高崎の自宅から電車とバスを乗り継いで、目指した場所は山奥に在る母の生家。現在は祖母が一人で暮らしている。
夏休み中は長期間家族旅行に出掛けると友達から聞き、羨ましい気持ちもある。もちろん、表面に出すようなことはしないけれど。
両親が忙しいことは、小さい頃から知っているから――家族旅行や遠出を、ねだるようなことはできなかった。
『あなたたち二人だけでおばあちゃんち、行ってみない?』
母からの提案に、最初に手を挙げたのは啓介だった。
『行く!行くよね、にーちゃん!』
『うん、僕も行く。ひさしぶりにおばあちゃんに会いたいし』
夏休み最後の二週間。通っている塾も習い事も、全部休んで出掛けることになった。
目的の停留所を告げるアナウンスが流れる。古びたバスに揺られ、隣で眠り込んでいる弟へ「もうすぐ着くよ」と声を掛け降車ボタンを押した。
村の入口にぽつんと在るバス停では、祖母がにこにこと手を振っている。
「二人とも、大きくなったねえ。迷わないで来られた?」
「うん。母さんが全部書いてくれたから」
ステップから飛び降りた啓介は祖母へ突進し「ばーちゃんひさしぶり!」と抱きついた。
「スイカある?スイカ!」
「ちゃんと井戸で冷やしてあるよ。今年は出来が良くて、とっても甘いんだって」
高い空。広がる田畑。緑が生い茂る夏山。母の田舎へ、兄弟二人だけで来るのは初めてだ。
起床後のラジオ体操から一日が始まる。朝食後は宿題を片付け、家事や畑仕事を手伝い、昼食後は昼寝。起きてから夕方までは遊びに出掛け、雨が降れば一日のんびり過ごす。
夕食。入浴。枕に頭を置いて目を閉じた途端、すとんと眠りに落ちてしまう程の心地良い疲労感。たった数日過ごしただけなのに、二人揃って真っ黒に焼けた。
田舎暮らしを満喫する兄弟が〈彼女〉に初めて会ったのは、暑い日の午後だった。
「ばーちゃん!山、いってくる!」
「いってきます」
「はい、気をつけて。水筒持ったね。日が暮れる前には帰っておいで」
繕いものをしている祖母へ声を掛け、二人で手を振った。
「にーちゃん、山にセミいるかな!つかまえたい!」
「いっぱい鳴いてるから、かんたんに取れるかも」
虫取り網と虫かごを携えた二人はずんずんと山奥へ分け入る。
やがて涼介が「階段だ」と呟いた。行先を見上げると、木製と思しき鳥居。この先は神社だろうか。
「上まできょうそう!」
突然、啓介が階段を勢い良く駆け上がっていく。背後から自分の名を呼ぶ兄の声など耳に入らない。
「いっちばん!」
掛け声と共に、啓介はスニーカーで地面を踏み締める。木々に囲まれた境内を見渡すと社がぽつんと建っており、その軒下に寝そべる一人の〈女性〉が目に入った。
「なあ!ひとりでなにしてんだ?」
啓介の声を耳にした彼女はむくりと上体を起こし、低い声で彼へ問う。
「我が見えるのか」
「おまえ、そこにいろよ。にーちゃん!にーちゃーん!」
啓介から少し遅れ、境内に踏み入った涼介が「一人で先に行ったらあぶないだろ」と弟を窘める。
「見て!女がいる!」
「……失礼だぞ、啓介」
啓介が指差した先。社をぐるりと囲む板張りの回廊に腰掛ける小柄な女性が確かに居た。
浴衣を着ており、外見は中学生か……高校生くらいだろうか。地面には彼女のものと思しき草履が転がっている。
白い肌はまったく日に焼けておらず、血色を感じられない。無地の浴衣も真っ白で――まるで死装束を纏った死人のようだ。
長い髪は白髪かと思えたが、太陽光に照らされて輝くそれを見て初めて銀髪なのだと気付いた。
黒色の瞳は見つめていると吸い込まれそうな深度。思わず視線を外す。それでも彼女の印象は薄れない。
髪にも肌にも色素がまるで存在しないような、奇妙な違和感が纏わりついた。
村で会った人には挨拶をするよう母からも祖母からも言われていたことを思い出し、頭を下げる。
「――こんにちは。僕は高橋涼介、こっちは弟の啓介です」
たかはし、と彼女が首を傾げた。うっかりしていた、母の〈旧姓〉を出した方が早いだろう。
「田中です。結婚する前の、母の苗字」
「成程。見える者に会うのは何年ぶりかのう」
嬉しそうに彼女が笑う。『見える』とはどういう意味か。彼女がここに存在していないとでもいうのだろうか。
涼介の懸念など全く気にしない啓介は彼女の隣へ腰を下ろし、物珍しげに彼女をじっと見上げている。
彼なりに、初めて会う種類の人だということを感じているのだろう。彼女は啓介の顔を見つめ返しながら「母親の名は何という」と問うた。
「かーちゃん、高橋夢子っていうんだ。おまえ、知ってんのか」
「よく憶えている。成程、面影があるな。夢子と初めて会ったのは丁度、ぬしらと同じくらいの年頃だった」
母が自分達と同い年だった頃。その時から〈彼女〉はずっと、ここに居るのだろうか。もしそうだとしたら幼すぎる。彼女は一体――
「いっしょに遊ぼーぜ!」
すっくと立ち上がった啓介が彼女の手を取った瞬間。少なからず驚いたようではあったが、すぐに破顔して「何をしようかの」と草履へ爪先を突っ込んだ。
「セミとりするんだ!」
虫取り網を振り回し、彼女の手を引く啓介の後へついて行く。
社の前に居る、一対の狛犬に視線が吸い寄せられた。いや、これは狐だ。では狛狐とでも呼ぶべきだろうか。
赤い前掛けが目に眩しい。ぴんと耳を立て、じっとこちらを観ているように思えた。
「にーちゃん!早く!」
これから楽しいことしか起こらないとでも言いたげな口調で、啓介が階段から兄を急かす。
「今行く」
狐へ軽く頭を下げ、境内を後にした。
彼女は山のことを隅々まで知っているようだ。
川で魚や蟹を素手で捕まえたり、木登りをしたり、草笛を奏でたり、木の実を摘んで食べたり。思い付く限りの遊びを教えてくれた。
薄暮の頃には「また明日」と手を振り別れる〈友達〉となった。
夕飯の時、祖母へそれとなく聞いてみる。
「このへんって、中学生とか高校生って住んでないんだよね」
「そうねえ。小中学校もあったんだけど、随分前に廃校になったのよ」
「僕らみたいに遊びにきてる子、いるかな」
「お盆の頃に来てたみたいね。バス停からすぐのところ、鶏舎があるおうち。たしか、お孫さん高校生よ。男の子」
「そうなんだ」
「年の近い遊び相手がいなくて退屈でしょう」
「……ううん。楽しいよ」
友達ができたことを、打ち明けられなかった。
彼女と過ごした数日で、兄弟は木登りが得意になった。それから、食べられる木の実を見付けるのが上手になった。
甘酸っぱいもの。渋いもの。宝探しのような気分で山を駆け回る。
戦利品を分け合っていると、啓介が思い出したように「おまえ、ホタル見たことあるか?」と声を上げた。
「ああ。暗くなればあちらこちらで光っているぞ」
「ここでも見れんだ!いーなあ!」
「蛍など、別段珍しいものではないと思うが」
不思議そうに赤い実を頬張る彼女へ、涼介が付け足す。
「うちの近くじゃ見られないから。ホタルって、水がきれいなところじゃないとすめないんだって」
「確かに、この辺りの水は旨い」
「水がおいしいって、川がすごくきれいってこと?」
「そうだね。山奥だと、あんまり人が来ないからかもしれない」
「へえー。おれも見てみたいなあ、ホタル」
「日没後にぬしら二人だけで来てはいかんぞ。夜目が効かぬ故、危険だ」
頷こうとした途端、啓介が呆れたように「おまえ、かーちゃんみたいだな」と言い放つ。
彼女は俯き肩を震わせていたが堪えきれずに吹き出し、腹を抱えて笑い転げた。
「我が母親か。考えた事も無かった」
てっきり否定されるとばかり思っていた二人は顔を見合わせ、つられたように笑いだす。
「――ほれ、ぬしらは暗くなる前に帰れ」
「おー!じゃあな!」
「また明日」
彼女へ手を振り別れてからも、啓介は蛍のことばかり話した。昨夜見たテレビ番組のせいか、とても気に入っているようだ。
「ただいま」
「ただいもー!」
「おかえりなさい。お風呂沸いてるから入っておいで」
母が小さい頃、浴槽は五右衛門風呂だったと聞いた。入ってみたかった、と少し残念に思う。もちろん、スイッチ一つで湯を張れるのは便利でいいんだけど。
啓介の髪を洗ってやると「おれ、やっぱホタル見たい」と呟いた。
「……夜は危ないから。出かけてもいいか、おばあちゃんに聞いてみないと」
「ばーちゃん、きっとダメって言う」
うん、と涼介が頷く。啓介にも判っているのだ。泡をざっと流してやると頭をぶんぶん左右に振り、まるで犬のように豪快に水を切る。
風呂から上がってからも、夕飯の時も。啓介の身体がそわそわと小さく揺れているのが視界に入っていた。
ただ啓介に落ち着きがないのはいつものことなので、祖母に怪しまれることはなかった。
一晩眠れば少しは治まるだろう。しかし布団に入ってからも啓介は諦めない。ひそひそと声を潜めて涼介へ話し掛ける。
「にーちゃん、おねがい。ホタル見たらすぐ帰るから」
「…………少しだけだからな」
結局、涼介が折れるかたちで懐中電灯一つを手に、二人はこっそりと祖母宅を抜け出した。
暗い山へ深く分け入るのは、やはり怖い。二人そろそろと歩を進め、ようやく川辺へ辿り着く。
「ホタル、いないのかな」
「明るいから見えにくいのかもしれない。消してみようか」
懐中電灯を消すと、自分自身すら闇に塗り潰されたように視界が黒く染まる。明るいものは月だけだ。
あ、と啓介が声を上げる。頼りなげに飛び、ひかひかと小さな光を放つ幾つもの命がそこに在った。
「すげー……」
「こんなにたくさん見られるなんて思わなかった」
「あいつにも見せたいね。きっとよろこぶよ」
ぽつり、啓介が呟く。涼介も同じ思いだ。
「うん。でももう遅いから、明日話そう。早く帰らないと、おばあちゃんが心配する」
俯き、懐中電灯の明かりを点ける。足元だけを照らす円い光は心もとないけれど、今はこれだけが頼りだ。
「――にいちゃ、」
足元の草が擦れる音、自分を呼ぶ声が川から聞こえたと思えば途切れ、涼介が振り向く。
伸ばされた啓介の手が幾度か水面を叩いてやがて沈み――とぽん、と水音だけが耳にこびり付く。
明るいままの懐中電灯がすり抜け、地面へ落下した。
啓介が――溺れた?まさか、下流へと流されてしまったのか。覗き込んだだけでは判らない。
穏やかな水の流れ。小さな子供でも底に足がつき、深くない筈の川。天高く掲げた掌をいきなり地べたへ叩き付けたような、容赦の無い冷たい裏切り。
風に揺れる木々のざわめき。涼やかな虫の声。速まる鼓動。震える呼吸。涼介は拳を握り、駆け出した。
辿り付いた駐在所は赤色の門灯だけが灯り、無人のようだ。ミニパトと自転車を横目に、裏手の住宅へ駆け込んでインターホンを鳴らし、ドアを叩く。
「おまわりさん!おまわりさん!」
程無くして、甚平姿の〈駐在さん〉が怪訝そうに顔を出した。制服を着て自転車に乗り、村内をパトロール中の彼に会ったことを覚えている。
「田中さんとこの孫だね。どうしたんだい、こんな遅くに一人で」
「啓介が……弟が、川でおぼれた!見つからないんだ!」
さっと顔色が変わり「君は早く帰りなさい。いいね」と強い口調で言い聞かせた。
間も無く明るくなった駐在所で、受話器へ怒鳴るように声を上げている。
「そう、消防団も!役場から迷子放送!」
駐在所に背を向け、涼介は再び走り出す。もしかしたら、彼女なら。少しだけでも可能性があるものは全部、掴みたいと思った。
今まで徒競走だって、リレーだって負けたことなかった。だけど今はゴールが見えない。心細く挫けそうなところへ、向かい風が強く吹いてきた。
涼介が足を止める。社を目前に〈彼女〉が姿を現したことに気付いたからだ。暗い山中で白い彼女をはっきりと視認出来、ほっと安堵する。
彼女はずかずかと涼介へ近付き「この時刻に一人で山へ入るとは。命が惜しくないか」と一喝した。
それに怯むことなく、啓介が川で溺れたと伝えた。まるで、底に居る〈誰か〉に引きずりこまれたかのように。
周囲の空気がざわりと震えたようだ。肌が粟立つ。彼女の鋭い眼光が月に煌めき、今ここで心臓を射貫かれるのではないかとさえ涼介には思えた。
「ぬしは帰れ。家人が心配しているのが分からぬか」
「――やだ!僕もいっしょに探す!啓介は僕の弟だ!」
「聞き分けい。……どれ、狐火をつけてやろう。ぬしを導き、迷わんように」
彼女が指を揺らめかせた途端。手品のように橙色の炎が空中に灯り、涼介の眼前に浮かんだ。温かく優しい光に、僅かに心が落ち着く。
涙を堪え唇を結ぶ涼介の頭頂部に、そっと彼女の掌が乗せられた。
「心配無用。家で弟を待っていろ。ぬしに今、出来る事はそれだけだ。良いな」
「……わかった。ぜったい、啓介を助けて。約束」
「ああ。任せておけ」
ふわふわと漂う狐火を追って下山する涼介を見送り「川であれば、奴か」と独り言ちる。
爪先で地面を蹴り、宙に舞う彼女がしなやかに身を翻すと――たちまち〈人〉から〈狐〉の姿となった。白い狐が風を切り、空を駆ける。
他者から頼られるというのは良いものだな。知らず知らずのうちに彼女の表情が緩む。
探し人の匂いを追っていると、悠々と地を這う者がひとり。予想通りの相手である。
「待て」
上空からの制止を受け、彼女を振り仰いだのは水神・蛟(みずち)。狐と同じくこの辺りを根城にしているが、普段は遭うこともない。
蛇とも竜ともつかぬ形容し難い姿は、百年前に会った時と変わっていない。――いや、以前と比べれば、体格はやや小さくなったか。
蛟はどうやら川で捕えた〈獲物〉を棲家へ持ち帰ろうとしているようだ。
胴体をがっぷり咥えられた啓介は全身ずぶ濡れで微動だにしない。両腕をだらりと垂らし、指先からは水が絶え間なく滴り落ちている。
ヒトはこれだけの事でも容易に命を落とす。気を失っているだけであれば良いのだが。脳内を巡る思案を捻じ伏せ、狐は声を発した。
「どうするつもりだ」
「見れば解るだろう。これ程強い陽気の塊、放っておけん。小者共に喰わせるには惜しい」
「させぬ。小僧を寄越せ」
「断る、と言ったら」
「我と一戦交える覚悟が在るか。撤回するならば見逃してやっても良いぞ」
急降下し地面をぐっと踏み締めた彼女は、蛟へにじり寄るように歩を進める。対峙した蛟は全身に嘲弄を滲ませた。
「ヒトに肩入れするか、貴様」
「存外悪くない。我等と違い脆弱で、生涯はひどく短いがの」
「下らん。そんなモノ、餌と同義だ。放っておけば勝手に殖える」
「ヒトなど喰らわんでも生きてゆける蛟が何故、それを攫う」
「答える必要は無い。……崇められ、祀られている狐には解るまい」
「ああ、解らぬ。我の短気は承知だな。ここで散るか退くか、即刻選べ」
刹那、巻き起こった突風に全身を包まれ――自分が狐の怒りを買ったのだと気付いた時にはもう遅い。
今の妖力で己に勝ち目など無いことは明白だ。このままでは抵抗など微塵も許されず、ただ嬲り殺される。蛟の本能が警鐘を鳴らす。
「俺の敗けだ、狐。小僧は放す」
ふっと風が止んだ。自らの言葉通り、蛟が啓介を川辺へ横たえる。そこへ近付く狐は「悪戯は余所でやらんか」と苦言を呈した。
「貴様と同様、俺もここら一帯を気に入っているのだ。出て行く気はない」
川へどぼりと飛び込んだ蛟は、やがて水と融け合うように姿を消した。勝手な奴だ、と苦笑が漏れる。
啓介へ鼻先を寄せてみるが、呼吸は一定で、出血や怪我をしている様子もない。体温も下がってはおらず、子供特有の温もりを保っているように感じられた。
「眠っているだけとは。図太いものだな」
行くとしよう。待っている者との約束を果たすために。啓介を抱え、狐が跳ねる。
上空から山を見下ろすと、川に沿って灯りが列となっていることに気付いた。その他にも多数点在している。啓介を探す消防団の男達が口々に名を呼んでいる。
「皆、ぬしを心配しているのだぞ。早く帰らねばな」
陽気の塊。蛟はそう言っていた。確かに、明々と燃える太陽を抱いているようだ――狐は風に尻尾をなびかせて悠然と笑った。
狐火に導かれるように下山した涼介は、目の前に浮かぶそれだけをじっと見つめていた。
風で揺れても消えることはなく、手を近付けても熱くない。一体何でできているのか不思議だ。
祖母宅の敷地に入り、玄関前で「ありがと」と小さく礼を言うと、それは一度揺らぎふっつりと消失する。
宅内へ上がり込み、僅かに開いている仏間の襖を滑らせると、祖母は仏壇に――祖父の遺影に手を合わせ念仏を唱えていた。
「……ただいま」
丸く小さな背中に声を掛けた途端、転げるように祖母が駆けてきた。
「涼介!啓介は……」
「……川で、おぼれて。おまわりさんのところに行ってきたんだ」
「そうだったの……。今、消防団も出てくれて……。ああ、ずいぶん汗かいたのね。お風呂、沸かし直したから入りなさい。タオルと寝間着は出しておくから」
一度頷いて浴室へ向かうと、ガタガタと家中の窓ガラスが震えた。また風が強くなったのだろう。
風呂上がりの涼介が再び仏間を覗くと、祖母はじっと仏壇の前に座っている。その背後で畳へ正座し、深く頭を下げた。
「夜、二人だけで山に行って、ごめんなさい」
「今は啓介を待ちましょう。さ、あなたはもう寝なさい」
有無を言わせない口調に従う他なかったが、布団に入ってもやはり眠れず、寝返りばかりを繰り返す。
それでも微睡み始めた時。とんとん、と誰かが控え目に玄関を叩く音が耳に入った。風の音でも、聞き間違いでもない。彼女だと確信した。
布団を剥いで飛び出した涼介が引き戸を開けると、そこには啓介が俯せで倒れている。
「おばあちゃん!啓介、帰ってきた!」
涼介の大声に、祖母が玄関へ駆け付けてくる。
上がり框へ啓介を横たえると、全身濡れてはいるが熱はなく、怪我もなさそうだ。むにゃむにゃと寝言らしきものを口中で転がし、ぐっすりと眠っている。
しかし啓介をここまで運んで来た者が見当たらない。きっと彼女が助けてくれた、約束が果たされたのだと思うと涙が出そうになり、涼介は唇を噛む。
「お風呂に入れてあげようか。涼介、手伝ってくれる?」
祖母と二人で啓介を抱きかかえて浴室へ運び、手早く湯浴みをさせる。このまま起きなかったらどうしよう――脳裡を一瞬不安が過ぎ、涼介は頭を振る。
啓介に寝間着の浴衣を着せ布団へ寝かせると、二人でようやく人心地ついたように溜息が零れた。
「そうだ、駐在さんに連絡しないとね。お医者さんにも」
慌てて電話へ走り寄り、受話器を手に何度も頭を下げる祖母を見てずきりと胸が痛む。
「お医者さんは朝来てくれるって。涼介も早く寝なさい」
「……あのね、」
彼女のことを話そう、涼介が決めたその時。屋外スピーカーと、台所に設置している受信装置から同時に軽やかなチャイムが響き渡る。
『村役場からのお知らせです。先程放送した迷子の高橋啓介君は、無事、保護されました。繰り返し、お知らせします……』
「そういえば、誰がつれて来てくれたのかしら」
ゆっくりと話すアナウンスを耳にし、ぽつりと漏れた祖母の疑問に、涼介は真正面から向き合った。
翌朝。目を覚ました啓介の視界に映ったのは、自分を覗き込む祖母と、白衣を着た中年男性。上体を起こすと、消毒薬のような臭いが鼻を掠めた。
「おはよう、啓介君。昨日、川で溺れたんだって?」
「だれが?」
「……君が」
「へ?おれが?」
「昨日、涼介君と蛍を見に行ったっておばあちゃんから聞いたよ」
「あ!ホタル見た!すっげーいっぱいいた!」
「うん、山で蛍を見たんだね。それで、川に落ちたことは覚えてないかな」
「落ちてないよ。おれ元気だし」
啓介の言葉を受け訝しげに体温や血圧を計り、視触診を行った彼は「健康そのものだね」と苦笑した。
「問題ないみたいだけど、今日は一日おとなしくしていようか」
「えー、やだ!おれ元気だってば!」
「念のためだよ。様子を見て問題なければ、明日から遊びに行ってもいいからね」
「啓介。お医者さんの言うことはきちんと聞くものでしょう」
「……ちぇ。わかったよ、ばーちゃん。おれ、今日は家にいる」
「ええ。いい子ね」
むくれた啓介の頭を撫で、祖母が立ち上がる。
「早くからありがとうございました」
「いえいえ。何かあったらすぐ連絡ください。お大事に」
大きな往診鞄を手に、医師は隣村へと戻っていった。
「ばーちゃん、にーちゃんは?」
「畑に行ったよ。ほら、朝ごはん食べなさい」
へーい、と生返事で洗面所へ向かう啓介は浴衣を思いきりはだけさせ、もはや布の塊を帯で身体に巻き着けているような状態だ。
昨夜きつくない程度にきちんと着付けたつもりだが、啓介の寝相には敵わなかったということか。もう少し工夫が必要ね、と祖母は一人頷いた。
「涼介」
すっかり手慣れた畑仕事の最中。自分を呼ぶ声に顔を上げると、祖母が勝手口から手招いている。そろそろ昼食の時間だろうか。
祖母に続き勝手口から台所へ上がると、朱塗の一段重箱と日本酒の一升瓶が鎮座していた。
「山で会った女の子のこと、話してくれたわよね。あの子のところへ、これを持っていってちょうだい」
「僕、一人で?」
「おばあちゃんは、もう会えないの。気付いた時には、姿を見ることができなくなって。涼介と啓介が、あの子に会えるなんて思わなかった」
重箱と一升瓶をそれぞれ風呂敷で包みながら、祖母が話してくれた。
ずっと昔から山を、村を守り豊穣を司る存在。社に祀られている狐――いや、ひとのかたちをした〈狐〉のことを。
彼女はやはり〈人〉ではなかったのだと聞かされ、驚きはしなかった。涼介はただ理解した。
「お酒は飲んじゃだめよ。水筒に麦茶を入れたからね。帽子も忘れないで」
「はーい。いってきます」
出掛ける前に啓介の様子を覗くと、うとうと微睡んでいるようだ。このままおとなしくしていればいいのだけど。
山へ入ると、探す間もなく彼女が現れる。うきうきと楽しそうな雰囲気を漂わせていると感じた。
「僕が来ること、わかってたの?」
「稲荷寿司と酒の、旨そうな匂いがしたのでな。待ちきれんかった」
涼介が持っている重箱と一升瓶を軽々持ち上げ「勿論ぬしの匂いも、判っていたぞ」と嬉しそうに促した。
階段を上り辿り着いた境内は初めて来た時と同じように暑く明るく、濃い緑色が茂っている。
回廊に腰掛け、麦藁帽子を傍らに置くと彼女が「弟はどうしている」と問うた。
「だいじょうぶ、元気。でも今日は寝てなきゃだめだってお医者さんに言われて。きっとたいくつしてる」
「だろうな」
二人同時に、苦笑を滲ませた笑みが漏れる。
「これを返しておこう」
彼女が懐中電灯を差し出した。受け取ったそれには、啓介の字で『たかはしけいすけ』と記されている。
昨夜、涼介が川縁で落としたものだ。すっかり忘れていた。
「……啓介を助けてくれて、ありがとう」
「なんの。ぬしも無事で良かった。夜間、子供だけで山に入ってはいかんぞ」
「うん。もうしない」
背負っていたリュックへ懐中電灯をしまう。
彼女がどこからか取り出したのは湯呑み程の大きさの、白磁の盃。素朴な佇まいで、彼女の掌によく似合っていた。
きょろきょろと辺りを見回した涼介が「とっくり、ってないの?」と、一升瓶を包む風呂敷を解き始めた彼女へ問う。
「ああ、いや……普段はその……ラッパ飲み、というやつでな。行儀が悪い、という事は承知しているのだが」
きまり悪そうに肩をすくめた彼女はいそいそと一升瓶の封を切り、香りを楽しんでいる。
「僕がついであげる」
涼介が両手で一升瓶を受け取ると「ぬし一人では重かろう」と彼女の手が添えられた。二人でゆっくりと注ぐ。澄み切った液体でとくとくと盃が満たされていく。
「では、有難く頂こう」
顔の高さへ盃を掲げ、涼介へ微笑んでみせたかと思えばたちどころに一杯を飲み干し溜息を漏らした。
涼介が重箱の蓋を開けると彼女も覗き込み「こちらも旨そうだな。ぬしも食え」と勧めてくれる。
昔は幾人もの参拝客がここを訪れ、こぞって〈狐〉へ稲荷寿司を供えた。その中でも、田中家の作るものが一番旨かったのだそうだ。
重箱に詰められているのは稲荷寿司、漬物、煮物、卵焼き。彼女へ渡した一膳の箸は、迷うことなく稲荷寿司を選んだ。
涼介も「いただきます」と稲荷寿司へ箸を伸ばす。祖母が箸を二膳持たせたのは、供えるだけでなく一緒に食事をしてくるように、という意味があったのだろうか。
「……ねえ。本当に……きつねなの?」
「ああ。驚いたか」
頷いた彼女は稲荷寿司を嚥下し、続いて胡瓜の漬物をぽりぽりと齧る。
しばし考えていた涼介はやがて首を振り、思い付いたように「きつねだからやっぱり、おいなりさんが好き?」と訊ねた。
「好きだが、我は何でも食べるぞ。そもそも狐は肉食の筈だ。他者を狩り、食べて命を長らえる。ぬしも、生物を食べるだろう」
魚や肉を――〈命〉をいただくことへの感謝。
「……人も、食べるの?食べたことある?」
「ああ。数百年ほど前だったか。山中で行き倒れた者を弔いがてらな。生きている者を襲うような事はせんかったが」
「今も……人を食べたいと思う?」
「いや。我等はモノを喰わずとも空腹を感じないのだ。食事は道楽だな。食物としてはこちらの方が断然旨いぞ」
稲荷寿司と漬物に続き、彼女は卵焼きを一切れ頬張る。祖母の作る卵焼きはしっとり黄色く、ほんのり甘い。
「ぬし、夢子の作る稲荷寿司を食べた事はあるか。あれも旨い、我の好みだ」
「……母さんはいそがしいから。家のことは全部、お手伝いさんがやってくれてる」
「左様か。味が途絶えてしまうのは実に惜しいのう。夢子に習い、ぬしも作れるようになれ」
「うん。帰ったら、母さんに聞いてみる」
「良い良い。子は素直が一番だ」
「僕、もうこどもじゃないよ」
「それはすまんかった。ではぬしも飲むか」
悪戯っ子のような笑顔を浮かべた彼女から向けられた盃へ恐る恐る鼻を寄せると、嗅ぎ慣れない酒の香りが鼻腔から脳天を貫く。
左右に首を振り「そこまでは大人じゃないみたい」と否定した。
「早く大人になりたいと願うか」
頷く涼介を横目に、盃をぐいと飲み干した。
「我の姿は直に見えなくなり、いずれ忘れる。それが、大人になるという事だ。これまで見える者は皆、そうしてきた」
「母さんも?」
「ああ、ぬしくらいの頃は毎日のように我と戯れたものだ。高等学校を卒業する頃、一人で村を出てな。それから暫く会えんかった。
嫁入りの頃、男とここへ挨拶に来た事があってな。二人で酒と稲荷寿司を供えてくれたが、我の姿は見えんかったようだ。
我はずっとここに、社の軒下に居たのだが。その何十年か前にも同じ事があった。ぬしの祖母にあたる者だろう。ヒトとはそういうものと、我は理解している」
忘れられることが、あたりまえなんて。僕は忘れないのに。
「ここに来る前、おばあちゃんが会いたいって言ってた」
「我の事を憶えているか。嬉しいものだ。継がれる血のせいか……見えやすい血があるのだろうな」
「僕のご先祖様はみんな、見えてたの?」
「見える者とそうでない者が居る。ぬしの母親と祖母の前には随分、見える者は居なかったのう」
僕の何代前のご先祖様だろう。おばあちゃんに聞いたら、知ってるかな。話してくれるかな。
「ぬしが酒を旨いと思える頃には、我の事など忘れているかも知れん。ヒトは我等と違い、忙しない生物だろう」
「……忘れられるって、さみしくないの」
「さみしい、か。そうだな。ぬしらに会うまで久しく忘れていた」
四季の移ろいを共に感じ、生まれ死んでいく生命を見守る。ヒトは脆く、儚く、美しく、愛おしい。狐が何百年生きようとも決して変わらぬ真理であった。
「ぬしが子を連れて来る時が楽しみだな。きっと、ぬしに似て聡明な子であろう」
「僕が結婚して子供が生まれて……?そんなの、まだずっと先だよ」
「なあに、ほんの数十年だ。我にはちいとも遠くない」
通り抜けた風に少しだけ、秋の気配。もうすぐ夏休みが終わる。彼女が静かに盃を置いた。
「戻って弟の傍に居てやれ。あやつ、寝小便癖が治らんうちは頼りにならんのう」
「……啓介がまだおねしょしてること、ないしょにして」
「相分かった。誰にも言わんよ。ぬしと我との約束だ」
「うん、約束。ゆびきりしよう」
差し出した小指に、彼女の白い指が絡められる。
「ゆーびきーりげーんまん、うーそつーいたらはーりせんぼん、のーます。ゆーび、きった」
涼介の声に彼女は目を細め「懐かしいな」と呟いた。誰と約束したんだろう。そっと手を離す。
「僕、そろそろ帰る。お酒、飲みすぎちゃだめだよ」
「ああ。馳走になったな。美味であったと伝えてくれ」
涼介が被り直した麦藁帽子のてっぺんをポンと叩いて彼女が笑う。
歩き出した背中へ「涼介」と声が飛んだ。彼女に名を呼ばれたのは初めてだ――振り返ると見つめられていることに気付き、どきりと心臓が強く動いた。
「ぬしら兄弟の心は強く結ばれ、替わりは居らん。これから先、歩む道が異なろうとも互いを大事にせい」
「……僕は、絶対忘れない!また来るから!今度は僕が、おいなりさん作って持ってくる!」
有難う。彼女の唇がそう動いたのは、きっと見間違いではない筈だ。
空になった重箱は随分軽い。涼介は風呂敷包みを振り回すように祖母宅へ駆けていく。
「ただいまっ」
「おかえりなさい」
「おいしかった、って言ってたよ。僕もいっしょに食べたんだ。ごちそうさま」
重箱を受け取った祖母は柔らかい笑みを浮かべ「ありがとうね」と頷いた。
「啓介が飽きちゃったみたいで、手に負えないのよ。相手してあげて」
啓介の布団周辺は今朝より随分散らかっている。チラシの裏に落書きしたり、紙飛行機を作ったり。啓介なりに退屈を紛らわせようとしていたのだろう。
涼介が「ただいま」と声を掛けると、寝転がっていた啓介はぴょんと飛び起き満面の笑みをこちらへ向ける。
「にーちゃんおかえり!遊びに行こ!」
「今日はおとなしく寝てないとだめだって、朝お医者さんに言われただろ?言うこときかないと、いたーい注射されちゃうぞ」
注射と聞いた啓介は真顔で口を噤み、おとなしく布団に身体を横たえる。
涼介は枕元に放られた絵日記やドリルを手に取る。ドリルはまだ手つかずのページが多いが、絵日記は毎日きちんと書いているようだ。
セミを取ったこと。スイカを食べたこと。畑で草取りをしたこと。大きなミミズを掘り当てたこと。木登りをしたこと。
意外なことに、どこをめくっても〈彼女〉のことは書かれていなかった。好都合といえる。
「啓介。あのひとに会ったことは、二人だけのひみつにしよう。できるか?」
「わかった!おれと、にーちゃんだけのひみつ!ばーちゃんにも、かーちゃんにもとーちゃんにも、だれにも言わない!」
目をキラキラ輝かせて頷く弟とゆびきりを交わす。
まあ、話したところで誰も信じてはくれないだろう。子供の空想、戯言と取られるだけだ。
彼女が言ったように、自分達はいずれ彼女のことを忘れてしまうのだろうか。
眠ってしまった啓介に、ガーゼ地のタオルケットを掛けてやる。寝相が悪いから、きっとすぐに蹴飛ばしてしまうだろうけど。
ねえ、母さんは狐に会ったことを覚えてる?おいなりさんとお酒が大好きで、子供みたいに笑うんだよ。
人のかたちを取っているのに、時々、耳や尻尾が出てきちゃうんだ。白くてきれいな大きい耳と、ふさふさで何本もある長い尻尾。
『田中家の孫が狐を見た』という話は、狭い村中をあっという間に広がった。
村人やその血縁者から〈見える〉者が出ることは、村にとってとても縁起が良いらしい。
訪れる人達は野菜や鶏卵などを兄弟宛に持参し、食事の際に少しで良いから口にしてほしいと申し出た。
「夢子ちゃん以来か。やっぱり、継いでたんだなあ」
仏壇へ手を合わせ、昔馴染みの郵便局員が呟く。
社へ訪れる者も多くなったと聞いた。賑やかになって、彼女が喜んでくれているといいと涼介は思う。
啓介の一件以来、梅雨のようなしとしと雨が数日続き、外へ遊びに行くことは出来なかった。
「あいつ、元気かなあ。おれらに会えなくて、さみしくないかなあ」
「平気だよ、きっと。ほら、ドリルは全部終わらせてくるって母さんと約束しただろ。もうすぐ夏休み終わっちゃうぞ」
「にーちゃん、教えて」
「自分で解いて、分からないところだけ」
「……けち」
鉛筆を噛み噛みドリルを睨む啓介へ「また二人で来ようか」と投げ掛けると、顔を上げて大きく頷いた。
「ゆびきり!」
テーブルを挟んで互いに手を伸ばし、ゆびきりげんまん。誰かと約束するって、嬉しいことなんだな。
兄弟が高崎へ帰る日。天候が心配されたが、朝からすっきりと晴れた。祖母が台所から声を掛ける。
「そろそろバス停へ行こうか。二人とも、忘れ物はない?」
「へーき!ドリルも全部やった!」
「おや、偉い偉い。これ、お昼に二人で食べなさい」
祖母から受け取った包みに鼻を寄せていた啓介が「おいなりさんだ!」と歓声を上げる。
「おれ、ばーちゃんのおいなりさんだいすき!すげーうまい!」
「僕も好き」
「そう言ってもらえると嬉しいねえ。簡単だから、夢子と一緒に作ってみたらどうだい」
「でもかーちゃん、料理しないからなー。練習したら、おれのほうがぜったいうまくなるよ!」
「楽しみだねえ。そうだ啓介、トイレは済ませたの?行ってきたら?」
「うん!」
バタバタと走る啓介を見送った祖母は、膝をついて涼介と目線を合わせ、両手を握った。
「涼介。あなたはお兄ちゃんだから、我慢することもあるだろうけどね。誰にも遠慮なんかしなくていいのよ。言いたいことがあるなら、きちんと伝えなさい」
皺ばかりで小さな祖母の掌は優しく、橙色の狐火を思い起こさせて何故か鼻の奥がツンと痺れた。
泣きそうだけど、泣いちゃいけない。お兄ちゃんだから。涼介は唇を真っ直ぐに結び、一度だけ頷いた。
赤い前掛けの地蔵が建つ祠の隣、村の入口のバス停。一日数本しか運行していない、市街地へ向かうバスがやって来た。客は乗っていない。
ここへ来た時と同じ、古ぼけたバスに乗り込んだ二人は最後列へ、靴を脱いで上がり込んだ。
膝立ちで後方を見ていると間も無くバスが発車し、手を振る祖母がだんだん遠ざかっていく。
大きく振り返していた涼介の手が止まる。山の頂上に光を見たのだ。まるで〈彼女〉が身体を翻したように、視界の端でほんの一瞬。それは確かに白く煌めいた。
ふ、と涼介の唇に笑みが浮かぶ。再び、祖母へ手を振る。
帰ったら、母さんにおいなりさんの作り方を教わろう。誰にも負けないくらい、おいしいおいなりさんを作るんだ。
そしたらきっと、また来年。おいなりさんを持って、彼女に会いに行こう。その次の年も、次の次の年も。
彼女のことをずっと忘れたくないから。僕のことを――僕らのことを、ずっと覚えていてほしいから。
「啓介。帰ったらいっしょに、おいなりさん作ろうか。母さんに習ってさ」
「作る!おれ、ぜったいうまいの作るから!」
祖母の姿がすっかり見えなくなるまで。涼介と啓介はずっと、手を振り続けた。暑い夏を終わらせたくない、そう思ったのは初めてだった。
[白狐朱夏]END.