『これから会えないか』
ウィークデーの夕暮れ、携帯に届いた一通のメール。
こちらの都合を伺う短い文章ではあったが、業務終了間際で萎れた夢子の心を浮き立たせるには充分すぎるものだった。
待ち合わせ場所に到着すると、駐車場は閑散としていた。一人の男性が、夢子の車――ロードスターを見つけて手を上げる。彼の傍らには一台の車が在った。
ひさしぶりに会う涼介と、白いFC3S・RX-7。「ごめん、待った?」と運転席を飛び降りた夢子からの熱視線を半々に注がれ、涼介が笑う。
「今着いたところだ。夢子は俺よりFCに会いたかったと見える」
「どっちも、だよ。ここ、二人で来るのは初めてだね」
「ああ。来たことあったか」
「ん、遠足だったかな。でも遊園地なんて、いつぶりかなあ」
「ここで良かったのか?職場から遠かっただろう」
「だって涼介、病院から帰るなら近く通るでしょ」
研修医である涼介が、超がつくほど多忙であることは夢子も理解するところである。
その合間を縫って、夢子と会う時間を作ってくれていること。五分でも十分でも、涼介に会えるのならどこにだって行こうと夢子は思う。
園内へ入ると、平日のせいかあまり客は多くないようだ。今ならアトラクションにも、ほとんど並ばずに乗ることができそう。
でもお疲れの涼介をあちこち連れまわすのは気が引ける。絶叫マシンやスピード系アトラクションが好きだけど、今日はやめとこう。
広い園内を二人連れ立って散歩するだけでも、夢子にとっては楽しいものだ。話したいことが、それはもうたくさんあるのだから。
尽きることのない会話がふと途切れた。夢子が空を仰ぎ、独り言のように「だいぶ暗くなってきたね。帰ろっか」と呟いた。
涼介が首を振り「最後にひとつ、付き合ってくれ」と言い放つ。
でも、きっともう閉園時間を過ぎているから。腕時計を見ようとした夢子の手を涼介が掴み、突然走り出した。
二人で階段を駆け上がった先、観覧車乗り場では、係員のお兄さんがニコニコと待ち構えていた。
一台のゴンドラを薦められ、二人がそこへ向かい合って座る。「いってらっしゃい!」朗らかな声と共に扉が閉まり、ゴンドラは緩やかに上昇し始めた。
夢子がきょろきょろと辺りを見回す。夜、観覧車に乗るのは初めてだ。しかも、全面ガラス張りのような『スケルトンゴンドラ』。
頭上も足元も――鉄骨や巨大なボルトが――よく見える。夢子は薄っすらと後悔し始めていた。
高い場所が得意ではないことを、涼介も知っているはず。視線を合わせると、夢子の不安を汲み取るように「怖いなら、俺を見ていろ」と笑んだ。
落ち着かないまま視線を下ろしてみると、園内アトラクションの照明は大部分が消えている。やはり、夢子の予想通り閉園時間は過ぎているのだろう。
そのまま視線を巡らせると、光るものが目に映る。街の灯り。道路を行き交う車のライト。見渡す景色を独占するような空中の密室、涼介と二人きりで居るのは悪くない。
高さは地上数十メートルといったところだろうか。頂上まであと少し。ようやく恐怖が和らぎ、ほっと息を吐いたところ、目の前の涼介から声が飛ぶ。
「夢子に言いたいことがあるんだ」
続きを促すように、涼介へ視線を合わせた。それから程無くして、普段よりもほんの少しだけ強張ったような声。
「俺と結婚してほしい」
正面から真っ直ぐに向けられた言葉の理解を経て夢子が勢いよく立ち上がった拍子、ゴンドラがぐらりと大きく揺れる。
バランスを崩してよろけた夢子の腕をしっかりと掴んだ涼介は、強く抱き寄せて太腿の上へと座らせた。
涼介の腕に抱かれ間近で向かい合った夢子が、瞬きを忙しなく繰り返しながら「本気、なの?」と僅かに声を震わせた。
「性質の悪い冗談とでも思ったか」
「……涼介にしては、キレがないと思、った……」
「緊張のせいかな」
涼介は小さく溜息を吐きながら「返事、今すぐでなくていいから」と苦笑混じりに呟いた。
「でも、」
「考える時間が必要だろう」
「いらない、涼介がいい。私、涼介じゃなきゃダメ」
きっぱり言い切る夢子を見つめ、涼介が一度頷く。「ありがとう」と柔らかな声と共に上体を抱き寄せられた。
肩のあたりへ頭を預けた夢子は「心臓止まるかと思った」と呟き、ちらりと涼介を見上げる。彼は素知らぬ顔で夢子と視線を合わせて微笑んだ。
「ねえ、なんで、こんな……」
「夢子を驚かせたかった」
「……それだけ?」
「ああ。成功したようだな」
思わず、夢子の唇に笑みが滲む。
「――笑った」
彼から零れ落ちた言葉は短く、しかし根底には安堵と慈愛を充分に湛えた温かいものだった。
「……私、今日あんまり笑ってなかった?」
「いや。これまで随分、我慢をさせていたと……」
「が、我慢なんてそんな、」
会いたくて、話したくて、触れたくて。それでもあなたの負担にはなりたくなかったから。何よりも〈自分〉を優先してほしいなんてこと、言えなくて。
自分のいちばん〈弱い〉ところを曝け出してしまえる相手なんて、幾人も要らない。私には、あなたひとりが居ればいい。
「…………してました」
涼介が頷き、夢子の頭頂部にポンと掌が乗せられた。温もりと同時に名残惜しさを感じ「そろそろ着いちゃうね」と呟きが零れる。
「もう一周乗るか」
冗談めかして向けられた言葉に首を振る。そろそろと立ち上がり、涼介の隣へ寄り添うように座り直した。
「おかえりなさーい!」
係員が扉を開けると同時、そちらに近い涼介が先にゴンドラから降りる。
「お手をどうぞ」
眼前へ差し伸べられた、涼介の手。夢子は右手を伸ばしてそこへ重ね、ひしと繋ぐ。ふたつ重なる掌は、初夏の木漏れ日めいた温かさ。
「どうして今日だったの?」
乗り場から階段を降りて疑問を呈した途端、無機質な呼出音が鼓膜に突き刺さる。医療用PHSが鳴っているのだと気付いた時。
涼介は既に通話を始めており、ほんの一瞬表情が翳ったのを――夢子は見逃すことが出来なかった。
通話を終えた彼が唇を開くよりも早く、夢子が「いってらっしゃい!」と言い放った。
「涼介のこと、待ってるんでしょ?早く行かなきゃ」
私は、だいじょうぶだから。迷っている時間なんて無いはずでしょう。あなたが選ぶべき選択肢はただひとつ。
繋いでいた手が離れたことを惜しむ間も無く、夢子は涼介に抱き締められていた。
「ありがとう。いってくる」
「運転、気をつけてね」
「ああ。夢子も」
「ん。ありがと、涼介」
駐車場へと走る背中を見送り、夢子が細く息を吐く。さあ、うちに帰ろう。明日も仕事だ。涼介の背中を追うように、夢子も駐車場を目指して歩き出す。
携帯が震えていることに気付き取り出してみると、画面には涼介の氏名が表示されている。
通話ボタンを押すと同時に『ごめん、夢子。俺だけど』と耳に飛び込んできた。車内に居るのだろう、電話越しにエンジン音が聞こえている。
「どうしたの?」
『言い忘れたことがあった。何故今日なのか、と』
「うん」
『夢子が告白してくれた日から、今日でちょうど千日目なんだ』
「……え、え?」
『多分、覚えていないだろうと思って』
「……涼介、なんでそんなこと覚えてるの」
『そんな事?俺には一大事だったぞ』
恥ずかしさと嬉しさが頭の中でごっちゃになって、何と答えたら良いのか解らないまま夢子が立ち尽くす。
その様子は電話の向こうにも伝わっているらしい。涼介が温かな微笑を含んだ声で『愛してるよ、夢子』と囁いた。
「わ、私も、愛してます!」
ほとんど絶叫に近い夢子の声は、きちんと涼介へ届いたようだ。
『そうだ、夢子。左手は見たか』
「左手、って、私の?なんで?」
『何故だろうな。それじゃあ、また。気を付けて帰るんだぞ』
唐突に通話が終わる。携帯を握り締めたままで耳を澄ませていると、ロータリーエンジンの〈音〉が遠ざかっていくのがはっきりと分かった。
何気無く左手を広げてみると――薬指に光る指環が目に付いた。シンプルなリングの上、一粒のダイヤモンドが煌めいている。
ぽかんと開いた口から「いつの間に」と感嘆めいた呟きが零れ落ちた。
駐車場で夢子の帰りを待っている、黄色いロードスター。お待たせ、と呟きながら夢子が〈愛車〉のドアロックを解除する。
運転席に腰を落としてルームミラーへ視線を遣ると、ゆるゆるの笑顔と目が合った。私ちょっと――いや。かなり、浮かれているみたいだ。
ステアリングを握り、シフトノブを操作する左手。薬指に在る幸福の一端が視界を掠めるたび、心が躍る。
ドーナツターンでタイヤを鳴らし、色とりどりの夢が詰まった遊園地を後にした。
[FantastiC 3yearS]END.