それを見逃さない夢子が畳み掛けた。

「ね、お願い!今日は毅の言うこと何でもきくから!」

「……わかった、行こう」

毅は観念したように夢子の頭を撫で、R32の鍵を握り締めた。



「やっぱ毅は運転うまいねー」

「そうか?」

一区間走っただけでギブアップした夢子が、助手席で溜息と共に呟いた。夢子があれだけ手こずったR32は、毅の思い通りに進んでいく。まるで従順な猟犬のようだ。

「こいつにはクセもあるし、いきなり乗りこなすのは難しいだろう」

「……じゃああたしに運転させないでよ」

「いい機会だと思ってな」

「エボにアオられてすーっごい怖かったんだけど!!」

夢子、今日は俺の言うこときいてくれるんだったよな?」

「……はい……」

しゅんとうなだれて小さくなった夢子を見遣り、毅は微笑った。





「楽しかった!」

同僚へ配るための土産を沢山抱えて夢子が笑う。日も暮れかけて、観光客はそれぞれ帰途に着く。夢子と毅も明日の仕事に備え早めに帰ることにした。

「ね、ちょっとコンビニ寄っていい?」

「ああ」

広い駐車場の隅に停めた黒いR32から夢子が降りる。毅も運転席から降りて煙草を取り出す。紫煙を吐き出し、愛車のボディラインを視線でなぞった。


「あ、袋いらないです」

店員から受け取ったのは紅茶のペットボトルとチロルチョコ。自動ドアを開けると、空はすっかり闇に覆われていた。

少し力を入れてキャップを開ける。ほんの一口だけ飲んで、ふ、と小さく息を吐いた。毅のところへ戻ろうとしたとき、店内に入ろうとしていた客と肩がぶつかる。


夢子が持っていたペットボトルからは濃いオレンジ色が勢い良く飛び出し、傍らに居た男性の背中へ大きなシミを作ってしまった。


「……あ……」

「うわ、お前何やってんだよ!」

「ご、ごめんなさ……」

「啓介さん大丈夫ですか?……ったく、弁償しろよな!」

「ケンタ、騒ぐな。大したことじゃねぇ」


パーカーを脱いで、男性が夢子に向き合った。怒ってはいないようだ――でもいい気はしないだろう。Tシャツにも少し、シミが出来ている。


「あの、ホントにごめんなさい!クリーニング代出しますから、」

「気にすんなよ。わざとじゃねぇんだろ」

「――でも、」

「あんた、名前は?」

「……田中……夢子、です」

夢子。ちょっと、目つぶって」

「…………」


殴られる――?


覚悟してきつく目をつぶる。うつむいた夢子に訪れたのは、予想に反してひどく柔らかな感触。髪を撫でる優しい掌が頬に触れたとき、その熱が心地良くて驚いた。

唇に柔らかいものが触れて夢子は薄く目を開ける。屈んでいた彼が背を伸ばし、人懐こく笑った。


「これでチャラな」


彼にキスされたのだと、ようやく理解できた。



夢子!」

「あ……た、毅……」

硬直したままの夢子が泣きそうな声で呟く。


「中里……。てことは、夢子はお前の女か」

「――何考えてるんだ」

「そいつが啓介さんの服汚したんだぞ!」

「……すまなかった」

「だからさっきのでチャラ。ま、チャラってよりはオレが得したけどな」

ニヤリと口の端を上げて啓介が笑う。


「……行くぞ、夢子

「あ、うん……。あの、ホントにごめんなさい」

毅に手を引かれ、夢子はそれに逆らうように啓介に頭を下げる。

「いいって。またな、夢子

「……二度目はねぇ」

にこやかに手を振る啓介へ、毅が吐き捨てるように言った。



「高橋啓介に会うとはな……。これだから赤城は嫌なんだ」

駐車場からR32を乱暴に発進させて毅が呟いた。

「……ごめんね、毅」

夢子が謝ることはない」

「あの…………怒ってる?」

「――いや、あれは一方的な事故みたいなものだ。夢子は被害者だから気にするな」

「……うん……」

きつく握り締めた右手の中ではチョコレートが溶け出している。



息苦しくなるような沈黙――突然の急ブレーキが終わりを告げる。運転席から手を伸ばした毅に引っ張られ、シートベルトがガツン、と抵抗する音を立てた。

混乱した夢子へ無言のまま、噛み付くようなキスを与える。

「――っ、毅、……」

夢子のシートベルトを外す毅の表情は見えない。拘束されていた身体は自由になったけれど、毅の視線に縛られて動けない。

毅はおもむろに夢子の右手を取り、掌へ舌を這わせる。すっかり溶けてしまったチョコレートに温かな舌が絡んで、眩暈がするような匂いが鼻腔をくすぐる。



「消毒してやる。あいつが触ったところ全部」

「……消毒って、」

毅の舌に舐め取られたチョコレートが夢子の唇に触れる。少し乱暴に歯列をこじ開けて毅が這入ってきて――それと同時に触れられたのは太腿。

膝頭へそっと掌を滑らせる。それはいつもの、ベッドでの触れ方。

「や、そんなとこ触ってな……っ」

「黙ってろ、夢子



普段とは違う、掠れるような低いトーン。



「毅、怒ってないって、言ったじゃない……」

「――建前だ」

毅がぽつりと呟いて夢子の唇を塞ぐ。甘いはずのそのキスの片隅に、微かな苦味を感じた。


毅の肩越しに見えた星空はツンと澄んでいる。たまにはこんな、甘いアクシデントも悪くない……かな?





[税込21円] END.

お題:チョコレート

2005/10/12 up.


中里毅||0:top