『もしもし田中!急で悪いんだけど、今夜のシフト交代してくれないか?0時までには店出れるようにするからさ』
混雑する学食で遅めの昼食をかっ込む最中にかかってきた電話は、ゼミの先輩からだった。夢子は携帯片手に咀嚼を急ぐ。
深夜勤はやったことないけど、やることはいつもとそんなに変わらないだろうし……。
もともと居酒屋でのバイトを紹介してくれたのも先輩だし、べつに断る理由もないかな。頼みとご飯を一気に飲み込んだ。
「明日は講義午後からなんで、大丈夫ですよ」
『ホント、田中様に感謝するわ。まかないスペシャル奢るからな』
「やった。先輩料理上手だから期待してます」
『まかせとけ。じゃ、あとで』
通話を終えると、丸テーブルの向かいから「夢子、今日ラストまで入るの?始発帰り?」と疑問が飛ぶ。
「や、0時までには終わらせてくれるって。終電余裕」
「駅前の居酒屋だっけ。あそこチェーン店じゃないし、行ったことないんだよね。個室あるー?」
「あるある。女子会プラン充実してるし、打ち上げとか合コンでも使ってよ」
鞄から取り出したチラシ入りポケットティッシュを、友人二人へ手渡す。
「夢子ってマメだよね。店のティッシュ、いっつも持ち歩いてるし」
「でもティッシュってけっこー使うし、もらえるとラッキー。ありがとー夢子」
「いやいや。ティッシュ欲しかったらいつでも声かけて。何個でもあげるから」
「そんなにたくさんいらないー」
「かさばるからね。ほら夢子、早く食べないと生協寄る時間なくなるよ」
慌てて食事を再開する夢子を横目に、友人達はパンフレットを広げた。行先も日程も未定の、立ち上げたばかりの旅行計画。
どこに行こう、楽しみだなあ、なんてのんきに考えていると飯粒が気管に入り、思いっきりむせて咳き込んだ。
初めての深夜勤は週末のように混むこともなく、ほどほどの忙しさだったと思う。先輩が言うように日付が変わる前には退店できた。
駅前のレンタルショップへ立ち寄り、自宅の最寄駅に着くと既に1時を過ぎている。通りを行き交う人も少ない。人目をはばかることなく、大きなあくびをひとつ。
こんな遅い時間に帰るのは初めてだけど、自宅までは駅から歩いて5分くらいだし……なにか甘いものでも買っていこう、とコンビニを目指す。
入店とほぼ同時に「いらっしゃいませー」が二つ上がった。
今日発売の雑誌はもう並んでるかな。日付が変わった頃に入荷されるんだったっけ。雑誌コーナーへ足を向ける。
男性とすれ違った直後、金属音がチャリンと後方で鳴った。振り返ると鍵らしきものが床に落ちている。
しゃがんで拾い上げると、可愛らしい女性キャラクターがデザインされたキーホルダーに鍵が二つ付けられていた。
「すみません、落としましたよ」
つい先程すれ違った〈落とし主〉と思しき男性へ声を掛けるが、ヘッドホンをしているせいか聞こえていないようだ。
出入口へ向かう男性へ駆け足で近寄り、背中をポンと叩く。彼は驚いたように振り向き、ぎこちなくヘッドホンを外して夢子を凝視した。
「どうぞ」
落し物を手渡すと彼は「……どうも」と小声で礼を言いながら受け取り、足早に店外へ出ていった。
週刊誌をパラパラと立ち読みし、お菓子や飲料の新商品をチェックし、厳選した一点のカップスイーツを購入。
明るいコンビニを後にし鞄から携帯を取り出すと、友達からメールが届いている。
『起きてたら電話ちょーだい』
受信時刻は数分前。電話をかけるとすぐに繋がった。
通話しながら歩くと心細さが少しマシになる気がした。この場所は駅から遠くないのに、時間帯のせいか誰も通らない。
自宅アパートに到着した夢子は「おやすみ」で通話を終了し、集合ポストをチェックする。
宅配のピザ・寿司・中華、新築物件情報、新聞お試し一週間無料……チラシばっかり。
数枚のチラシを手に、階段を上がる。小さいアパートだから、エレベーターなんてついてない。まあ二階まではすぐだし、特に不便でもないかな。
いつも重たい水とかお米とか玄関まで運んでくれる、配送業者さんには感謝してるけど。
「ただいまー」
誰も居ない部屋に挨拶をするのは、一人暮らしに慣れた今でも少し寂しい。玄関の鍵は、シャチハタ印と一緒に靴箱の上が定位置。
施錠とチェーンを確認し靴を脱ぐと、つい「はあ、つかれた。お風呂入ろ」と独り言が零れる。
コンビニで買った甘いものを冷蔵庫へしまい、浴室の掃除に取り掛かる。
お風呂から上がったらもう寝るだけだし、食べるのは明日の朝にしよう。おいしそうだから楽しみだな。
バススポンジを絞りながら「ほんとは今食べたいけど!」と声を上げると、浴室内に響いて気持ちよかった。
〈それ〉が生起したのは、初めての深夜勤の翌週。いってきます、と一人呟き、ドアを閉めようとした手が止まる。
ドアノブの根本に掛けられている、小さな紙袋に気付いたからだ。手に取り開けてみると、中身は高価そうなアクセサリー。
誕生日や特別な日ではないし、サプライズでプレゼントされる心当たりはない。カードやメモの類もなく、一体誰からの贈り物なのか判らなかった。
「あ、時間」
そろそろ出なければ、いつもの電車に間に合わない。元通り戻して袋ごと靴箱に置き、ドアを閉める。鍵をかけて施錠を確かめ、駅へと急ぐ。
構内で会った友達や先輩達に聞いてみても、誰も知らないようだ。
「いらないならちょーだい」とか「使わないなら売っちゃえば?」とか、みんな特に気にしないようだった。
自宅からなにか盗まれたならともかく、贈られたからと警察へ届けるのはおかしい気がして、クローゼットにしまい込む。
どこかの誰かからのプレゼントは、その後も続いた。
ブランドのロゴが入ったものだったり、白色無地だったり、ドアノブに掛けられている袋の種類や大きさはその時々で異なっていた。
中身を確かめることもなく段ボールに放り込み、僅かな不安と共に蓋を閉める。
深夜、インターホンが鳴ることもあった。どこかのヤンチャ坊主の仕業、いたずらピンポンダッシュだろうと気にしない振りを続けた。
今夜はまだ眠くないな。もう少し起きていようか。床に積んでいた本を消化するべく手を伸ばした時、テーブルで携帯が震えだした。
『夢子、遅くに悪いな。今、平気か』
「あ、豪くん。明日は講義午後からなんだ。まだ眠くないから大丈夫」
出てみると、数少ない〈男友達〉からだ。電話の向こうは少しざわついている。
どこに居るのか問うと、歯切れ悪く『湯河原のあたり』とだけ返ってきた。
何をしているのかしつこく聞き出そうとするが、彼は答えてくれない。やがて根負けしたように『今度連れてきてやる』と口走った。
「ほんと!じゃあ豪くんのひらべったい車、乗せてくれる?」
『ああ、乗せてやるけど……いい加減、覚えてくれてもいいだろ。NSXのどこが難しいんだよ』
「いやいや、じゅうぶん難しいよ……」
『二外の独語の方が難しいだろ』
「独語は楽しいよ。強くてかっこいいし」
『……強い、ってのはまあ分かるが、格好いいか?』
「かっこいいよ。で、仏語はなんかフワフワして優しい」
弾んでいた会話がぷつりと途切れた。
♪ピンポ〜ン
唐突にインターホンの呼出音が鳴り、夢子は思わず壁の時計へ目を遣る。午前1時を数分過ぎたところ。
こんな時間に配送業者が来るはずないし、友人なら訪問前に必ず一言くれる。――――〈贈り主〉かもしれない、と不意に思い当たった。
『誰か来たみたいだな。そろそろ切るよ。ごめんな、遅くまで』
待って、お願い、ひとりにしないで。
♪ピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポピンポ〜〜〜〜〜〜ン
携帯を握り締める掌に冷たい汗が滲む。渇いた口中、無理矢理唾液を飲み込んだ。
「……その……いたずら、だと思う……」
『こんな時間に?……まだ鳴ってるよな』
なんでもない、ちがう、助けて、いや、こわい、こわい、言いたいことがぐるぐる回る。喉の奥が詰まったように、言葉が何も出てこない。
『おい夢子。おまえ、オレに何か隠してないか?』
「……なにか、って、なに?」
『オレじゃ頼りにならないって言うんなら、みんなで相談に――』
「やだなーもう、豪くん心配しすぎ。ぜんぜん、大丈夫だよ」
『バカ、意地張ってんじゃねえよ!今行くから、絶対部屋から出るなよ。わかったな!』
「…………わかった」
夢子の声は明るく聞こえたけれど、確かに震えていた。豪は携帯をポケットに突っ込み愛車へ駆け寄る。〈ここ〉から飛ばして、何分かかるだろう。
大学から夢子の自宅へ送ったことがあった。あれは大雨の日だったな。夕方、学内掲示板前で偶然会って、これから帰るところだと夢子が言って。
小さな折り畳み傘しか持っていないようだから、「そんな傘じゃすぐずぶ濡れになるぞ」と脅したんだ。
素直に「送らせてほしい」と言えば良かった。夢子ともう少し、一緒に居たかっただけだった。
三階建てのアパートで、一階は幼児から小学生向けの英会話教室。大家は隣市に住んでいて、あまり会うことがない。
空室だらけの格安物件、現在の入居者は夢子だけだと。夢子が話してくれたことは覚えている。いや――ただ忘れられないだけだ。
運転席に腰を落とし、エンジンを叩き起こす。振動を感じながら小さく舌を打った。こういう時こそ、冷静で居なければならない。
ストーカーだと確信した。表沙汰になる事件は、ほんの一握り。警察は〈なにか〉起きてからでなければ動いてくれない。
住居侵入、暴行、傷害、拉致、強姦、殺人。未遂を含め、なにかが起きてからではどう考えたって遅すぎる。
最寄駅から徒歩で約5分、寝静まる住宅街。マンションと新築住宅に挟まれた、古めかしいアパートに夢子は住んでいる。
建物の前にNSXを停めた豪は、二階――パステルカラーのカーテンが閉ざされた部屋へ視線を遣った。灯りは点いているが、室内の気配は読み取れない。
階段横の簡素な集合ポストは、扉に鍵のかからないタイプ。名入れには、明らかに女性が書いたと思われる苗字。
カーテンの色と合わせて〈女性〉が住んでいることが簡単に予想出来た。ポストから郵便物を抜き取られることも考えられる。
手紙は勿論、携帯電話やクレジットカードの明細、店舗からのダイレクトメールだって個人情報の塊だ。
周囲に視線を巡らせながら階段を早足で上がり、『201』のプレートが掲示されているドアの前で立ち止まった。
目に留まったものは、銀色の細いドアノブに掛けられた小さな紙袋。白色無地で何の変哲もないはずのそれが、妙に引っ掛かる。
以前、夢子から聞かれたことが思い浮かんだ。
『紙袋に入ったアクセサリーがドアに掛かってたんだけど……豪くん、なにか心当たりない?』
あの時、もっと詳しく話を聞いていたら――こんな事には。後悔を捻じ伏せるように唇を結ぶ。
紙袋を持ち、インターホンを鳴らそうとした指先が一瞬途惑う。
携帯を取り出して到着を知らせる短いメールを送り、数十秒程度おいてドアを二度ノックした。
「夢子、オレだ。豪。居るんだろ?開けてくれ」
室内まで声は届いただろうか。息を殺し、気配を探りながら待っていると、チェーンと玄関ドアを開錠する音が聞こえた。
細く開けられたドアから身体を滑り込ませ、鍵とチェーンを手早く閉める。
古いタイプの鍵、細く頼りないチェーン。これでは〈万一の場合〉外部から簡単にこじ開けられてしまうだろう。
携帯を握り締める夢子はなんとか笑顔で居ようと試み、ぎこちない様子で立ちすくんでいる。
「悪い、遅くなった。……大丈夫か?」
「ん、だいじょぶ。でも、ほんとに来てくれると思わなかった」
「オレが行くって言ったんだ。来るに決まってるだろ」
頷く夢子は、豪が手に提げている紙袋を見遣り表情を強張らせた。視線に気づいた豪が「表に掛かってた」と顔の高さへ掲げてみせる。
居室へ引っ込んだ夢子が段ボール箱を抱えて玄関へ戻ってきた。大きさの割には軽そうだ。中には、先程のものと同じような小ぶりの白い紙袋が数点。
それより多く目につく、ブランドロゴの入ったショップバッグの類。ブランド名や袋の大きさから、中身はアクセサリーと推測出来た。
どうしたのかと問うように、夢子と目を合わせる。
「……ドアノブに……」
「これ、全部か」
「……うん……。怖くて、捨てられなくて……ごみとか、出すとこ、見られてたらどうしようって……」
不安げな彼女を目の前にして『実害が出ていなくて良かった』などと言えるだろうか。
「これからうちに来ないか?それとも、どこかホテルでも取るか……。このまま一人でここに居るよりは、安心だと思うぜ」
「……でも……それじゃ、豪くんに迷惑かけちゃう」
「オレはおまえの力になりたいんだ。どんな小さいことでも。だから、迷惑だなんて思わないでくれ」
「…………ありがとう」
強張っていた夢子の表情が幾分和らいだと感じられた。余計なことを考えさせたくなかった豪は「よし」と明るく頷く。
「それじゃ荷物まとめて行こうぜ」
「まとめる、って……?」
「とりあえず一週間、ここに戻ってこなくて済む程度の荷物だ。着替えと化粧品くらいだと思うが……テキスト類はラボに置いてあるんだろ」
「…………ええと、少し待ってもらってもいい?」
「ああ。準備できるまで待つよ」
「あ……ごめん、玄関で。上がる?」
「いや、ここでいい。その……着替えるだろ」
高校時代のものと思しきジャージの上下を豪が指差す。
「ごめん、これパジャマ!」
はずかしー!と言い残し、転がるように走り出した夢子は居室のドアを勢い良く閉め、バタバタと支度を始めたようだ。つい、豪の口元が緩む。
気持ちを落ち着けるように、ひとつ息を吐いた。こっちにも準備がある。何が、誰が必要か。携帯を取り出し、ホテルを一室確保した。
本来であれば〈家〉の力は使いたくない。だが、自分一人で出来ることには限界があることを豪は知っている。
「豪くん」
「準備できたか」
顔を上げると、旅行にでも出掛けるような大荷物を抱えた夢子がしょんぼりと佇んでいる。
「……なんか、思ったよりたくさんになっちゃって……」
「おまえの荷物が多いことは知ってる」
苦笑を浮かべ、パンパンに膨れたボストンバッグを受け取った。
「しばらく不便を強いるけど、必ず解決する。……だから、オレのことを信じてくれ」
「来てくれたもん、信じてるよ」
ドアスコープで玄関前を覗くが、周囲は無人のようだ。
「これ、道具使えば外から中が見えるって知ってるか。取り外して鍵開けたりも出来るんだぞ」
絶句した夢子を見遣り、余計な心配を掛けてしまったことを反省しながらドアを開ける。人の気配は感じられないが油断は出来ない。
鍵をかける夢子を視界に入れたまま、周囲を探るように見渡す。夢子が振り向き、銀色の鍵を豪へ差し出した。
「……いいのか?」
「信じてるって、言ったでしょ?預けておくから、この部屋好きに使って」
「わかった。ありがとう」
一週間。それまでに必ずケリをつける。豪は受け取った鍵をしっかり握り締めた。
アパート全室を対象に、鍵やチェーン、ドアスコープの交換・補強、セキュリティシステムの導入、監視カメラを設置すること。提案直後、大家の承諾を得た。
初期費用負担ゼロで物件の付加価値が上がると話せば、検討の余地はあるだろうと豪は踏んでいた。
後々維持費用が発生することも含め、説明や契約の詳細は他者に任せて現場へ向かう。
夢子がホテルへ移動してから二日も経たないうち、犯人と思しき男の自宅が判明する。
ある夜、彼は夢子の部屋を訪れ、インターホンを何度も鳴らし、ドアノブに〈何か〉下げて、コンビニに立ち寄り帰路についた。その後姿を尾行した。
アパートから1kmと離れていない、ごく一般的な建売住宅に入っていく。実家だろうか。外から見る限り、電気は点いていない。
電柱の住居表示、表札の苗字、建物の外観を写真に収める。幸い、尾行には気付いていないようだった。
男が玄関から入って数分もしないうち、二階の角部屋に灯りが点いた。男の部屋と思っていいだろう。
今のオレには情報が必要だ。正確で、新鮮な情報が。どんな道にもプロフェッショナルは存在する。アンダーグラウンドな世界なら、尚更。
黄昏時、飲み屋がずらりと並ぶ繁華街。裏通りに豪のNSXが停まっている。周辺が賑わうにはまだ早い時間帯ということもあり、人通りは多くない。
約束の時間。助手席の窓が軽く二度叩かれ、直後にドアが開けられる。閉め切っていた車内に外気が流れ込み、生花を思わせる香りが漂う。
鮮やかな紫色、ワンショルダーのロングドレスを翻した〈彼女〉が助手席に腰を落とすと同時。豪が「マエは」と問うた。
「ぜーんぜん。家族含めて超キレーなのよ。交通違反も税金滞納もナシ、優良市民ね」
分厚い〈報告書〉を運転席へ手渡し、眉をしかめて腕を組む。
「職歴ゼロ。専門学校辞めてから5年は自宅にこもってる。外出は週数回、決まって深夜。徒歩圏内のコンビニ数軒をローテ。買物っていうより立ち読み目的ね。
食品なんかの買物は家族に頼むこともあるけど、ゲームとか漫画はほとんどネット通販。しかも父親名義のカードでお支払い。まったく羨ましいご身分ですこと」
男は深夜の外出ついでに、家族に支払わせた〈プレゼント〉を持って夢子のアパートを訪れていたということか。
経歴、住民票、登記簿、カード使用明細、購入履歴、行動パターン、写真等々。短期間でよくここまで揃えたものだと感嘆し、思わず溜息が零れた。
鬼のような形相で書類を読み進める豪の横顔を見遣り、彼女が問う。
「ていうか、アタシに連絡くれるなんてびっくりしちゃった。コネ使うのイヤがってたじゃない。どーしたの」
「なりふり構っていられないんだ。使えるモノは何でも使うさ」
「なぁに、それアタシも入ってんの?」
「おまえをモノ扱いしたつもりはない」
「頼ってくれてるんでしょ、嬉しいわよ。……それにしても、ストーカーなんて女の敵よ、敵。死なない程度にボコってやりたいわ」
鼻息荒く右拳を左手へ打ち付ける彼女へ「手は出すなと言っただろ」と念を押す。
「ハイハイ、わかってるって。大事な〈夢子ちゃん〉を守るのが一番の目的だもんね豪は。で、夢子ちゃん今どーしてんの。豪の家?」
「いや、ホテル取った。うちは両親と……アニキがいるからな」
「ふーん?豪んち、部屋なんてアホほど余ってんのに。気ぃつかってんのかしら」
違う。オレは理由を知っている。夢子は言わなかったけれど。知りたくないけど、解ってしまう。
軽い溜息と共に彼女が「そろそろ戻るわ」と呟いた。
ダッシュボードに置いていた封筒を助手席へ差し出すが、彼女ははっきりと拒絶の意思を持ち「受け取れない」と掌で押し返す。
「報酬はパパさんから充分すぎるくらい貰ってんだから。どーしてもって言うなら、今度夢子ちゃんや凛連れて飲みにいらっしゃいな」
「ああ、いや、あいつは――」
「お酒ダメなら、ノンアルカクテル作ってあげる。それとも、こーんなナイスバディのおねーさんに会うなんて夢子ちゃんには刺激が強すぎるかしら♪」
「……おねえさん……」
「失礼ね、今はカラダも女なんだってば」
明るく笑った彼女は豪の左肩をポンと叩き、助手席のドアを開ける。
「それじゃ、またね。しっかりやんなよ、王子様」
ひらり、優雅に手を振る彼女へ「おう。サンキュ」と応えた。裏口から店内へ戻る後姿を見送り、豪は再び書類へ目を落とす。
〈王子様〉なんてガラじゃないだろう――思い出したように苦笑が漏れ、自分が久しぶりに〈笑った〉ことに気付く。
いつものパターンなら、男は明日の夜外出する筈だ。明日、全てを終わらせる。
想定していた時刻から数分後、男が自宅を出た。今日は手ぶらで、ヘッドホンやイヤホンを使っていないようだ。こちらにとっては好都合といえる。
コンビニ近くのコインパーキングに差し掛かった辺りで、豪が男のフルネームを呼び――振り返った彼を「話があるんだ。すぐ済む」と手招いた。
彼は怪訝そうに豪を見つめるが、大人しく従いついて来た。
『満車』の表示が点灯するコインパーキングで、豪と男は真正面から向き合った。
顔色を青白く感じる程、日焼けとは無縁のようだ。まるで高校生のような幼い顔つきは、報告書の実年齢よりだいぶ若く感じられる。
「田中夢子を知ってるよな。深夜、あいつのアパートに行ってるだろう」
監視カメラの映像を引き伸ばした〈写真〉を、男の眼前へ突き付けた。インターホンを押す彼の顔がはっきり写っている。言い逃れは出来ない。
「これ、あんただろ」
「……彼女は……僕が、落とした鍵を……拾ってくれたんだ……」
些細な厚意。それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけ。夢子は拾ったことすら覚えていないかも知れない。彼女にとっては〈あたりまえ〉のことだから。
男は俯き、両手指を絡ませながらぼそぼそと喋り始める。
「僕に、笑いかけてくれる女の人なんて……初めてだったから……。すごく、嬉しくて……」
ただ不器用なだけだ。やり方を間違っただけだ。彼はきっと、人との関わり方を知らないだけなんだ。
「あんたの行動で、あいつを怖がらせたってことはわかるか」
「そ、そんな!僕、そんなつもりじゃ……。ただ……彼女に、僕の気持ちを伝えたかっただけで……」
「ドアノブに掛けていたのは」
「僕からのプレゼント。彼女、喜んでくれたかな。女の子が好きなアクセサリーのブランド、ネットで調べたんだ。彼女に似合いそうなものを選んだつもり。
恥ずかしがり屋さんなのかな。何回か訪ねてみたんだけど、出てきてくれないんだ。電気ついてメーター回ってて、部屋にいるのはわかってるのに。照れてるんだ、きっと」
顔を上げた彼は嬉しそうに笑みを浮かべて〈好きな人〉の話をする――どこにでも居るような、いたって普通の青年に見えた。
豪の神経はささくれ立っている。差出人不明の贈り物を喜ぶ人間が、この世に何人居るだろう。
夢子は指輪も、ピアスも、ネックレスも、ブレスレットも。およそアクセサリーの類は一切つけない。
もし、違った出会い方をしていたら。二人は真っ当な恋に落ちたのだろうか。
「あんたに危害を加えるつもりはない。ただ、これ以上同じ事を続けるなら。オレはどんな手段を使ってでもあんたを止めるぜ」
笑顔を浮かべていた男の表情が張り詰めた。畳み掛けるように豪が繰り返す。
「どんな手段を使っても、だ。あんただって、家族や警察に迷惑かけたくないだろ」
豪の口から『家族』という単語が出た途端。彼は膝から地面に崩れ落ち、やがて声を絞り出すように疑念を口にした。
「……一体……彼女とどういう関係なんだ……。何の権利があって、こんな……」
「恋人だ」
けして叶うことのない願望を口にした。夢子の想い人は他に……オレの身近に居るからだ。
嘘を真に受け、逆上されるかも知れない。相手が凶器を所持している可能性もある。自爆に近い捨て身の行動力は、常識の枠を軽く飛び越えてしまう。
――――構うもんか。オレは今、こんな場所で死ぬつもりなんか毛頭ないんだ。
上体を屈め、男の耳元へ囁いた。彼の首筋にはじっとりと汗が滲んでいる。
「なあ、忘れないでくれよ。オレがいつでも、あんたを見てるってこと。今度会う時は容赦しないぜ」
青ざめた男は呆けたように口を開け、豪を見上げたまま幾度か頷く。彼の心は折れたのだと感じられた。追ってくることも、襲ってくることもないだろう。
停めてある車には全部、オレの悪友が乗っていて。いざという時には加勢しようと待機しているなんてこと。彼は知らなくていいんだ。
愛車を停めているパーキングへ到着したところで、携帯へ報告が入る。
『豪さん。マル被、帰宅しました』
「了解。そっちも撤収してくれ。お疲れさん」
『お疲れした。なんつーか、自警団みたいでかっこよかったっす』
「……そんなに善良なものじゃないけどな」
『見張りはこれからも続けますけど、また何かあったら呼んでください。おれら豪さんのためならマジなんでもしますから、エンリョなく使ってくださいね』
「ありがとう。助かるよ」
空世辞などではなく、彼等はきっと〈なんでも〉する。どれだけ危険で非合法な〈頼み〉だとしても。
とりあえず、近いうちにあいつらを飲みにでも連れてってやるか。夢子の部屋に設置した機材類は午前中に片付けるとして……。
気付けばすっかり深い時間だ。夢子はもう寝ているだろうから、メールだけ入れておこう。
今夜の経緯をざっと説明するメールを送信し終えると、間も無く着信が――夢子からだ。
「……もしもし」
『豪くん、あの…………大丈夫?』
内緒話をするような囁きの心地良さに、豪がふと目を細めた。
「ああ。オレはなんともない」
『そっか……よかった……。ありがとう、豪くん』
その一言がただ嬉しかった。だけど悟られるのが嫌で、わざと素っ気無く言葉を紡ぐ。
「明日――いや、今日には戻れるぞ」
『ほんと?実は、落ち着かなくて……』
「そこ、気に入らなかったか」
『ちがくて……きれいだし広いし、すごくいいところだと思うんだけど……。広すぎて、私一人だけでいていいようなところじゃないというか……』
「かえって気を遣わせちまって悪かったな。講義が終わったら連絡してくれ。迎えに行く。バイトはなかったよな?」
『うん、休み。……あの、ほんとに、ありがとね。豪くんが友達でよかった』
「なんだよ、それ。……照れるだろ」
くすくす笑う夢子の吐息が耳孔をくすぐり、つられて唇に笑みが浮かぶ。
これでいいんだ。夢子の傍に居られるなら――顔見知りでも、知り合いでも、友達でも――なんだって。
つまらない意地を張っているのはオレの方、なのかも知れない。
「……それじゃ、明日な」
『また明日ね、おやすみなさい。気をつけて帰ってね』
「ああ、サンキュ。おやすみ、夢子」
通話を終え、豪はゆっくり息を吐いた。どうか今夜は良い夢を。願わくばそこで、オレと会えたなら。
友達として接しているオレがこんなことを考えているなんて、きっと夢子は知らないのだろう。……今はまだ、それでいいんだ。
暗い空を見上げても、夜明けまではまだ遠い。それでも、夢子が放つ〈光〉のように温かく柔らかな優しさは、今もこれからも、この胸に在る。
[キミのヒカリ]END.