その感覚
「キスしていい?」
休み時間の教室。〈仙道彰〉から耳を疑うような問いを掛けられたのは、あたしが一ヶ月付き合った人にフラれた直後のことだった。
この人は何を言ってるんだ。さっきのは聞き間違いだろう。きっと、そうに違いない。自分の聴力と理解力を少々疑いながら、一音で返事。
「は?」
「オレ、今すぐ夢子ちゃんにキスしたい。だから、キスしていい?」
「えー……と……」
身長190cm、黒髪のハリネズミは前席に腰掛け、ニコニコとあたしを見つめている。
太陽のように人懐っこい彼の笑顔に、一体何人が惚れて、何人が泣かされたんだろう。
「……減るもんじゃないし、まあ、別にいいけど……」
何気なくそう呟いた次の瞬間。教室中、クラスメイトの女子による絶叫大合唱が響き渡る。
目の前は仙道に遮られ、閉じられたまぶたと睫毛がぐんと近付いた。
唇にあたたかくてやわらかなものが、本当に一瞬だけ触れる。あたしはその感覚を忘れない。
「早っ!」
「ありがと、夢子ちゃん」
「や、誉めてないから全然」
左右に手を振ったが仙道は笑っている。全然、気にしていないようだ。夢子は肩をすくめて溜息を吐く。


そうして、仙道彰とあたしは『セフレ』ならぬ『キスフレ』になったのだ。


「…………田中
「なに?これ飲みたいの?」
「いや……それ、落ち着かないだろ」
昼休みの屋上。暖かい陽気。天気がいい日はここで仙道とお昼を食べることにしている。だいたい、越野と福田が一緒。
たまに彦一とか植草くんとか、仙道が所属するバスケ部の友達?が来ることもある。
正直に言うと、あまりよく知らない。仙道がバスケしてるとこ、見たことないし。それでもいろんな噂は耳に入る。
バスケ部といえば、魚住先輩に会ったときは本気でビビったな。
仙道も背高いけど、あんなにでかい人、というか〈高校生〉が居るのか!ってびっくりした。山かと思った。
あの時はビビって仙道の陰に隠れたっけ。ちょっと悪いことした気がする。魚住先輩、笑ってたけど。
たぶん、すごくいいひとだと思うな。よく知らないけどそんな気がする。

越野が苦い顔でそれ、と指差したのは、あぐらをかいた仙道。……と、ラフに組まれた長い手足のスペースに収まるあたし。
背後から仙道に抱きしめられている状態で、彼がこくこくと舟をこいでいるのがわかる。
おなかいっぱいでこの陽気だもん、眠くなるのはしょうがないよね。

夢子は全身をすっぽりと覆われている感覚に目を細めた。ゆるやかに体温が伝わってくる。
「うーん……もう慣れた、よ」
紅茶のペットボトルを弄びながら呟いた。
慣れた、というより――慣らされた、のだ。はじめの頃はすごくすごく、嫌だった。
キスだけなら別にいいけど、その他は嫌。触らないで。とずっと拒否し続けてきた。
それでもベタベタひっついてくる仙道にだんだん免疫ができてきて、今じゃここが一番落ち着く。学校の中で唯一、あたしが安心できる居場所。

「……まぁ……田中がいいなら……いいけどさ」
ん、いいのか?と自問自答気味に呟くと、大きな溜息を吐く越野。彼は仙道の保護者みたいな存在。
傍らの福田はきちんと正座して、黙々と焼きそばパンを頬張っている。
田中は、好きなのか?」
不意に夢子へ目を遣り、福田がぽつりと訊いてきた。
福田はわりと無口だけど、たまに喋るコトは結構――核心を突いていたり、大事なことだったり、する。
「仙道のことが?」
質問に質問で返すと、福田は焼きそばパンを持ったまま、小さく頷いた。
「もちろん好きよ。トモダチとして」
決して嘘じゃありません。あたしは現状に満足しています。仙道を独り占めしたいとか、そんな欲張りにはなれません。
皆カラ人気者ノバスケ部ノエース〈仙道彰〉ノ〈彼女〉ニナリタイ。
――だなんて。そんな我儘、とんでもない。名前を呼び捨てされて、こうして一緒に居られることさえ、贅沢すぎるくらいです。


心の繋がらない、唇だけの関係。仙道から持ち掛けたゲーム。それに乗った夢子。彼の存在は救いだった。


「ていうか仙道って、あたし以外にもいっぱい女いるんでしょ」
「女って……親衛隊のことか?」
「そーそ。付き合うのもハーレム作んのも、ヨリドリミドリじゃん。あの子達み〜んな仙道のこと好きなんだし」
あたしを見かけるたび、純粋な悪意と敵意に満ち溢れた視線を突き刺し、大声で〈悪口〉を言う女達。
そんなくだらない攻撃で、あなた達は満足するんですか。あたしにダメージを与えたつもりですか。
遠慮しないで正々堂々、かかって来ませんか。いつでも受けて立ちましょう。キレイに作り上げたそのお顔、決して狙いませんから。

「いや、でも最近は……なぁ」
越野が福田に矛先を向けたその時。
夢子さんとそうなってからは浮いた話が全くないんですわー!」
騒がしい来訪者に、仙道が目を覚ましたようだ。
「……彦一……?」
「おはようございます仙道さん!」
「……ああ、うん。おはよう」
くたりとうなだれ、夢子の髪に顔を埋めた直後、もしゃもしゃと夢子の耳元で音がする。
耳たぶ、舐められて――というか、むしろ食われてるんじゃないのこれ。
「んー。夢子いい匂い」
「何してんの仙道。ヨダレつけないでよ」
「大目に見てくれてもいいだろ。夢子のケチ」
「いいワケないでしょ」
手元のペットボトルでポコっと仙道を殴った。まだ半分以上残っているミルクティーが、容器の中でゆるりとかたちを変えて元に戻る。
殴られた仙道はめげる様子もなく「くぁ……」と欠伸をしてまた目を閉じた。
体勢が辛くないように、と配慮して回した手は夢子の腰の辺りで緩く組んでいる。
溜息を落とした夢子が越野達の方を見ると、皆、少し顔を赤らめているようだ。
福田に至っては硬直している模様。焼きそばの麺、コンクリに落ちてるよ。
「なにさ」
「いや……お前ら、付き合ってるようにしか見えないなあ、と思って……」
きっと、この現場を見た100人が100人ともそう言うと思うんだけど。
「あはは。違うってば」
夢子はあっさりと越野の言葉を否定し、彦一に顔を向けた。
「彦ちん、その話もう少し詳しく聞かせてくれる?」
一応、礼儀としてにっこり微笑んでみる。彦一は赤面したまま、表紙に『マル秘』と書かれたノートを高速でめくって教えてくれた。



夢子と『契約』して以来、仙道はオンナノコのお持ち帰りをしなくなったこと。

夢子と『契約』して以来、仙道が告白されたのは約20回。だけどいずれも優しく、きっぱりと断っていること。

夢子と『契約』して以来、仙道が貰った手紙は約50通。だけどいずれも読まずに捨てていること。



「でも差出人チェックはしてはりますね」
田中からの手紙があるかもしれないって思ってんだろ、仙道は」
「……へえー」
あたしが、仙道にラブレターを書いて。ドキドキしながら、机とかくつ箱とかロッカーに入れるかも、って思ってんの?
ありえない。つか、ガラじゃない。絶望的に似合わない。そんなカワイイの、あたしのキャラじゃないでしょ。
「仙道さん、夢子さんのこと本気やと思いますけど……」
「ホンキ、ねぇ……」
彦一の言葉に苦笑が漏れる。軽くもたれていた背中を更に後ろへくっつけた。規則正しい呼吸の音。
「ね。仙道って、あたしのこと本気なの?」
「勿論。オレは夢子に本気だぜ」
間髪入れず返ってきた答えを受け取った直後、額に唇が触れた。いつものように、仙道に触れられたところがジンジンと熱くなっていく。

やれやれ、また始まったぞ――皆が腰を上げた。

「コッシー達もう行っちゃうの?も少し時間あるよ」
「お前ら見てると胸焼けしそう」
越野がヒラヒラと手を振り、重たいドアを閉める。「ごゆっくりどーぞ」という台詞を背中で残して。
「ほら、夢子。越野もああ言ってくれてる」
「意味わかんない。そんなカワイコぶってもダメ」
みるみるうちにうなだれるハリネズミ。でっかい図体でそんなことされても。……ああ、もう。可愛いっつーの。
全身に電撃が走ったかと思うほど衝動的に、仙道に触れたいと夢子は強く思った。
彼の唇に微かに、本当に微かに唇を重ね――すぐに離れる。閉じた目を開けて見上げると、仙道の頬がほんの少し赤くなっていた。
「……どしたの?」
「だって今、夢子からシてくれた!いつもオレからだし――あ、勿論、夢子とキスできるのは嬉しいけど」
すっげーうれしー、と強く強く抱きしめる。

仙道の匂い。仙道の鼓動。熱を持つ身体の、心地良さ。あたしも今、心臓が、すごく速い。くるしい。息が、乱れる。

「キスの、先は――したくないの」
思ったよりも震えた声で夢子は言った。遠くに予鈴が聞こえている。
それでも仙道は、手を放そうとはしない。そして夢子も、仙道から離れようとはしない。
「……怖いから」
今まで笑っていた仙道の瞳が、すうっと冷えていく。
「モトカレに、なんかされた?」
「……キス。された」
「うん。じゃあ――その先は?」
夢子は首を左右に少し振った。サラサラと髪が揺れる。
「断ったら、フラれた」
翌日届いた、たった一行のメール。
『ヤれねーならいらねえ』
そのメールを削除し、登録していたメモリとデータの全てを消去し、吹っ切るように携帯を閉じたところで仙道に声をかけられた。


『キスしていい?』


「オレはいつまでも夢子を待つよ」
低く優しい声で仙道が言葉を紡ぐ。
夢子がオレのこと好きになってくれて。……いい、って思ってくれるときが来たら」
そのときに。こころも、からだも。深く深く結ばれよう。
「あたし、――」
いつからだろう。とっくに、好きになってた。仙道が、大好きなんだ。
もっともっと、仙道のこと知りたい。あたしのことも、いっぱい知ってほしい。名前を呼ばせて。あたしの名前を呼んで。



触れ合う唇と、ふたつのからだ、その感覚を。あたしは生涯、忘れられない。





[その感覚]END.