翼について
特別な事など無い平凡な人生だった。終幕理由は失恋の二文字、ありふれた投身自殺。ビルの一番高い場所、ひたりと素足で踏み出した途端「今死ぬとこ?」背後からの問い掛けに振り向く。返答を促すような男の目線に捕えられ、夢子は浅く頷いた。

「んじゃその〈命〉オレにくれよ」

揃えた靴を拾い上げて男が笑う。

「メシでも食おうぜ、シンデレラ」

差し出された靴を受け取る。私の顔にはぎこちない笑みが浮かんでいるだろう。



深夜のファミレス。感情表現があまり得意でない夢子の対面に正反対の男。よく食べ、よく喋り、よく笑う。『高橋啓介』そう名乗った彼と、なにも持たない私とは違う人種のように思えた。彼の食べっぷりを眺めていたら忘れていた空腹を思い出したように腹が鳴り、同時にメニューが開かれる。

「好きなの食えよ。オレも追加すっから」

「……まだ食べるの」

「これは前菜」

互いの唇に苦笑が浮かぶ。

「――やっと声聞けた」

安堵したような彼の口調は表情と同様ひどく優しい。直視すら躊躇う眩しさに、カラフルなメニューへ視線を落とす。


最初で最後の恋と信じた事が人生最大の過ちだった。


俯き、殆ど空になったコーヒーカップを見詰める夢子は、今の自分に相応しい言葉を探している。何も聞こうとしない彼へ〈経緯〉を話す事は、不幸自慢をするようで気が引けたからだ。

「絶叫マシン平気か」

突然の問いへ顔を上げた。

「……うん」

「行こうぜ」

「どこに」

「峠」

「やま?」

促され店外へ出ると、眼前には黄色と橙色二台の車。

「悪いな史浩」

「いや。行くぞケンタ」

「はーい」

彼の〈友人〉らしき二人は橙色の車で駐車場を後にする。「乗れよ」黄色い車の助手席が開けられた。



どうして。真暗な山中、助手席から問うと運転席の彼は少し考えるように「理由か」と呟いた。それから少しの沈黙。

「なんつーの、エゴってやつ?」

「……私を〈助ける〉事があなたの利益になるとは思えないけど」

「んじゃ〈気が向いた〉から」

放り投げられたその答えは彼らしく感じられ、不意に頬が緩む。

夢子、なんで笑うんだよ」

「気が向いたから」

「……そんならいーけど」

「車、好きなんだ」

「ああ。今はこいつが一番だな……っと今日の〈課題〉がまだだ」

「課題?」

「もっと迅くなりてーの」

「啓介君、運転上手だと思うけど……」

彼の名を呼ぶ事に些かの躊躇いは在ったが、それでも素直に思いを述べる。

「上には上がいんだよ。全員抜くけどな」

冗談めいた彼の笑顔。そこには少量、本気が混じっているように感じられた。

「つーことでちょっと付き合ってもらうぜ」

返答を待つことなく夢子を襲ったウォームアップ代わりの急旋回。混乱して強張る身体、声すら出ない。



「さっきのあれ、何て言うの」

助手席から降りた夢子が啓介へ問うと「ドリフト」簡素な答えが返される。

「聞いた事ある」

夢子、順応性たっけえな」

「?」

「硬直してたクセに爆笑されるなんて予想できっか」

「すっごくおもしろかった!」

「よかったな」

「啓介君のおかげだよ」

「そりゃどーも」

「私、やりたい事できたみたい」

「へえ」

「これも啓介君のおかげ」

「……おう」

ここ――赤城をホームにする〈走り屋〉チームに所属している事を彼は話してくれた。

「啓介君のお兄さんがリーダーなんだ。上下関係厳しいの?」

「んな堅苦しくねーよ。車好きが集まってるだけ」

駐車場へ入ってきた数台の車。夢子はそちらへ視線を向け、啓介は息を吐く。

「アニキがやろうとしてる事、オレにはまだわかんねーけど」

呟きは彼女へ届かない。届けるつもりもない。

「お兄さんてどんなひと?」

啓介が指差した先、白いFCが一台。



考える事は昔から苦手だ。なけなしの知恵を絞っても結果は知れている。〈彼女〉に声を掛けたのは思考を経たからではない。捨てられた動物を戯れに拾う程度の軽い気持ち。新しい家族を見つけるまでの短い付き合いでも別れはそれなりにつらいものだ。

「……帰るとこ、あんのか」

ふわり、夢子が振り向いた。



啓介からの問いに、夢子は思考を巡らせる。自分を待つひとなど居ない〈帰る場所〉。

「……一応」

「送ってく」

「嫌」

「は?」

「もう少しここにいたい」

酷い我儘は自覚している。俯き唇を結んだ。

「免許持ってっか?限定じゃねえぞ」

顔を上げ、予想外の問いを理解するまで数秒。

「持ってるよ、普通免許」

「よし、乗れ」

放られた鍵を掴んだ。驚きと喜びが混ざり頬が緩む。握り締めた鍵は希望。


「こんばんは。高橋涼介です」

白い車から降りた啓介君のお兄さんへ挨拶とお辞儀を返す。

「啓介。彼女は」

「ワケあり。……そういえば名前、まだ聞いてなかったよな」

「……田中夢子といいます。今日は、啓介君にその、いろいろとお世話になりまして……」

気付けば〈兄弟〉二人から見つめられている。

「何処かでお会いしましたか、夢子さん」

お兄さん――涼介さんの問いに首を振った。

「……いえ、」

「ナンパみてー」

「人聞きの悪い事を言うな。彼女が覚えていないなら俺の勘違いだ。失礼」

そして向けられた優美な微笑に見惚れた。楽しんで。言い残した彼は〈愛車〉へ向かう。

「お兄さんと仲いいんだね」

「今はな」

含みのある口調を詮索する気にはなれない。

「アニキが何て呼ばれてっか教えてやろーか」

啓介の明るい声に頷く。

「赤城の白い彗星」

「かっこいい!」

「誰が言い出したんだか」

苦笑につられて笑うと、熱く大きな掌が優しく背中に触れた。

「行こうぜ、夢子

手と声に後押しされるように、夢子は新たな一歩を踏み出す。



「なんつーか新鮮」

左隣からの呟きに「助手席が?」と問う。

「あんま他のやつに触らせねーし。つーか夢子、案外巧いな。最初はどうなるかと思ったけど」

「運転久しぶりだから緊張するの。でも車ってやっぱ楽しいね。帰りたくなくなっちゃう」

「帰さない、て言ったらどうする」

右隣へぐいと上体を寄せ、耳孔に吐息のおまけつき。夢子は動じる事なく「朝まで付き合ってくれるの」と声を弾ませる。

「ああ。夢子が望むなら」

「燃費どのくらい?」

「……何が」

「結構大食いでしょ?走りっぱなしでガソリンもつかな」

「……適当に給油するから気にすんな」

助手席でそっと姿勢を正し答える。啓介の意図は伝わっていなかったらしい。

「私も行く!セルフ給油、やってみたかったんだ」

愉しげにステアを回す夢子。彼女を見つめる啓介は唇を尖らせ失笑。



「GT-Rですか」

背後からの質問は、恐らく自分へ投げ掛けられたものだろう。毅はウエス片手に振り向き「ええ」と返す。

「近くで見るの初めてで……かっこいいですね」

「ありがとうございます」

深夜のセルフスタンドに女性が一人。誰かの連れだろうか。物怖じしない、人懐こい彼女の笑顔。幾つか言葉を交わし、どこか穏やかな心持ちとなった直後。

夢子!勝手にどっか行くなよ!」

怒号に振り向く彼女の腕を掴んだ〈男〉には見覚えがある。

「……赤城の」

呟きに、今にも噛み付かれそうな熱視線が突き刺さった。



眼前で男性二人が睨み合っている。夢子は慌てて啓介へ頭を下げた。

「……私が、中里さんに話しかけたの。ごめんなさい」

「あんたが謝る事ない」

夢子に何した」

「何も。彼女の言う通り、話しただけだ」

「……行くぞ」

啓介の掌に強い力が込められた。真意を図りかねたと思しき夢子の表情はひどく硬い。毅は批難の鋭さを込めて「おい」と〈赤城のFD乗り〉を呼び止める。

「随分と過保護だな。そんなに心配か」

「るせえ、おめーにゃ釣り合わねえよ。こいつオレのだから二度と近付くな」

吐き捨てるような口調だけを残し、二人は毅の前から姿を消した。



それほど広くない車内には静寂だけが満ちている。

「――やっぱ帰れ。送る」

やがて運転席から重たい声。腿に置いた夢子の手がびくりと震えた。

「……迷惑だった?」

「ちげーよ、今日のとこはってハナシ。次は夢子が来るんでもオレが行くんでも……とにかく会えりゃ何でもいい」

「……うん」

しあわせな〈夢〉から醒めるときが来たようだ。




明るい陽射しに照らされる平日の住宅街。人通りは少ない。

「案外近かったな」

「啓介君飛ばしすぎ」

もっと二人で居たかったのに。夢子が溜息を零す。

「そこ停めといてもいいか」

「空いてるから平気だけど。どうして?」

「朝まで付き合うって言ったろ」

「……もうお昼近いよ」

「んじゃ明日の朝まで」

言葉に一応の筋道は通っているようだ。「上がって」助手席のドアを開けながら夢子が笑う。

「シャワー浴びる?」

「……おう」

「あ――変な意味じゃなくて、汗かいたでしょ」

「ハイハイ」

昨日と同じ状態の部屋へ〈無事に〉帰ってきた。自ら死のうとしていた事が嘘みたいだ。たかが失恋で死ぬだなんて、ばかみたい。今はそう思える。



「丈が足りねえ」

しばらくして洗面所から悲愴めいた声が飛ぶ。

「男物、それだけしか……」

「落ち着かねー……。次はオレの持ってくる」

「それ、」

「今夢子が思った通りの意味」

バスタオルでがしがしと髪を拭き啓介が笑んだ。


暑いのは気温のせい?湯上りだから?タオル一枚巻いただけの身体を強く抱き締められているから?


「……元彼の服なんか着てらんねえ」

耳元で囁かれた声には激情が色濃く滲む。昼下がりの明るい部屋、熱い身体がふたつ。このままだとまた、汗をかいてしまうから。

「クーラーつけようよ」

私の声は少し掠れた。



室内は乾いた空気が循環し、歩く私にひんやり纏い付く。テーブルのボトル飲料を喉へ流し込むと充分冷たい。腰掛けた小さなベッドでは、彼が長い手足を放り出して眠っている。半日のうちに幾度か身体を重ねただけで……好き、だなんて。約束も未来も、私達の間には存在しないのに。

「啓介の恋人はしあわせだろうね」

羨望とも諦めともつかない独り言が零れ落つ。

「興味あるなら試してみっか」

唐突な返答に慌てて視線を落とす。ぱっちり目を開けた啓介に気付き、夢子は途惑いがちに「ま、」と声を発した。

「……前向きに、検討させて頂きます……」

「ハイ以外の返事はいらねえ。選択肢なんか一つでじゅーぶんだろ」

不貞腐れたような口調と裏腹の優しい眼差しで啓介は夢子を見上げる。手を引かれベッドへ倒れ込む夢子へ「返事は」と問うた。

「……ハイ」

「やりゃできんじゃねーか」

頬を撫でる掌は熱くて大きい。

「啓介って女の趣味変わってるよね」

「オレのストライクゾーンは広いぜ?どんなボールにも手ぇ出すからな」

「……あんまり嬉しくない」

「気にすんな」

悪びれず笑い夢子も笑んだ。

「呼び捨て、慣れたな」

「ん。名前を呼ばれる事が嬉しいって久しぶりに気付いたよ」

「オレ、お前に名前呼ばれんのすげー好き。なあ、もう一回呼んでくれよ夢子

「改めて、って恥ずかしい……」

「今更。さっきは〈ここ〉で何回も呼んでくれたろ。お前のカワイイ声、ぜってー忘れねえからな」

ベッドをポンと叩きながら彼が微笑う。少し意地悪めいた口角の上がり方に、心の奥で燻っていた熱を思い出した。

「……け、啓介……」

「なんで目ぇ逸らすんだ」

「だっ、ヘンな事言うから」

「事実に変とかねえっつーの」

「ばか啓介。好き」

「ああ。オレも好きだぜ、夢子

熱い唇が重ねられる。


はじまりはいつも勘違い。眼下を流れる車列。素足を冷やすコンクリ。不規則な鼓動を〈恋〉と違えたのだとしたら、それは人生で一番の。


乾燥機から取り出した服を啓介へ手渡し、何でもない事のように訊いてみる。

「次いつ会える?」

「今夜」

間髪入れず返る意外な答えに思わず「嘘」と口が開いた。

「ウソじゃねーよ。そうだな……次は夢子の都合いい時、ならどうだ」

「――ありがと、啓介」

「おう。んじゃ、またな」

朝靄の中、黄色い車が遠ざかっていく。あの車は彼にとっての〈翼〉なのだと私は理解した。今度は私が、自分の〈車〉で彼を迎えに行けたなら。彼に出会えた事で気付いた、幾つかの目標と小さな夢。今はまだ、ただの蕾だとしても。いつか大きく鮮やかに花開く、その時まで。





[翼について] END.

2015/08/21 up.

備考:2015年7月 twitterで連載していた140字小説に加筆


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