マリアの微笑
「会いたい」と焦がれたひとはあなただけ。



春が終わろうとしている暖かな昼下がり。自室でレポートを書いていた涼介は、雲が霞んで千切れていく空を見遣った。

今日はどうにも集中出来ない。少しだけ抜け出してコーヒーでも飲みに行こうか。そういえば、万年筆の調整が完了したと連絡があった。自分への言い訳にも似た"用事"が浮かぶ。

頭が回らない今、机の前でこうしていても仕方ない。書きかけのデータを保存し、愛車の鍵と財布、携帯電話を手に取った。



「啓介。少し出掛ける」

リビングのテレビ前、スナック菓子を頬張りながら新作ゲームに熱中している弟へ声を掛けた。

「いてらー。帰り炭酸とドリ天買ってきて♪」

「気が向いたらな」

雑誌なんて広告を買わされるだけなのに――苦笑して玄関へ向かう。




涼介は愛車に乗り込むと小さな溜息を零した。

あれから何年経っただろう――もう2年になるか。"彼女"を忘れることなど出来ずに居る。




国道17号は順調に流れている。涼介の視線は反対車線の対向車を捉えるように滑り、そして落胆するように憂いを含み前方へ戻る。

探しているのは真紅のZ――県外ナンバーの、日産フェアレディZ32。しかし本命は"貴婦人"の名を冠した車ではなく、それを操る"彼女"。

彼女について知っていることと言えば、名前とタトゥーと蟲惑的な存在感。時折見せるあどけない笑顔。艶やかな黒髪。幾度も反芻した事柄ばかり。

彼女のことを殆ど知らないという事実に嫌でも気付かされる。



駅前の駐車場にFCを停めると書店の看板が目につき、まずは啓介の用事を済ませようと足を向ける。

店内へ足を踏み入れた直後、黒髪の女性が振り向いたことに涼介は気付かずに居た。



啓介に頼まれた雑誌はすぐに見つかった。平積みされている中から一冊抜き取る。

レジに並ぼうとして、不意に目を遣ったその先に。分厚い女性誌が並ぶ棚の前、一人佇む黒髪の女性。

見紛う筈もない。探していた"彼女"――夢子だ。

彼女は棚から週刊誌を取ってページをめくり、時々手を止めて文章を目で追っている。


声を掛けようか束の間悩み、一歩踏み出したその瞬間。彼女がこちらを向き、しっかりと視線が合った。

そうして彼女はふわりと微笑う。穏やかな聖母の笑みだ。直後、彼女は何事もなかったかのように視線を雑誌へ移し、それを棚へ戻した。


呆気に取られた涼介を誘うように、彼女は店外へと歩いていく。金髪の女性が笑う表紙の上、雑誌を放って涼介は駆け出した。



夢子!」

聞きたいことなら山ほどあった。



彼女はこちらをゆっくりと振り向いて。片眉を少しだけ上げて、はにかむように微笑った。

「ひさしぶり、だね」

それはあの頃と変わらない、あどけない笑顔。

「お茶でもしよっか?奢るよ、学生さん」

「俺のこと、知って――」

「有名人なんだね。〈赤城の白い彗星〉なんて、誰が付けたの?」

「いや……」

「ま、いっか。行こ、涼介」

そうすることが当たり前だとでも言うように、夢子は涼介の手を取った。



ホテルの一階に在るカフェで、二人は向かい合って座っている。ケーキを頬張る夢子を見るともなく眺めていると、視線に気付いた夢子が微笑った。

「食べる?」

フォークで切り分けて差し出した。きっと夢子の"一口"には大きいだろう。

素直に身を乗り出して口を開けた途端、夢子は迷うことなくフォークを翻し、大口を開けて頬張る。

「…………」

「ごめ、そんな顔すると思わなかった」

咳払いをして椅子に座り直した涼介を見遣り、夢子が苦笑を漏らす。


「そんなに警戒しないでよ」

再度切り分けた大ぶりの一口。精一杯手を伸ばし、フォークを揺らして夢子が誘う。涼介が――少しだけ警戒しつつ――それを受けた。

「……美味い」

「でしょ?」

満足気な夢子の笑みにつられて微笑う。




「今日はZで?」

「うん、一緒だよ。あちこち手がかかって仕方ないけど」

言葉を探すように夢子が視線を彷徨わせる。続きを急かすようなことはしない。否、本当は出来ないだけだと解っていた。

「けど……あたしはZが好きだから、ずっと付き合っていくつもり」

「ああ、そうだな。それがいい」

艶やかな黒髪は変わらない。紅い爪。紅い唇。左肩にはまだ、タトゥーはあるのだろうか。

シャツの襟元から覗く鎖骨の窪み。あの夜の痕は当然見当たらない白い肌。


「煙草は?」

「やめたよ。1年くらい、前かな」

「そうか」

とても穏やかな時間だった。互いに"核心"に触れることはない。思い出したように瞬きをして、夢子が呟く。

「逆だったかもね」

「……逆?」

「お茶とかゴハンとか、順番があるじゃない?フツーは」

「ああ……。まぁ、確かにそうかも知れないな」

「あのときの涼介、よく引かなかったなーって思うよ」

ケーキフォークを静かに置いて夢子が笑う。夢子は視線を落とし、華奢な取っ手をそっと包むようにティーカップを持ち上げた。

左手薬指に、薄っすらと窪んでいる細いライン。まるで、つい先程まで指輪をしていたかのような。




俺は途惑い、黙って居た。何が正解か――皆目見当が付かない。どんな難問よりも大層難しい。

目の前のコーヒーカップは空になっている。夢子がソーサーに置いた白いティーカップを見遣り、テーブルに伏せられた伝票を手にして立ち上がった。




「涼介。待ってってば」

小走りで自分を追い掛けてくることがただ嬉しかった。駅前通りへ出ると橙黄色に染まった街並に気付く。


「あたしが奢るって言ったのに〜」

シャツの裾を引いて抗議してくる夢子に、冗談めかして言ってみる。

「それならキスをくれないか」

夢子がぴたりと足を止めた。機嫌を損ねたと思い、苦笑しながら振り返る。

唐突に、涼介の首へ回された腕。束の間触れた、夢子の紅い唇。

駅前の雑踏の中でひどく不安な気持ちになり、掠れた声で夢子へ問うた。

夢子……また、会えると思ってもいいか」

「わかんない。多分、さよならだね」

どちらからともなくもう一度唇を重ねたのは、結末を確かめるため。そして一瞬見つめ合い、涼介の耳元に唇を寄せて夢子が囁いた。



「涼介。2年経てば、ひとは変わるよ」



夢子の声は微かに震えていた。いや――震えていたのは自分の心だったのかも知れない。


甘い香り。冷えたベッド。紅い印が残された吸殻。あの日、手を伸ばすことさえ出来なかった自分。

また会えたら、この腕に抱き締めて、そして二度と離さないつもりだった。

今、夢子の背中を見送ることしか出来ない自分が――ひどく惨めに思える。


どうして最後まで騙してくれなかった――

夢子が涼介の体に描いた紅い傷跡は、とうに消えていた。虚ろな世界でただひとつの真実。胸が疼く。




俺は――夢子を忘れることが出来るだろうか。



マリアの微笑が脳裡を過ぎる。貴婦人は何処へ向かうのだろう。

あの夜、愛に触れた気がして――俺はそれを、偽りの無い真実だと今の今まで思っていたのだ。


喧騒の中で夢子を見失い、ただ茫然と立ち尽くす涼介の頬を、夕暮れの温い風が撫でていく。





[マリアの微笑] END.

リクエスト

2009/06/07 up.


高橋涼介||0:top