動き出す前の街はまだ、朝の静寂さを保っているように思えた。
信号待ちの車内から見上げる空は――青碧に青藤色、それから薄群青の穏やかな青色たち。
運転席の窓を開けた途端。春を匂わせる風が吹き込み、火照った頬を柔らかく冷ましてくれるようだ。
顎関節の限界を試すような欠伸をひとつ。やがて知らぬ間に溜息が深く溢れ、夢子は濡れた目元を一度拭う。
寝てる時間がもったいなくて、毎日楽しいことだけ考えてる。たぶん、慢性的に寝不足なんだと思う。
食べること、遊ぶこと、眠ること。何を〈削る〉かといえば、やっぱり睡眠時間の一択。こんな無茶ができるのもきっと、今のうち、だけだから。
傍から見れば怠惰ともいえるこの日々は、学生の特権・春休みだけの特別。
バイトして、車乗って、少し寝たらまたバイト。最近はずっと、この繰り返し。友人からは「よく飽きないね」と笑われる。慣れたから気にしないけど。
地階駐車場からエレベーターに乗り込むと、掌に馴染んだ相棒のようなスマホを取り出し親指を滑らせる。
内廊下を歩きながらメール整理を終えて玄関を開けた途端、思いがけず父と顔を合わせ――互いに少し驚き、苦笑しながら挨拶を交わす。
「おかえり」
「ただいま。もう起きてたんだ、早いね」
「まあな。それで、収穫はあったのか」
「んー、トヨタのふっるいの居たよ。初めてナマで見たけど、ちょーカッコよかった」
靴を脱ぎながら「こんな鼻長いやつ」と指先で表す夢子を、父はじっと見つめている。
「昨日、母さんとも話したんだが……軽井沢に行こうと思ってな」
「え、それいつから何泊?私も久しぶりに行こうかなぁ」
「いや。お前が卒業したら引っ越そうと思ってる」
スリッパを引きずるように足を止める。そんなこと、全然予想していなかった。僅かに困惑を覚えた夢子が眉根を寄せる。
「ここに一人で住むか、一緒に引っ越すか、別の場所で一人暮らしをするか。選ぶことになるだろうな」
2年次からは〈就活〉も考えなければいけないと思っていたところだ。まだ漠然としている、自分の進むべき道を探すために。
考慮すべき案件が増えただけ――ただ単純に、そう思いたかった。夢子は一度、頷いて振り返る。
「考えとくね。風呂入って寝ます」
「ああ。おやすみ」
「ん、いってらっしゃい」
避暑のための別荘には、毎年のように家族で行っていた。両親が引っ越すということは、あの別荘に住むのだろうか。
もしかしたら、そこは貸しに出して新しく買うのかもしれない。
卒業後は都内で勤務するとして、軽井沢からの通勤となると……交通手段はやはり新幹線か。交通費がハンパじゃないな。
でもここは、一人で住むには広すぎる。今みたいに、キーパーさんに来てもらえるならいいんだけど。
職場の近くにアパートでも借りて、一人暮らしってやつを経験してみようか。……できんのか、私に。向いていない気もする。
髪を拭きながら自室のドアを開けた夢子は、壁一面を埋める本棚の前で立ち止まり、ミネラルウォーターを一口飲み込む。
北関東のドライブガイドブックを一冊手に取って広げた。ドライブコースや観光名所が紹介されている。浅間山。碓氷峠。秋名湖。
雄々しい妙義山の写真が、ふと目に留まる。ここへ行ったのは、小さい頃……遠足かなにかだったと思う。確か、桜がきれいに咲いていた。
自分の車で、自分の運転で行ったことはなかった。明日の夜――いや、今夜にでも行ってみようか。桜を見るには、たぶんまだ早いけれど。
たまには自分の知らないところを、自分で走ってみるのもおもしろいんじゃないだろうか。新しい発見や出会いがあったりする、かもしれない。
やりたいことを今、やらないでどうする。今なら時間はあるんだ。夢子は息を吐いてガイドブックを閉じた。
左手首の時計を見遣ると午前2時を数分過ぎたところだ。まいっちゃうよね、『丑三つ時』とかいっても全然眠くない……どころか超・元気。
夢子は光に吸い寄せられる虫のように、足取り軽く自販機へ近付いた。
観光地価格でやんの、生意気。ぶつぶつ呟きながらボタンを押し、落下してきた缶を取り出す。
暦の上では春だけど、まだまだ寒い山の中で熱い缶飲料はありがたい。苦いコーヒーを一口飲み込んで、はあ、と息を吐く。
自販機近くの冷たいベンチへ腰を下ろし、澄んだ夜空を見上げる。それから視線を落とし、自分の車を見るともなしに眺めていた。
特別な目的を持たない夜中のドライブはひとり静かで、ほんの少しだけ寂しいところが夢子にとっては魅力的。
休憩がてら立ち寄るサービスエリアやコンビニで、特に旨くもない缶コーヒーを飲むことも結構好きだ。
道中〈仲間〉らしきドライバーやバイク乗りと出会っても、互いに干渉することはない。どこか通じ合うものを感じながら、踏み込もうとしない。
その距離感は心地良く、夢子は仄かな寂寥感を覚えるのだ。
遠くから聞こえてくる音を耳が捉える。夢子にとってはあまり馴染みのない音に感じられた。知らない車種かもしれない。
やがて駐車場へ、一台の車が進入してきた。なんていう車だろう。コンパクトで取り回しやすそうだし、赤くて可愛い。
群馬ナンバーの赤い車をぼんやり見つめていると、運転席から一人の男性が降りた。直後、こちらへ視線を遣ったことに夢子が気付き立ち上がる。
空になった缶をゴミ箱へ落として響く、甲高く乾いた音が合図となったように二人は対峙する。
茶髪の彼は警戒心を剥き出しで、夢子へ短い問いを投げ掛けた。
「なに、お前」
「こんばんは。私は普段、首都高走ってるんです。ここは、自分の運転では初めて来たんですけど。なんていうか、走ってて楽しいですね」
なるべく明るく挨拶を返し、敵意を持たないことをアピールするように笑顔を浮かべる。
一瞥を寄越した彼は夢子の車へ視線を遣り、目を見張った。この女には似合わない、分不相応な車だとでも思っているのだろうか。
「964か」
「えーと……たぶん、そうですかね。カレラRSの3.8……クラブスポーツ、とかいうやつだと思います」
口ごもりながら説明していると、もう一台の音に気付く。こちらへ近付いてくるようだ。
程無くして遠くない距離に停まった黒い車。日産GT-Rの……いくつだっけ。キリっとしてるからたぶん32、かな。黒仲間だ。
運転席のドアを閉め、こちらへ視線を寄越す黒髪の男性へ何とはなしに頭を下げると、相手も軽い会釈を返してくる。
足早に近付いてくる彼は、夢子本人よりも車に興味があるように思えた。黒色のボディラインを視線でなぞり、ひとつ息を吐く。
まるで二人の男性から自分自身をまじまじと見つめられているような、落ち着かない気分で居る夢子へ、穏やかな口調が向けられた。
「綺麗だな。エンジンやミッションはレストアしてあるのか?」
一体〈何〉を問われているのか分からず、夢子はただ曖昧な微笑を浮かべている。
黒髪の彼は、問いへの答えが無いことに些かの疑念を抱いたようだ。二人は互いに困惑を感じ、まじまじと顔を見合わせた。
「あー……えっと。私、詳しいことは知らないんですよ。すみません」
「知らない?」
「この車、父からのおさがりなんです。普段自分でやるのは、給油と窓拭きくらいで――」
「本気で言っているのか」
彼は語気を荒げ、夢子へ視線を突き刺した。真剣の切っ先を喉元へ突き付けられたように夢子の身体は一瞬で凍りつき、一言も返せずに居る。
自分が今〈何〉を言えばいいのかすら、夢子には全く解らなかった。混乱、当惑、動揺、感情が溢れて眩暈すら覚える。
唇を結んだ夢子へ視線を向けたまま、彼は静かに口を開く。発せられた言葉の端には怒りが滲んでいるように思えた。
「ただの乗用車とは訳が違うだろう。命を預ける車のことを、乗り手本人が知らないでどうする」
「おい、毅……」
「不愉快だ」
拒絶めいて向けられた彼の背中へ手を伸ばしたけれど、止める術など無く――瞬間、途惑った夢子の指先は空を掠める。
深い黒色のGT-Rが闇に溶けてゆく後姿をただ見送っている。そこには微かなタイヤの匂いが残された。
RB26の猛々しい咆哮が遠ざかり、間も無く二人の視線が交錯する。茶髪の彼は、どこか申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「悪ィな。うちのリーダー、たまに熱血でよ」
「いえ、その、全然。今のは、正論だから……。あのひとは、本気なんですね」
あのひとは本気で〈車〉を愛して。本気で、ここ・妙義を走っているひと。夢子にはそう感じられた。
大学やサークル、バイト先には居ない、初めて会うタイプのひとだ。とは言え、もう二度と会えないのかもしれないけれど。
やがて俯いてしまった夢子へ向け、彼が口を開いた。
「なあ。首都高って、どんな感じだ?オレ、ゲームでしか走ったことねぇや」
「……最初は途惑ったけど、わりとすぐ慣れた、かな。仲良く群れたりする感じじゃなくて、それはそれで……ラク、というか……」
少しずつ話をするうち、彼はどうやら自分に気を遣ってくれているらしい、と気付く。見た目と違って、悪いひとじゃないみたいだ。
緊張が解れた夢子の唇に、ようやく薄い笑みが浮かぶ。それを見逃さない彼が、安堵したように細く息を吐いた。
「お前、また来るよな」
「来ても、いいのかな。私なんか歓迎されなさそう」
「毅のヤツ、今頃言いすぎたって後悔してンだろ。許可が要るならオレが出す。オレはまた、お前に会いたい」
「……私は……毅さん、に――会って、きちんと謝りたい」
命を乗せて共に走る〈車〉について、知ろうとしなかったこと。どこか中途半端な気持ちで〈走って〉いたことを。
「オレ、庄司慎吾。慎吾でいいぜ」
意外と優しい〈彼〉の名前を知った。
「田中夢子……です。適当に、夢子とか呼んでくれていいよ」
「ああ。絶対また来いよ、夢子」
「ありがとう。おやすみ、慎吾」
彼との約束だと、思ってもいいだろうか。別れ際、口元で微笑んでこちらへ手を振る程度の優しさを持ち合わせているような彼、慎吾との。
妙義山を後にした夢子は、信号待ちの間にガムを一粒放り込む。噛み締めながらも零れる欠伸に、帰ったらよく眠れそうだ、と目元を擦った。
玄関ドアを開けた途端、驚いた表情の父と視線がぶつかる。父が羽織っている濃紺のガウンは、以前夢子が贈ったものだ。
「ただいまー。昨日からすごいタイミングだね」
「そうだな。おかえり」
束の間の沈黙をおいて「あのさ」と夢子の声が飛ぶ。声色には微かな躊躇いが感じられた。
「いつも、中のオイルとかいろいろ……見て、くれてるでしょ」
「まあ……お前はやらないだろうし、どうも気になってな」
「今度から、そういうの全部自分でやってみたいんだけど。教えて、ください。父上殿」
深く頭を下げる娘を、驚いたように父が見つめている。
「急にどうしたんだ。何かあったのか」
「うーん……何、ってわけでもないけど。きちんと向き合いたくてさ。おさがりだけど今は私の車、だから」
アルバムをめくれば、あの車はいつも父の思い出と共に在って。まるで家族のように大切にしていたことを、私はずっと前から知っていたんだ。
大切な車を、免許取り立ての私に譲ってくれたこと。助手席に父を乗せて、教習所よりずっと厳しい〈教習〉を受けたこと。
いつか胸を張って、自分の愛車だと言えるようになりたい。そのときまでに、車と並んで恥ずかしくない自分で在りたいと思う。
何かを吹っ切ったように晴れやかな表情の夢子を眺め、父はひとつ息を吐いた。
「グローブ、買ってやるよ」
「なんで?野球すんの?」
「……違う。作業用だ」
「わざわざ買わなくても、その辺に余ってるお古でいいよ」
「だめだ。お前には大きすぎる。そうだな……他にも必要になるだろうし、後で一緒に行くか」
「じゃあついでに買物付き合ってね。久しぶりに遠出しよー」
「それはいいが、教える事が山ほどあるぞ。覚悟しておけよ」
幾度か頷きながら、どこか嬉しそうな声だと夢子は感じた。それと同時――自分も、嬉しく思っていることに気付く。
小さい頃、公園でキャッチボールや自転車に乗る練習をしたみたいな、浮足立ってわくわくするような気持ち。
できなかったことができるようになって、ひとつ成長したような誇らしさを覚えたこと。
「いってらっしゃい」
「ああ。おやすみ」
新しい発見も、出会いも、思いもよらないかたちで手に入れることになった。自分の選択は間違っていなかったと確信を持つ。
父から受け継いだ〈愛車〉の鍵を握り締め、夢子は自分のためだけに穏やかな笑みを浮かべた。
[Rhapsody in Blue 26:06]END.