「ただいまー」
朝から湿度も低めで、快適な一日だった梅雨の晴れ間。
帰宅後夕食を済ませた夢子は、リビングのソファにもたれてニュース番組を眺めている。
〈あれ〉から数週間が経った。同じ職場の〈恋人〉は、今夜は約束があるのだそうだ。きっと、二宮と一緒に走りに行くんだろう。
彼と平日の休みが重なることは滅多にないけれど、今週末一緒に出掛ける約束がある。
遠過ぎず近過ぎず――現時点ではとても心地良い距離感を保っていると夢子は思う。ふう、と細い息が漏れた。
今日はいつもより早く帰ってこられたから、珍しく時間がある。ひさしぶりに、映画でも借りに行こうかな。
テレビに表示した番組表をざっと眺め「よし、行くか」と立ち上がった夢子は家族へ外出を告げた。
目的地までは歩いて数分。書店を併設するレンタルショップは、やや混んでいるようだ。
最近よく耳にするアイドルソングが流れる店内、夢子はカゴを手に取り歩き出す。
レンタル料金割引期間になると、お目当ての作品が全部『貸出中』になってしまうこともある(悔しい)。
財布に何枚かクーポン券入ってるから、こういう時間のあるときに観るのもいいかな。
あとで本屋も覗いてみよう、と考えながら通り掛かった場所は、独特の雰囲気が漂っているように感じられた。
『18歳未満立入禁止』――黒地暖簾にピンクの文字がけばけばしく躍る出入口。入ったことはないけれど、どういう場所かは一応知っている。
その時、内部からこちらへ向かってくる人影が目に付いた。この辺りは特に〈互いにじろじろと見ない〉のが暗黙の了解だろう。
特別な意味もなく眺めていた視線を暖簾から外し、洋画コーナーへ行こうと身体の向きを変える。
「あれ?夢子さん」
呼び掛けに何気無く振り返った夢子を待っていたのは、片手で暖簾を上げ、片手でDVDを抱えた――
「……に、のみや……」
ぱさ、と彼の背後で暖簾が閉じる。直前、視界を掠めたパッケージ群は〈肌色〉の割合が多いように見えた。
「それ部屋着すか?かわいいっすね」
指摘通り、部屋着のまま。五分袖のボーダーチュニック、コットン素材のロングパンツ。……いや、そんなことはどうでもいい。
今まさに〈そこ〉から出てきて、知人を見つけたから声を掛けること。恥ずかしいとか、感じないんだろうか。
逆になぜ、話し掛けられたこっちが恥ずかしい思いをしなきゃいけないのか。だが彼は、夢子の困惑などちっとも気にしていないようだ。
「ちょうどいいや。カゴ、入れさせてください」
夢子の返答を待つことなく、空のカゴに放り込まれたDVD。
プラスチック同士がぶつかる軽い音が何度か聞こえる。……いったい何枚借りるつもりだろう。
「んじゃ、後で合流しましょうね」
彼は足取り軽く、海外ドラマコーナーへ向かったようだ。
取り残された夢子の右手には、怪しげなタイトルのDVDが数枚入ったカゴ。
どうしたものか悩み始めた途端、再度背後から名前を呼ばれた。聞き間違う筈のない、酒井の声。
振り向き様に彼を凝視するが――二宮と違い、手ぶらのようだ。どことなく安堵している自分に、夢子は気付く。
「……俺は何も、借りないですよ」
手元へ遣られた視線の意味を感じ取ったのか、酒井は両手を広げて〈潔白〉を証明する。
「いや、べつにそんなの個人の自由だからね?あたしが口出しするようなアレはないんだけど」
空いている左手を顔の辺りで振り、彼へ疑惑の目を向けたことを否定しようと夢子は試みた。何故か、視線が合わせづらい。
酒井は訝しげに眉根を寄せ「こんな時間にそんな格好で出歩かないでください」と軽い溜息を零した。
そんな格好と言われても、肌の露出は殆ど無い筈だ。それとも、気の抜けた格好で外出するなということだろうか。
胸元を見下ろして反論しようと夢子が唇を開きかけた矢先、畳み掛けるようにまくしたててくる。
「夢子さん、歩いて来たんですよね。送っていきます」
「いいよ、うちすぐ近くだから」
「送ります」
「でもこれ、二宮の」
「俺が借りて渡しますから。とにかく急ぎますよ、大輝に見つかると面倒です」
カゴを半ば奪うように取り上げた酒井は左手を夢子の背へ回し、近くのレジへと促す。
傍らの彼が不機嫌なのは見て分かるけれど、一体何が原因なのかはさっぱり分からなかった。
会計を済ませ、追手を気にする逃亡者のように周囲を窺いながら二人は駐車場へ向かう。
敷地の中央付近に並べて停められた二台の車を夢子はまじまじと見つめた。
「二宮の車、すっごい虫ついてるね。黄色いから?」
「黄色いからでしょうね」
興味が無い、といった口調でDC2の助手席ドアを開けた酒井は「どうぞ」と夢子へ呼び掛けた。
その後運転席に腰を落とした酒井が後部座席へレンタルバッグを置く様を、夢子は助手席で見るともなく眺める。
左手でシートベルトを引っ張りながら、思い出したように「うち知ってるっけ?」と酒井へ尋ねた。
「前に、名簿見ました」
素っ気無い返答を聞いた夢子はふうん、と息を吐く。間髪入れず上がるエンジン音――いつからか、この猛々しい音の虜となっていた。
店から自宅までは徒歩で数分。車じゃもっと、あっと言う間に到着してしまう。
普段とは異なり、会話らしい会話もない。車内の雰囲気は重苦しくまとわりつくようで、妙に居心地悪く夢子には感じられた。
「ね、酒井。機嫌悪いけど、どしたの?」
シートベルトを外し、運転席へ問い掛ける。自宅前の私道は、この時間誰も通らない。数分の停車であれば問題ないだろう。
矛先を向けられた酒井は運転席で、重たい口を開いた。
「夢子さんは悪くないんです。その……恐らく失礼な事を言うんですが」
「なんのなんの。けっこう心広いよ」
「…………パッケージが、夢子さんに似ていると。大輝が一人で盛り上がって」
虚を衝かれ、言葉を失った。パッケージということは、DVDに出演している〈女優さん〉に似ているということか。
「そんなの初めて言われた。なんて人?二宮はそれ借りたの?」
一瞬、酒井が後部座席へ視線を遣ったのを夢子は見逃さなかった。
身を乗り出し、掴んだバッグから中身を引き出す。街灯と透明ケースのおかげで、盤面に印字されたタイトルがよく見える。
「……オムニバス、総集編……。こっちは240分って……風邪ひいちゃうよ……」
自分に似ている(らしい)女優さんの出演作品はどれか判らなかったけれど、いい案を思い付いた。にんまり口元が緩む。
「コレ見よーよ。酒井んち行ってもいい?」
酒井はまじまじと夢子を見つめる。本気か、とでも言いたいのだろうか。程無くしてぎこちなく頷き「狭いですよ」と釘を刺した。
再び走り出したDC2の助手席で、腿の上に広げたディスクを片付けてバッグへしまい込む。
そういえば、と取り出した携帯には、二宮からの着信が何件も入っていた(けど、めんどくさいから全部無視することにした)。
「なんか緊張するね。ヘンなの」
ローテーブルに置かれたノートパソコンをやや見下ろすように、シングルベッドに並んで腰掛けている。
烏龍茶の入ったグラスを弄ぶ夢子を視界に捉え、酒井は一枚のDVDをセットする。単体女優のデビュー作だ。
「……じゃあ、再生します」
リモコンを握る酒井の歯切れ悪い言葉に夢子は頷き、グラスをテーブルへ乗せた。
公園を散歩したり、ベッドで寝転がったり……視聴者を恋人に見立てた、アイドルのイメージビデオのようなオープニング。
タイトル画面の後、インタビューが始まる。夢子は画面の〈彼女〉をじっと見つめたまま、酒井へ「似てる?」と問うた。
「……いえ。俺は似てないと思います」
「んー……自分の顔って、あんまり客観視したことないかも。よくわかんないな」
彼女は自分より、鼻がスッキリして高そうに見える。メイクや照明のせいだろうか。夢子は人差し指で二、三度鼻筋をなぞり細い溜息を吐く。
夢子に気付かれないよう小さく舌を打った酒井が「パケ写詐欺」と吐き捨てる。修正し過ぎたパッケージ写真とはまるで別人だ。
腿へ頬杖をついて画面を眺めている彼女は、一体何を考えているのだろうか。
付き合い始めたばかりの恋人が、自分の部屋で初のふたりきり。そして何故か、並んでAVを鑑賞している。
彼女の一連の行動に、何らかの〈意味〉があるのだとしたら。俺はそれを察するべきだろう。恋人、なのだから。
ぐるぐると逡巡していた酒井は何かを吹っ切り覚悟するように、夢子をベッドへ組み敷いた。
互いの吐息を感じる程の距離に居ることで、昂る心と身体を抑えられなくなりそうだ。
夢子の唇へ、唇を押し付ける。暫くそのままで居ると、鼻での呼吸を忘れていたかのように、空気を求めて彼女の唇が開いた。
すかさず滑り込ませた舌に触れた歯列の先、少し冷たい、彼女の舌の感触。その舌が、怯えたように引っ込められる。
身体を離した酒井は脳細胞を絞るように考えを巡らせる。ここから先へ――進んでいいものかどうか。
真上からの直視に我慢できなくなった夢子は両腕で顔を覆い「そんなに、見ないで」と呟いた。
くぐもってはいたが、夢子の声は確かに震えていた。彼女を気遣うことさえ忘れていた自分自身に失望しかける。
「……すみません、夢子さん」
顔を覆っていた両腕がそっと、脇へ落とされる。
「やだもー、謝ることないって」
困ったように笑い、頭を左右に軽く振る。やがて真顔で酒井を見上げて。
「帰る、ね。酒井も明日仕事でしょ」
「あの……泊まっていっても、」
職場でもプライベートでも、狼狽する酒井を見るのは初めてだった。少し驚いた夢子は躊躇いがちに息を吐く。
「付き合うってのが初めてじゃないなら、察してほしいなーなんて」
「……はあ……」
「ま、あたしは初めてだけどね」
彼は面食らったように目を見開き、微動だにしない。その反応は、夢子の想像と違わなかった。
めんどくさい女につかまった、とでも思われているのかもしれない。
「…………いい年して全然経験ないのって、やっぱり重い、よね」
自嘲気味の笑みを浮かべ、夢子が額へ手を当てる。それを見つめていた酒井は幾度か首を振った。
「夢子さん……夢子さんから俺に、キスしてくれますよね」
「あたしのほうが年上だから、がんばらなきゃって思って」
「頑張るって……」
「ちなみに、ガレージでしたのが初めてのちゅうでしたー」
再び酒井の動きが止まる。ああ、言わなくてもいいことまで言ってしまっただろうか。でも本当のことだから。
「あー……ごめん、引くよね。忘れて」
「送ります、夢子さん」
「うん。ありがと」
両手を伸ばし、酒井の顔を引き寄せる。穏やかなキスを交わした後、夢子は彼の背中へ腕を回し「好き」と囁いた。
もうすぐ到着だ。夢子はメーター類をちらと見遣る。
今、この沈黙は嫌いじゃないな。もっと長く、続いてもいいくらい。もちろん、きちんと話はしたいけど。
シートベルトを外した夢子は助手席から、唇で酒井の頬へ一瞬、触れる。
「おやすみ。また明日ね」
柔らかく艶めいた声の後――助手席のドアが閉められる音が、酒井の鼓膜を震わせる。
ドラマチックなキスとは程遠い、軽い挨拶程度の行為である筈だ。それなら――この、心臓の高鳴りはどう説明すればいいだろう。
運転席から飛び降りた酒井は、玄関ポーチを踏んだ彼女の背中へ吠えた。
「俺、夢子さんのこと好きです!あ――愛してますから、引いたりしません!これから先、何があっても同じです!」
突然上がった大声に反応したらしい、けたたましい犬の鳴き声が夜更けの住宅街に響いていく。
勢い良く振り返り、全速力と思しき速度で酒井へ駆け寄った夢子は、振り上げた右手で彼の唇を塞ぎ小声で叱りつける。
「なんなのもう、ばかじゃないの!何時だと思ってんのよ!」
ぎゅうぎゅうと押し付けられる温かな掌をどうにか引き剥がした酒井は、しっかりと指先を絡めて一度、口付けた。
「夢子さんの全部。自分でも抑えられないくらい、好きなんです」
真っ直ぐ見つめられた夢子は毒気を抜かれたように「あたしも」と呟き、酒井の胸部へぐりぐりと頭を擦り付けて笑う。
「明日からどんな顔して会えばいいんだか……もーだめかも」
苦笑混じりの吐息が夢子の唇から零れ落ちていく。酒井はそれをすくい取るように彼女の顔を上向かせ、本日五度目のくちづけを。
「夢子さんは大丈夫ですよ」
「……なんで」
「俺が、夢子さんを愛してますから」
はっと夢子が目を見張る。以前ガレージで交わした会話を、酒井は覚えていたのだ。
「それ、答えになってないよね」
「いいんです」
繋いだ手、絡めた指先の熱さが心地良く伝わる。あたしはずっとここに、酒井の傍に居たい。
「酒井。さっきの、も一回言ってよ」
「何ですか」
「愛してる、って」
あからさまに視線を逸らされ、思わず忍び笑いが漏れる。もちろん言ってくれたら嬉しいけど、ちょっと意地悪したくなっただけ。
酒井にとってそれは、ほぼ無意識のうちに発した言葉――改めて真正面から乞われると、恥ずかしくて居た堪れない気持ちになった。
「……それはまた、今度にしましょう」
むくれて地団駄を踏む様子は、年上とはいえ可愛らしい。それでいて「このひとには敵わない」と思わせる魅力めいたものが匂う。
「勘弁してください、夢子さん」
やがて溜息と共に「しかたないなぁ」と呟きが聞こえた。
シャツの胸元を夢子に掴まれた途端、スマイリーフェイスがぐんと迫る。爪先立っているのだろう、彼女との身長差は小さくない。
唇が重ねられた時間はやや長かった筈だが、味わう余裕さえ酒井には無かった。
このまま抱き締めたい、と思った時にはもう、彼女は自分から離れていて。
「送ってくれてありがと。また明日ね、酒井」
手を振り、軽やかなステップを踏むように遠ざかっていく後姿をDC2にもたれて見送りながら、酒井は指先を唇へと乗せる。
玄関のドアが開閉され、何分経っても。彼女の柔らかく温かな唇の感触はまだ、濃く深く鮮やかに残っていた。
[DramatiC? DrastiC!]END.