彼と出会ったのは、高崎のでっかい病院。実習でくたくたに疲れ果てた帰り道だった。
資料やファイルを山ほど抱えて、外灯が作る自分の影ばかり見ながら最寄のバス停へ向かうとき。
ひょいと背後から手提げバッグを奪われた。背の高い〈犯人〉は数歩向こうからこちらをじっと見つめている。
処理が追いつかない夢子の脳内。それでも、バッグの中身を失くしたら大変厄介な事態になる、ということだけは解った。
丸めていた背中を伸ばしながら見上げた空は一面、群青色に塗られている。
警戒しながら彼へ近付くと――犯人は突然、非礼を詫びて名乗った。今の今まで〈仕事〉していた病院と同じ苗字。
それは特別珍しいものではないけれど、彼に見覚えはない。共に働いたスタッフの中には居なかったはず。
歩き出した後姿についていくと、どうやら彼は病院の裏手に向かっているようだ。
関係者用駐車場の隅、一台の車が目に留まる。凛然と白く、美しい車。スポーツカー、という種類だろうか。
彼が愛おしそうに視線を遣ったその車は、佇まいがどことなく彼と似ているように夢子には感じられた。
促されて腰を落とした助手席。走り出した車中で聞かされたのは彼自身のこと。それから『プロジェクトD』のこと。
「実験というか、試してみたいことがあるんだ。協力してくれないか」
数週間後に茨城で行われる〈公道バトル〉当日、それもレース前のメンバーの食事を夢子に任せたいと彼は言った。
「どうして私に?」
純粋な疑問だった。院内で実習中の学生は恐らく自分一人。学生だから時間に余裕があるだろうとか、そんな理由なんだろうか。
「実習……いや、仕事と向き合う姿勢に惹かれた。それに、君がこの問題にどう向き合うか興味がある」
ううん、と唸る。まいったな。このひとは、食の大切さを知っているんだ。
実習と同じように、テキストや講義での勉強だけでは得られない〈経験〉を積めることは大きな魅力。
論文やレポートの題材にはならなくても、研究室での話のネタにはなるかなーなんて、我ながらずる賢い思いもあったけれど。
彼に協力することで得られる利益はいろいろあるだろうけど、何よりも〈高橋涼介〉――彼の存在そのものに興味が湧いた。
先程の説明では、予定している日程は実習期間が終わる頃。スケジュールには余裕がありそうだ。夢子には断る理由がなかった。
「わかりました。喜んで協力させてもらいます」
実習で疲れて空腹であることを忘れるくらい、楽しみでしかたないイベントができた。
自宅へ送り届けられてからも、ウキウキした気分のおかげで実習レポートはスムーズに片付いた。
自分が興味を持ったことについて、調べたり考えたりするのは楽しい。メニュー。食材。器具。食器。手順。
野菜はいつも、近所の農家さん達が出荷できないものを分けてくれるから話してみよう。主食は先に確保しておいたほうがいいかな。
こまごました食器や器具は、大学の物品貸出が使えるかもしれないから調べておかないと。
毎日の講義で学んだことのいくつかは、きっと役に立っていると思う。
あれ以来涼介とは携帯で何度かやり取りをして、メニューもだいたい決まったところ。
〈プロジェクト〉に携わるメンバーの名前も、一通り覚えたつもりだ。
今日はいよいよ『キッチン付の車』が自宅にやってくる日。予定時間より少し前、自宅の駐車場には自分の車一台だけが停まっている。
「ん、来たかな」
移動販売なんかの小さなケータリングカーが来ると思ってたら、予想以上に大きなワゴン車。後ろにもう一台、ついてきているみたい。
よく灼けた肌の男性が、ワゴン車の運転席から降りてこちらへ「ども、中村賢太です」と頭を下げる。
〈バトル〉のドライバーではなさそうだ、同い年くらいかなと年齢を想像しながら名乗りと一礼を返したら、涼介の姿が目に入った。
「涼介さん。これ、どうしたんですか」
「借り物だが……使ったことは?」
「こういうのは初めてです。中、見てもいいですか」
頷く涼介を後目に、颯爽と乗り込んだ。内部を一通り見渡すと、キャンピングカーのようである。
さすがにこの中で宿泊はできなさそうだけど、一人で動くには充分な広さのキッチンスペース。
よく手入れされたピカピカのコールドテーブルに指先を滑らせた。冷蔵庫の上面を調理台として使うことでスペースを確保している。
電子レンジ、シンクやガスコンロが備え付けてあり、壁面や上部の収納棚には食器と調理器具も揃っているようだ。
調理室をコンパクトにまとめるとこうなるんじゃないだろうか、と思わせる納得の機能美。
「クルマのくせにナマイキだ!」
思い付いたまま、鼻息荒く言葉を発した。ある種の褒め言葉ではある。
「気に入ってもらえて嬉しいよ。ということで、預けていくから一通り使ってみてくれないか」
手渡された取説をパラパラめくった夢子は「これって普通免許でも乗れるんですか?」と疑問を呈す。
「勿論。ただ、運転は彼に任せてくれ。シェフの手は大事にしたい」
不意に、夢子の右手が宙に浮く。すっかり油断していた手の甲に一度、涼介の唇が確かに触れた。
左手で取説を抱えながら、自分がまるでヒロインにでもなったかのような錯覚に陥る。
こういうことをサラっとやれちゃう人が現実に居るんだなあ、なんて他人事のように感動してしまった。
「何かあれば、携帯へ。――期待しているぞ、夢子」
その後二人が乗り込んだのは、この間の白い車ではなく、暮れていく太陽に似た色の車。賢太さんが運転するみたい。
遠ざかる車を見送った夢子は「期待されてることだし、いっちょやりますか」と呟いた。
当日、現地までのドライバーを任された賢太はコンパクトで可愛らしい自転車に乗って夢子の元へやって来た。
「おはようございます。賢太さん、今日は自転車なんですね」
「おはよ。こっからうちまで結構近いんだよな、っと」
真っ赤な自転車はあっと言う間に畳まれて、手荷物サイズに変わる。折り畳み自転車って車に積んだら楽しそうだな。
「んじゃ、行こうか」
「あの、寄ってほしいところがあるんですが」
「オッケー、何でも言ってよ。今日はオレ、夢子ちゃんの専属ドライバーだからさ」
食材を提供してくれる農家と商店を数軒回り、いざ、決戦の地――茨城へ。
緊張気味の夢子を気遣ってか、彼はたくさん話をしてくれた。
車のことを話すときはすごく嬉しそうで、彼の愛車・シルビアという名前、それから〈啓介さん〉を夢子は覚えた。
集合場所に到着し、車から降りた瞬間。ピンと張り詰めた空気が肌に刺さり、つられて気持ちが引き締まるように感じた。
「夢子ちゃんつれてきましたー」
視線が次々こちらへ集まってきて、突っ立っていた夢子は慌てて頭を下げる。
涼介が前もって話しておいてくれたらしく、ああ、あの子が、といった程度の認識は持たれているようだ。
「早速メシ頼むよ。楽しみにしてるから」
ぐっと親指を立ててみせた賢太は、機材車へ駆けていく。
一度頷いた夢子が周囲を見渡すと、それぞれが目標を持って仕事をこなしていることが解る。みんな、ここに必要なひとたちなんだ。
私は今ここで、私のやるべきことをやろう。白帽、マスク、白衣、手袋。これが、私の戦闘装備。
調理に集中する時は、きっと気持ちのいい時間なんだろう。
作業に没頭している最中にその自覚はないけれど、後で振り返ると確かにそう思う。
あともう一息。肉厚フライパンを振りながら「強火力は頼もしいな」とニヤけていると、ツンツン逆立った髪が視界を掠めた。
視線を遣った先では、賢太から話を聞いていた〈啓介さん〉が窓からコンロを覗き込み鼻をひくつかせている。
パスタには無臭にんにくを使ってるけど、やっぱりニオイが気になるのかな。このひと、鼻ききそうだ。
「なんか食うモンある?ハラへった」
「もうすぐできますよ。スイカ食べますか、啓介さん」
数種の果物類は全て、皮と種を除きカットして冷蔵してある。冷蔵庫から取り出したスイカとフルーツフォークを窓から勧めた。
「夢子、筑波のときも来てくれれば良かったのにな。もうすぐ茨城終わっちまう」
「筑波山ですかー。登ったことありますよ、遠足で」
「オレ達のは登山じゃねえよ」
可笑しくてたまらないといった表情でスイカを頬張る啓介は、小分けにした容器をあっと言う間に空けてしまった。
「そっちもう食える?」
「はい、できあがりです。お待たせしました」
「よっしゃ、手ぇ空いたヤツからメシにしよーぜ!」
啓介の大声にあちこちで返事が上がる。今回はドライバーの胃を第一に考慮したメニューとなった。
オイルベースのパスタ、具だくさんな野菜スープ、一口サイズのおにぎり、数種類の果物。
満腹にはならないよう量に気をつけながら盛り付けていく。
物品貸出で見つけた軽くて割れにくい仕切り皿は、普段の食事だけじゃなく屋外でも便利に使えるんだな。
「コーヒーもありますから、飲みたいひとは声かけてくださいね」
給食当番のように配膳をこなしていくと「夢子ちゃん、カッコが本気じゃん。超かっけー」と素っ頓狂な声が飛んできた。
声の主、賢太がコンロを覗き「麺とササミ大盛りで」と両手を打つ。
「だいたい等分なんで、大盛りはできませんけど……気持ち多めにしますね。ていうか野菜も食べてください」
賢太からの抗議を無視して野菜も多めに盛り付けた皿を差し出すと、「うまそう」と呟き受け取ってくれた。どうやら文句はなくなったようだ。
食事休憩が始まると、周囲の緊張が和らいだように感じる。特別なメニューでなくてもいい、一緒に食事をすることが大切だ。
人間の生命、生活、社会の根幹を支える〈食〉――ううん、せっかくだしレポートにまとめてみようか。夢子は唇を結ぶ。
自分が作ったものをだれかに食べてもらえることが嬉しくて、昔からずっと料理が好きだった。
残さず全部、おいしく食べてもらえるなら、なおさら嬉しい。
大変とか、面倒とか、そんなの全部どこか行っちゃうくらい。これ、やりがいってやつなのかな。
二台の車はそれぞれ最終セッティングを終えたらしい。あとは〈バトル〉の開始時刻を待つばかり。
洗い物を片付けていると「ごちそうさま」と共に、窓から空になった皿が突き出された。
「オレが最後か、ごめんね。何か手伝うことある?」
「いえ、もうすぐ終わりますし、大丈夫です。ありがとうございます」
ええと……確か、啓介さんが乗ってる黄色い車の……メカニックの…………
失礼ながら名前を忘れてしまった夢子が思い出そうとしているうちに、彼はごみ袋を手に取った。
袋を広げ、その辺で拾ったらしいごみをてきぱき放り込んでいく。
夢子が袋に大きく書いた『燃やすごみ』と『燃えないごみ』に従って、きちんと分別してくれているようだ。
「こういうの、支えてもらってるって感じがしていいですね」
彼の穏やかな口ぶりに、ほっと肩の力が抜けていく。
「裏方とか脇役っていうんでしょうかね。少しでも皆さんのお役にたてたらと思ってます」
「脇役だなんて、そんなことないです。少なくともオレの中では、夢子さんはサイコーのヒロインですよ」
「…………はい?」
「ごちそうさまでした。全部おいしかったです、すごく」
「……あ、はあ。どうも、おそまつさまでした……」
飄々と去っていく彼の後姿を、夢子は呆けたように見つめていた。心臓の位置を、鼓動と痛みが伝える。
私の名前、覚えてくれたんだ。それなのに私は、いまだ彼の名前を思い出せないでいる。
次に顔を合わせるのが、ちょっと怖いような気がしてきた。何を、言えばいいかわからないから。
でも、また彼と話をしたい。どんな些細なことでもいいから、会話をしたいんだ。
「いただきます」や「ごちそうさま」を。きちんと言うひとは、好きだ。――大好きだ。
コーヒーのおかわりをしに来た涼介が、茫然自失といった表情で立ち尽くす夢子を見咎める。
「夢子。どうした」
「りょ、涼介さん……あの、なんだか私……うっかり、恋しちゃったみたいです……」
涼介はコーヒーメーカーを操作する夢子の指先が僅かに震えているのを見逃さなかった。
腕を組み、想定の範囲外の出来事が起こったかのように素早く考えを巡らせる。
「贔屓しないのなら俺は構わないが」
「ひいき?」
「配膳の量」
「……それぞれ体調に合わせて調整してます」
「愛情という名のスパイス」
「……最初から最後まで、全力で愛情こめて作ってます」
「それなら問題は無いな。夢子の好きなようにしたらいい」
私の、好きなように?私は、これから――どうしたいんだろう。自分のことなのに何もわからないなんて、一体どういうことなのか。
両手でカップを手渡すと、涼介は微笑み「ありがとう」と受け取った。どこか愉しげな涼介の背中を見送り、夢子は深く息を吸う。
息をゆっくりと吐き出して白帽に手を掛けた。……いや、だめだ。これ外したら、絶対髪くしゃくしゃになる……。
ああ、もう!このまま行ってやる!駆け出す足は軽く感じて、どこまでも遠くへ行けそうだ。
「あ、あのっ!」
彼が振り向いた瞬間、夢子の心臓はより一層強く痛んだ。緊張すると早口になってしまう癖はよく自覚している。
「A大、栄養学部実践栄養学科2年、田中夢子!製菓部所属、趣味はフットサル!将来、か……管理栄養士として病院で働くのが夢です!」
将来の夢を発表する「か」の辺りで、声が掠れて焦った。
全力で早鐘を打ち続ける心臓をなだめるように、夢子は白衣の胸元をきつく鷲掴む。
「……私、あなたのことをもっと知りたいです」
名前、職種、趣味、嗜好――だめだ、そんなんじゃ全然足りない。
教えてください。あなたを、あなた自身を構成するものを隅から隅まで徹底的に全部、余すところなく赤裸々に。
真っ直ぐな眼差しに射られた彼は、束の間の途惑いを乗せた右手で軽く眼鏡を押し上げニコリと相好を崩した。
彼が口を開いた瞬間、確信にも似た予感が夢子の全身を駆け巡る。
ほかの誰でもない――きっとあなたが、私にとって最高のヒーローだってこと。
茜色の空の下、世界にたったふたりきりで居るような錯覚。胸が痛む愛おしさ。
これから何年、何十年、どれだけ時間が経っても、私はきっと今と変わらず明確におぼえているだろう。
あなたも同じようにおぼえていてくれたなら、私はたぶん。最後のさいごの瞬間まで、笑っていられると思うんだ。
二人の影が少しずつ近付いていく。躊躇いの後にどちらからともなく手を伸ばし、やがてふたつの影はひとつになった。
[夏影トワイライト]END.