「はじめまして。亜紀道さんとお付き合い、させていただいています、田中夢子です」
目の前で頭を下げているのは、あからさまに緊張して挨拶だけで精一杯てカンジの女。
兄貴が照れくさそうに家につれてきた“女”の正体が間も無く判明する。家族の誰もが予想しなかった“カノジョ”だった。
髪の色も化粧も服も地味で冴えない、ダッサイ女。国立大学の一年らしい。兄貴が年上好きだなんて知らなかった。べつに知りたくもなかったけど。
両親は彼女のことを気に入って『亜紀道にはもったいないお嬢さん』とか絶賛するし、アタシには勉強見てもらえとか言ってくる(絶対イヤ)。
二人が“健全なお付き合い”を装っているのが、どうにも気持ち悪くて――彼女とはなるべく顔を合わせないようにしていた。
とある日曜の午後。ケーキを焼いたとかで彼女がやって来た。料理上手アピールのつもりだろうか。
両親と談笑中のリビングを横切る美央を見つけ「こんにちは。お邪魔してます」と遠慮がちに声をかけてくる。当然のように無視した。
「よかったら、美央ちゃんもどうぞ」
「いらない。取り入ろうって魂胆が見え見えで気持ち悪い」
「美央!」
「出かける」
兄の怒号に背を向け、家を飛び出した。
「……悪いな、夢子」
「ううん。美央ちゃん、私に亜紀道君を取られちゃうって思ってるのかも」
「買い被りすぎだ。あいつがそんなタマかよ」
夢子はどこか悲哀を滲ませながら薄っすらと笑う。彼女の肩を叩き、亜紀道が「気にすんな。そろそろ行こうぜ」と促した。
勢いだけで市街までやって来た美央は、友達へ連絡するかどうか電話ボックスを前に迷っている。
せっかくの日曜だし、モヤモヤしたまま終わらせたくない。誰か捕まるかな。扉に手をかけた時、車道から二度鳴らされたクラクションに振り向いた。
「カーノジョ、遊び行かない?」
声をかけてきた男は二人連れ。どっちも20代半ばくらいのチャラそうな男。
二人が乗っているのは、不釣合いな高級セダン。親のクルマ借りたのかな。……ま、ヒマつぶしにはなるか。
「タイクツならすぐ帰るからね」
後部ドアを開ける男を見上げながら、美央がのたまう。
「大丈夫だって。退屈なんかさせないよ」
猫撫で声と共にドアを閉められ、車内は完璧な密室となった。
亜紀道のZX-7R、隣には夢子のGPz750R。朝比奈峠に二台が並ぶ。走り慣れたこの場所は、二人が初めて出会った場所でもある。
二台のすぐ傍へ停まった、一台のCB750FOUR――“K0”。夢子と視線を合わせた政友が、僅かばかりの緊張を持って「ご無沙汰しています、夢子さん」と頭を下げた。
「椚君。ひさしぶり」
「政友くん……」
「邪魔して悪いな、亜紀道。おまえの妹、今どこにいる」
「美央なら出かけたぜ。あいつが何か、」
「オレの勘違いだといいんだが」
政友が口ごもるように話し始めた。市街でセダン車に乗る彼女を見たこと。悪い噂の絶えない車であることが気懸かりである、と。
「多分“マンディズムーン”だ。溜まり場にしてるらしい」
「あのバカ……」
「人数要るか?」
「いや。オレの問題だ」
「そうか。ナンかあったら連絡くれ」
頷いた亜紀道を見遣り、政友が背を向ける。
「私も行く」
夢子の鋭い眼付きに亜紀道が息を飲んだ。彼女の横顔には、かつて横浜に君臨した“女王”の風格が漂っている。
真っ直ぐ結ばれた紅色の唇は、決して揺るがない固い決意を示しているように感じられた。
「……遅れないでついて来いよ、夢子」
「上等」
愛機に跨る夢子を視界に収め、ZX-7Rのエンジンを叩き起こした直後。
GPz750Rのエンジン音が鼓膜に突き刺さる。彼女の挙動を確かめることなく、亜紀道はZX-7Rを駆り車道へ飛び出した。
かつてファミレスだった『マンディズムーン』駐車場には一台のセダン車が停まっている。政友の言う車種に間違いないようだ。恐らく美央もここに居るのだろう。
愛機から飛び降りた亜紀道が、廃墟のように荒れ果てた店内へ歩を進めた。
男が二人、ソファの辺りに立っている。手にはそれぞれ、ビデオカメラとガムテープ。これから何が行われるか――想像に難くない。
「テメーら……!」
亜紀道の拳が男の顔面にめり込み、スローモーションのように膝から崩れ落ちていく。
気付けば、もう一人は地面に倒れ盛大に泡を吹いている。傍らの夢子は呑気に「寝ちゃったみたい」と肩をすくめ、亜紀道へ背を向ける。
一体、夢子が彼に“何”をしたかは聞かないことにしよう。
ソファに横たわる美央を一瞥した夢子が地面へ膝をつく。美央は幾度かの呼び掛けに薄く眼を開け「兄貴」と呟いた。
声は少し掠れているけれど、暴行や薬の類は心配無いようだ。安堵したように夢子が頷く。
「亜紀道君も一緒だから大丈夫だよ。すぐ終わるから、もう少しだけ待っててね」
夢子の穏やかな声に安心したのか、美央は浅く頷き眠るように瞼を閉じる。それを確認した夢子が「さて」と立ち上がった。
パン、と乾いた音が二度続け様に上がると同時。鋭い痛みが左頬を刺し、男達は失っていた意識を取り戻す。
「目え覚めた?」
やけに明るい声の主を探すように顔を上げる。二人は何者かに(恐らくは目の前に居る彼女に)平手打ちされたのだと気付いた。
二人はどんよりと重い瞼で瞬きを繰り返しながら、少しずつ自分の体勢と状況を理解し始める。
壁に背中を預け、脚を放り出すように座っている。背後に回された両手首、目の前に在る両足首は共に拘束されているようだ。
足首に巻き付けられたガムテープには見覚えがあった。自分達が用意したものである。
一人の女がニコニコとこちらを見下ろしている。胸部にサラシを巻き、純白の特攻服を着た女。
「初めてじゃあないよね。用意が手慣れてる」
彼女は右手にコンパクトなビデオカメラを掲げる。あっと思う間も無くそれを地面へ叩き付けて破壊し、特攻服のポケットから幾つかの袋を取り出した。
「コレ“D・D・D”で買ったんでしょ。中身がナニか、解ってる?キミ達もヤってるみたいだけど、カラダに悪いからやめなよ」
さらさらと地面へ振り落とした“白い粉”を踏み躙る最中、特攻服の裾がはためいた。
男の一人が、何かに気付いたように目を見張る。視線は刺繍に吸い寄せられているようだ。
『無慙無愧 横濱女王 麗戯雫 玖代目総長』
「……レギナ、って……あの、横浜最大のレディース……」
「知ってるんだ?でも悪い子にはお仕置きしないとねえ。死んだ方がマシなヤツがいいかな?『殺してくれ』って、キミ達から頼むくらいの」
しゅらりと匕首(あいくち)を抜きながら、なんでもないことのように夢子が言い放つ。
「じゅッ……銃刀法知らねーのかクソアマ!」
「死にたいなら今すぐ叶えてあげよっか」
にこりと笑んだ夢子が、男の眉間へ切っ先を突き付けた。冗談では済まされない行為である。だがこちらをじっと見詰める彼女の瞳に、一分の迷いも見られない。
ここは早く切り上げた方が身の為だと、二人はようやく理解したようだ。
「すんませんっした!」
「も、もうしませんからカンベンしてください!」
「眼球と睾丸、どっちからにする?」
「……は?」
「何、言って……」
「どっち先にエグるか聞いてんだよ屑」
夢子は右足で男を蹴り転がし、仰向けになったところで腹の上へどっかと腰を落とす。顔を近付け、まじまじと男の瞳を覗き込んだ。
「役立たずの“耳”から落とそっか。聞こえないなら、いらないもんねえ」
馬乗りになった夢子の左手は、無遠慮に男の右耳を鷲掴む。右手で振り上げた匕首が、割れ窓からの陽射しを受けてきらと輝いた。
男の口から、人語とは程遠い出鱈目な喚き声が上がる。辛うじて「たすけて」だけは聞き取ることが出来た。
直後「夢子」と窘めるような声が飛び、右手に匕首を握り締めたままの夢子がゆっくりとそちらへ視線を向けた。
亜紀道の言わんとしていることは、その表情から充分に理解できた。夢子は渋々ながら「はぁい」と返答し、彼等へ向き直る。
「亜紀道君に感謝しなよ」
非常に残念、といった口調で匕首を持ち直した夢子は、男達を拘束するガムテープを切り裂いた。鞘へ収められた匕首に、安堵の溜息が二つ零れる。
真向いにしゃがみ込んだ夢子が「正座」と言い放ち、ぐったりと座り込んでいた二人は揃って姿勢を正す。直後、眼前に両手の小指が突き出された。
「もう悪いコトしないって、私と約束。ハイ、指切りげんまん♪」
彼女の笑顔に逆らうことなど許されないのだと、男達は十二分に理解できた。やがて三人の小指は絡められる。
これが艶っぽい約束ならどんなにいいだろう。そんなことを頭の片隅で考えていると、身体ごとぐいと引き寄せられた。
「バレなきゃいいとか思うなよ?次は“ちゃんと”エグるから覚悟しな」
ふふ、と愉し気に笑う夢子の吐息が二人の耳孔をくすぐっている。
彼女の手から解放されると同時に立ち上がり、二人はばたばたと駆け出した。セダン車のエンジン音が遠ざかっていく。
髪を靡かせ立ち上がった夢子が、亜紀道へ笑みを寄越す。
一度頷いた亜紀道は、美央を抱き起こした。何か言いたげに口を開いた妹を制し「話は後だ。乗れ」と顎をしゃくる。
存外しっかりとした足取りで歩き出した彼女を見遣り、夢子は愛機へ跨る。間も無く、車体後方に予想外の重みが加わり振り向くとそこには。
「美央ちゃん……」
「…………ヘタな運転すんなら、代わってもらうからね」
こちらへ視線を向けようとはしないが、彼女なりに距離を縮めたいと思ってくれている――と思っても良いだろうか。
「うん。私、がんばるから!ちょっとだけ朝比奈寄ってこうか。亜紀道君、いい?」
夢子の提案を受けた亜紀道が苦笑交じりに頷く。美央がその意味を知るのは、今から数十分後。
「バッカじゃないのォ!どーゆー神経してんのよ!」
美央の絶叫が峠に響く。呆れ顔の亜紀道が「全然たいしたことねえよ」と言い放つ。
「普段もっと寝かせてるからな。今日は荷物乗せてっから遠慮したんだろ。ガチの夢子はマジで“迅”ェぞ」
「美央ちゃんスカートでしょ。怪我でもさせたら申し訳ないよ」
「ナニそれ」
「親からもらった大切な身体だから……大事にしなきゃ」
「はあ?ヤリまくりのクセによく言うよ、ったく」
美央が髪をかき上げ吐き捨てた途端、しんと沈黙が落ちる。言い過ぎに気付いた美央は慌てて手を振った。
「いや、夢子さんがヤリマンとかゆーんじゃなくて。つーかそんなん知らないし。兄貴とさぁ……とっくにヤってるよね?」
誰も、なにも、応えない。美央が恐る恐る問いを続ける。
「……付き合ってんだよね?アタシが知ってるだけでもけっこー長いよね?」
それでも、兄と恋人は無言を貫く。美央は顔を蒼くして「ウソでしょ」と呟いた。
「信じらんない……!兄貴よくガマンできるね?ヤレない女に価値あんの?」
「うるっせえな!おまえに関係ねえだろ!」
「やだー!プラトニックとか逆に気持ち悪っ!」
「夢子にそんなん聞かせんな!帰んぞ、夢子ッ!」
亜紀道から大声を向けられた夢子はじっと俯いている。その唇から「名前」とただ一言だけが零れた。
「「はぁ?」」
二つの声が兄妹から同時に上がる。
「美央ちゃん、私の名前、呼んでくれた……!」
「ちょっ――なんで泣くのよ、意味わかんないんだけど!」
「お、おぼえててくれて、うれしぃ……」
「もォ!兄貴、なんでこのヒト好きなワケ?」
「ガキのおめーにゃわかんねーよ」
妙にあったかーい目しちゃって、ますます意味わかんない。肩をすくめる美央が、こちらへ向かってくる“音”に気付く。聴いたことのある音だ。
「亜紀道!」
兄へ声を掛けた男は美央の予想通り――椚政友、その人だった。
愛機“K0”から飛び降りた彼は、夢子へ頭を下げてみせた。当の夢子は「ありがとね、椚君」とニコニコ笑っている。
「椚君が知らせてくれたの」
傍らの美央へ耳打ちするように、そっと夢子が囁いた。美央が目を丸くし、慌てて頭を下げる。
「どうも、ありがとうございました」
「怪我なくてよかったな。あんまり兄貴に心配かけんなよ」
頷いた美央を見遣り、政友は亜紀道へ向き直る。二人を眺めていた夢子が、小首を傾げるように「コーヒー好き?」と美央へ問うた。
「うん。どして?」
「亜紀道君と椚君、時間かかるかもしれないから。あったかいの飲んで待ってようか」
自販機へ促された美央は、大人しく彼女に従い後ろをついていく。
「はい、どうぞ」
「いただきまぁす」
差し出された温かい缶コーヒーを受け取りプルタブを起こすと、微かに香りが立つ。
縁石に二人並んで腰掛け、美央は夢子が纏う特攻服をぼんやりと眺めている。
レディースの“族”が、横浜市内に幾つか存在していることは美央も知っている。
その頂点に立つ『麗戯雫』は結成当初から走りと喧嘩がピカイチで、県内でも指折りの超有名な“族”。
『麗戯雫』の総長は即ち、“横浜を統べる唯一無二の女王”であることも。
「まさか夢子さんが“総長”だったなんて。特攻服とか、意外すぎて逆に笑えるんだけど」
「もう引退してるから……。これね、亜紀道君と走るときだけ着るんだ」
愛しいものに触れるような手付きで襟元に触れる。はにかむような表情が可愛らしい。
「今日、化粧濃いよね」
「……似合わないかな」
「そーじゃなくて。こーいう一面もあるんだなって思ってさ」
こくり、夢子が頷く。
「ねえねえ、ホントに兄貴とは“まだ”なの?今までカレシとか全然いなかった?“こっち”の夢子さんは、モテない方じゃァなさそーだけど」
「付き合うひとは、亜紀道君が最初で最後だよ」
一切の途惑いを感じさせず、夢子が言い切った。言葉に詰まった美央が、ぐいと缶を呷る。熱いコーヒーは、やけに苦く喉を潤した。
自分は今までこんなふうに“本気”で、人を好きになったことがなかったから。……ただ単純に、隣に居る彼女を羨ましく思っているみたいだ。
「美央ちゃん、高校どこ行くの?」
「ん、兄貴と同じ。愛慎」
「……そっか。じゃあ、もうすぐ“運命の出会い”があるかもね」
「アタシ、ボーソー族には興味ナイって。愛慎てソッチ系多いらしーし……」
「まぁまぁ、そう言わずに。美央ちゃん好みのコが居るかもしれないよ」
「ナニよ?夢子さんてばヘンなのォ」
どこか楽しそうに笑う彼女の隣に居ることはとても心地良い。……ああ、そっか。アタシ、この人のことまだ全然知らないんだ。
「今度、いっしょに走ろーよ」
「もちろん。サーキット行こうか、どこがいいかな。亜紀道君も一緒?」
「……兄貴は、アタシがバイク乗るのに反対だし……」
「心配してるんだよ。美央ちゃんは、亜紀道君の大事な妹だもん」
「ええー……?そーかなぁ……?」
「そうだよ」
「……うん。夢子さんがそう言うなら、そうなのかも、ね」
驚いたように見つめてくる夢子の視線はくすぐったくて、じっとして居られない。すっくと立ち上がり、空缶を二つゴミ箱へ放り投げた後、兄へ声を放る。
「兄貴!アタシら先帰っからァ!ホラ行こ、夢子さん」
「え、でも」
「いーからいーから。ハイ」
美央が右手を差し出すと夢子はそれに応えるように立ち上がり、どちらからともなく一度、強い握手を交わす。
夢子の愛機――青色と銀色を纏うGPz750Rの佇まいは、ただただ美しい。オーナーから愛されていることが、手に取るように伝わってくる。
「今度は飛ばさないでよね、夢子さん」
「えっ」
「……フツーに、ゆっくり、ウチまで安全運転してくれればいーから。兄貴が“心配”するんでしょ」
二人はまるで旧知の友達のように、視線と微笑を交わす。
タンデムは苦手だと思っていた。運転も同乗も疲れるし、二人の息が合わないとうまく走れないから。
彼女の後ろに居ることは楽しくて、やっぱりバイクっていいな、なんて再確認した。ブレーキングも、コーナリングも、気を配ってくれていることがちゃんとわかる。
柔らかく温かな彼女の身体が、美央のすぐ前に在る。腕の中に居る“女王”に、自らの命を預けているのだと実感が湧いた。
不意に前から「ごめん、美央ちゃん」と申し訳なさそうな声。
「やっぱりちょっとだけ、飛ばしてもいい?」
ワガママな女王サマだ。美央の唇に笑みが浮かぶ。
「しょーがないなァ!ちょっとだけだかんね!」
車速と向かい風に負けじと怒鳴るように声を上げた途端。全身に感じる風の“種類”が変わったように感じられた。
だけど全然、怖くなんかなかった。このままどこまでも走っていきたいような、生まれて初めての感覚。
きっと、この人とならどこまでも走っていける。根拠なんかなんにも無いけど、そう思う。知らないうちにまた、笑みが込み上げる。
美央が両腕に力を込めた。たいせつなものをしっかりと、心の中へ抱きしめるように。
[横濱女王]END.