ああもう、なんでこんなに寒いんだろ。もうすぐ冬だから、ってのはもちろん頭ではわかってるんだけど。
エネルギー資料館、駐車場の隅。愛車・S12シルビアに身体を預けていた夢子が、澄んだ夜空を見上げる。
ふう、と細く吐き出した吐息が立ち昇り、消えてゆく様を憎々しげに眺めた。今朝買ったばかりのリップクリームを繰り出し唇に塗りたくる。
最近唇が荒れて、水ぶくれみたいなのができてるのがすごくイヤ。乾燥のせいかもしれないけど、どうしたら早く治るだろう。ラップパックでもしようか。
「夢子」
悩みを断ち切るように蓋を閉め、コートのポケットへ放り込んだ途端。背後から声を掛けられ、振り返ると――涼介に見下ろされていることに気付く。
長くてきれいな指が自分の顎に触れたことを感じた直後、上向いた視界。彼の視線は夢子の唇に刺さっているようだ。
「え……あの、涼介さん……?」
「静かに」
真剣な声色に、夢子は続けようとしていた疑問を飲み込む。これって……まさか、まさかの……き、キス、だったりする、のかな……?
もちろん、涼介さんのことは好きですよ。むしろ大好きです。涼介さんになら〈何〉をされてもいいくらい、大っ好きなんですよ(誰にも内緒だけど)。
いやいや……だからといって今ここで接吻、ってのは心の準備的なものが……。ほら、みんな、すっごいこっち見てるし……!
気を抜けば荒くなりそうな鼻息を、理性でどうにか抑えた夢子は真っ直ぐ唇を結び――じっと涼介を見上げている。
「熱の華……」
涼介が呟いたそれは、どことなく美しい響きを持っているように夢子には感じられた。
「口唇ヘルペスだな。少し前に体調を崩していたから、そのせいだろう」
やがて細く息を吐いて、涼介が身体を離す。同時に顎から離れていく温度が名残惜しい。
私が風邪をひいていたことなんか涼介さんが覚えていてくれて、驚くと同時に嬉しいと素直に思う。
聞き慣れない言葉に途惑う夢子へ、周囲で成り行きを見守っていたメンバーから「ヘルペスって、性病?」と疑問が飛んできた。
「ちょっ、やめてくださいよ!私、キスだってまだなんですから!」
ぶんぶんと両手を振りつつ否定する夢子を見遣り、啓介が呆れたように白い息を吐く。
「夢子……。お前、何だよそのガチ処女宣言。意味わかんねえ」
「そうっすか?オレは夢子ちゃんの好感度、超アガりましたよ。清楚っつーか、清純派って感じ♪」
啓介の横でグッと親指を立てた賢太が、やけにイイ笑顔をこちらへ向けた。曖昧な笑みを浮かべながら、夢子も一応親指を立ててみせる。
「かかりつけの病院はあるか、夢子」
涼介の問いに慌てて親指を引っ込めた。
「ええと……内科と皮膚科のお医者さんが近所に……」
「明日にでも行くといい。唇には触れないように、気を付けるんだぞ」
「……はい……」
しゅんとうな垂れた夢子の頭へ、涼介がそっと手を置く。慰めるように数度優しく撫でられ、ついニヤニヤと口元が緩んだ。
昨夜涼介に言われたとおり、講義の前に病院へ行くことにした。診察受付開始時刻とほぼ同時、夢子は受付窓口へ保険証と診察券を突き出す。
「田中さん。田中夢子さーん」
さほど待つことなく呼ばれ診察室へ入ると、椅子には〈若先生〉が座っていた。この前、風邪ひいて来たときはおじいちゃん先生だったな。
丸椅子に腰掛け、本日の来院目的を告げる。向き合った医師は夢子の唇を注視し頷いた。
「確かに、口唇ヘルペスだね。症状が出るのは初めて?」
「……たぶん、初めてです」
「小さい頃に感染したのかな。先日の風邪の時は熱も高かったみたいだし、そのせいで症状が出たんだろうね。体力や免疫力が落ちてる時に、ウイルスが出てきやすいんだ」
「この水ぶくれみたいなのって、治りますよね?」
「もちろん。ただ、症状がおさまってもウイルスがいなくなるわけじゃない。一生付き合っていくことになるよ」
「一生、ですか……」
私、生涯のパートナーがいつの間にやら体内に居ます。ぜんぜん嬉しくない。
「ストレスをためないこと。規則正しい生活をすること。再発しないよう、日頃から気を付けるんだよ。アトピーは無かったよね」
「ああ、はい」
「患部を避ければ、お化粧しても大丈夫。気になるようならマスクをしてもいいし。とにかく患部には触れないように、手洗いも忘れずにね。それと、近くに赤ちゃんは居る?」
「イトコが来月出産しますけど、会うのはまだ先になると思います」
「そっか。乳幼児は免疫機能が未発達で、全身に強い症状が出てしまうからね。自分に症状が出てる時は特に気をつけて。可愛いからってキスなんかしちゃダメだよ」
「はあ。そこまで母性無いと思います」
「性交渉のパートナーは?」
「え?」
思いがけない質問に目を丸くする。医師は右手中指で眼鏡を直しながら「恋人は居るの?」と事務的に夢子へ問う。
「…………いたことないです」
「それじゃあ将来的に、そういう人ができた時のために覚えていてほしいんだけど。
ヘルペスって『愛のウイルス』とも言って、ヒトとの接触で感染するんだ。キスや性交渉、意外なところではタオルや食器の使い回し。
症状が出ていなくても、ウイルスが出てる場合もある。パートナーが免疫を持っていないと、重症化するからね。心配なら抗体検査もできるよ」
人から人へ感染するってことは、これ、どこから来たやつなんだろう。小さい頃に、ヘルペスウイルス持った人にちゅーされて?
誰しも人生に三回は来るという〈モテ期〉を、物心つく前に使い果たした私のことだ。きっと親戚だけじゃなく通りすがりの人からも可愛がられたに違いない。
意気消沈を見事に表した夢子の面持ちに、医師の表情も曇る。
「ごめん、怖がらせるつもりじゃなかったんだけど……。これ、後で読んでおいて。正しい知識が必要だからね」
手渡された冊子の表紙には、紅い唇がぽつりと写っている。爛れたような患部が怖い。放っておいたら、こんなになってたのか。
「さて、患部に薬を塗るよ。まずは消毒」
エタノールがツンと鼻を突く。冊子を鞄へしまいながら、将来、涼介さんがお医者さんになったら、と取り留めなく考えた。
こんな風に『若先生』になるんだろうか。そしたらここで紹介状とか書いてもらって、堂々と会いに行けると思っていいのかな。動機が不純すぎてダメかな。
病院傍のドラッグストアで買ったマスクを早速装備し、大学へ向かう。講義までは時間があるから、図書館と生協へ寄っていこう。
学内を見渡すと、寒さのせいか風邪(予防)でマスク着けているらしい人が結構多い。自分のマスク姿が浮くことはなさそうで、少し安心。
規則正しい生活・早寝早起きを心掛けて、一応、深夜のドライブも自粛しよう。寒い夜のドライブって、なんだかわくわくして好きなんだけど。
そうして幾日かを過ごすうち、マスクで顔の半分を隠すことは非常にラクだと気付いてしまった。
何より化粧がラクだし、表情を作らなくてもいい。ラクなのはいいけど、それより早く治ってほしいな。
お風呂上がり、湯気で曇る鏡を睨みながら洗面台のリップクリームを手に取る。この間買ったばかりの、ほとんど新品。
若先生から『リップクリームにウイルスが付着しても大丈夫』だとは聞いているけど、こればかりは気持ちの問題だ。
念のため、蓋に『ヘ』と油性ペンで書いておいた。ヘルペスの症状が出ている時だけ使うように、自分以外の家族が使わないように。
「りょーすけさんっ!」
およそ十日ぶりに訪れた、いつもの駐車場。白いFCの傍らに〈彼〉を見つけ、夢子は喜び勇んで駆け寄っていく。
どうぞ見てくださいと言わんばかり、得意気に自らの唇を指差した。
夢子の意図を汲み取った涼介が、そこへじっと視線を注ぐ。やがて安堵したような声で「きれいになったな」と囁いた。
「涼介さんが気付いてくれたおかげです。ありがとうございました」
深く頭を下げた夢子はがばっと上体を起こし――まじまじと涼介を見つめている。〈なにか〉を期待するような眼差しを受け、涼介がひとつ咳払いをした。
「夢子。俺は今、誘われていると捉えていいのか」
肯定の意味を含ませ、夢子がそっと瞼を伏せる。それから間も無く、あたたかくてやわらかい唇の感触を、私は確かに感じた。…………おでこに。
まったく意味がわからない、といった表情を浮かべ、両手で額を押さえる夢子を見下ろし――涼介は「唇は大切な人のためにとっておくといい」と微笑う。
「私のドキドキ、返してください……」
「期待させてしまったか。すまない」
「涼介さんて、けっこういじわるですよね」
プイとそっぽを向いたふくれっ面の頬に、柔らかな感触。慌てて正面から向き合うと「夢子」と優しく名前を呼ばれた。
「男の前であまり可愛い事を言わない方がいい。〈こういう〉事態を招くぞ」
口を半開きのまま、再び見つめ合うことになる。見下ろしてくる力強い視線に絡め取られて落ち着かない。それなのに、目を逸らせない。硬直した夢子の身体が一度、ぞくりと震えた。
「す、……みません。心臓、口から出そうです」
「それは残念」
にこりと笑んだその顔は、見惚れてしまうくらいに素敵で悔しい。涼介さんて、一体なんなの。こんなにやさしくていじわるな人、見たことない。
ふと、自分自身でさえ気づかぬうちに夢子の唇が開き、零れるように言葉を発した。
「――涼介さん、」
あなたの瞳は、どうしてそんなに、美しくて。それでいて、どこか寂しそうな、哀しそうな色を滲ませて。まるでそこに映る〈何〉も、視ていないかのように――――
名を呼んだきり途切れた声を訝しむように涼介が問う。
「どうした、夢子」
「…………なんでも、ないです」
彼の吐息が柔らかく「そう」と答えた。私は今ここに居る〈彼〉のことを何一つ知らず、解ってなどいないのではないか――不安がちくりと胸を刺す。
「夢子!」
飛んできた大声に顔を上げる。少し離れた場所で、先刻着いたばかりらしい啓介が傍らのFDを指差し「ヨコ乗るか?」と、ひどく魅力的な誘いを投げ掛けてきた。
「の……乗ります!ぜひ!」
わたわたと挙手しながら答える夢子を、啓介がラフに手招く。
一歩踏み出した足を止め――涼介と向き合い頭を下げると、軽く頷いて穏やかな微笑をくれた。それをきっかけに、夢子は涼介へ背を向ける。
自分を待っていてくれる啓介のもとへ駆けながら、夢子は目元を拭った。髪が揺れる。冷たい空気を吸い込む。吐き出した白い息が流れていく。
程無くして後方から聞こえてきた、彼が乗る〈愛車〉の音。徐々に遠くなっていくのは、物理的な距離だけだろうか。夢子は振り返らない。
額と頬に束の間触れた、熱くて優しい感触を思い出す。きっと忘れることなんかできないだろう。たしかに解っていた。それで〈充分〉だということも。
どきどきと高鳴る胸に気付かないフリをしながら、啓介と向かい合う。
「全開でお願いします!」
「上等だ。後悔すんなよ」
満面の笑みを咲かせて助手席のドアを開ける啓介へ親指を立ててみせた。シートへ腰を落とし、姿勢を正す。
間も無く走り出した黄色いFDの助手席で、夢子は進行方向を見据えている。
「私、後悔なんか、しないです」
夢子の決意を乗せたその言葉はロードノイズに掻き消されることなく、運転席の啓介へ届いた。真意を掴み損ねた啓介が舌を打つ。
「ごちゃごちゃ考えたってムダだな。よく見とけ」
助手席の頷きを合図に、スムーズなシフトアップを受けたFDが伸びやかに加速する。黄色い弾丸が暗闇を切り裂いていくようだ。
「なあ、夢子。死ぬなよ、おまえ」
唐突に放られた啓介の言葉を受けて夢子が目を丸くし、運転席の横顔をじっと見つめる。
「車が好きなら、車で死ぬな」
「…………啓介さんこそ」
「当然」
今、ここで言わなければならなかったのだろうか。夢子が唇を結ぶ。やがて啓介が「よし」と声を上げた。
「そろそろ本気出すか」
「え、あの、じゅうぶん、」
「喋れんならまだ余裕だろ。言っとくけど、アニキはこんなもんじゃねーぞ」
「……涼介さんの隣なんてそんな、恐れ多いです……」
「オレにまかせとけ。しっかり鍛えてやる」
啓介がアクセルペダルを踏み込み、タコメーターの針がぐんと上昇する。
同時にシートへ背中を押し付けられるような、過激ともいえる〈加速力〉を全身で感じ――夢子が唾を飲み込んだ。ここから先は、かなりヤバい気がする。
悪い予想ほどよく当たるものだ。夢子のけたたましい悲鳴が、赤城の山々に響き渡ることとなった。
[熱の華]END.