今年の入梅は例年に比べて少し遅かったようだ。昨日よりは幾分涼しい、茜色の夕空。
早番勤務を終えて帰宅した拓海は、額に薄く滲んだ汗を拭った。
微かな違和感に辺りを見回す。空気、雰囲気、なにかがいつもと違うような気がした。具体的にこれとは言えない、なにか。
ふと目を遣った先に在る、女性もののサンダル――来客だろうか。それにしては静かだ。居間から衣擦れの微かな音が耳へ届く。
「おかえりんご」
スニーカーを脱ごうとした拓海を――なぜか仁王立ちで――迎えたのは、数年前東京へ嫁いだ姉・夢子。
呆気に取られたように中腰で固まる拓海を見遣り、夢子はしてやったりと顔をほころばせてワンピースの裾を揺らした。
「おかえり、拓海。元気そうだね」
「…………ただいま。なんで夢子がここにいるんだ」
「ったく、ほかに言い方あるでしょーが。シャワー浴びるでしょ?タオル出しといたよ」
「ああ、サンキュ」
インプは置いてあった。出掛けるとは聞いていなかったが、親父はどこへ行ったのか。
思案を巡らすような表情で察したのか、夢子は指先をフイと――秋名山の方へ――動かす。
「政志さんと出掛けたよ。夕飯いらないって言ってたから、飲んでくるんじゃない」
それを聞いた拓海は納得したように一度頷き、スニーカーを脱ぐとサンダルの隣へ揃えた。
日に当てた布団、ピンと張られたシーツ。部屋の掃除もしてあるようだ。
換気のために開け放たれた窓。自室の空気は清冽にすら感じられる。
手早くシャワーを浴びた拓海が居間へ向かうと、夢子はガサガサと新聞を広げている。
卓袱台に、麦茶の入ったコップがふたつ。夏場、煮出した麦茶は何よりも旨かった。
畳へあぐらをかき、麦茶を半分程流し込んだ拓海は細く息を吐いて――紙面を眺める夢子へ声を掛ける。
「そっちは、元気か?」
「元気だよー。この前お義母さんとお芝居観に行ったんだ。写真見る?」
小さく頷いた拓海へ、ひょいと手渡されたフォトアルバム。動物が印刷されている表紙をめくった拓海の手が止まる。
「この着物……」
「母さんの。覚えてたんだ」
市民会館とは比べものにならないほど立派なホールを背に、穏やかに微笑む夢子の隣には小柄な女性が写っている。
夢子の義母――〈夫〉の母親だ。
結納、結婚式、披露宴。数える程しか会ったことのない、東京の親戚。今後も、顔を合わせる機会は冠婚葬祭程度だろう。
そういえばあの頃、学生服の便利さを再確認したっけ。
麦茶の残りを飲み干した拓海が、じっと写真を見つめる。
いつからか、母は写真の中に居た。
箪笥にしまったままだった母の着物。時折、夢子が広げているところを見掛けた。風を通すため、着付けを練習するため。
留袖、訪問着、付下、小紋。帯、紐、その他こまごました物たちの無事を確認するような、深い慈しみのこもった手つきだった。
拓海にとって着物は〈柄のある布〉に見えなくもなかったが、それでも母が大切にしていたものだと解っていた。
それらは母方の祖母が、嫁入り道具として母へ持たせたものだと聞いた。
夢子がそれらを一人で着られるようになった頃。自分へ鏡越しに話し掛けたことを、覚えているだろうか。
「これ、私には華やかすぎてさ。拓海のお嫁さんに着てもらおうと思うんだけど」
「そんなの、いつになるかわかんねーよ。夢子が結婚するとき全部持ってけ」
よく似合っていると言えなかったことが、今でもいささか心残りではある。
自分が結婚するなんて、これっぽっちも想像できなかった。社会人となった今は少し……ほんの少しだけ、違うのかもしれない。
ただ漠然と、姉とはいずれ家を出て藤原姓でなくなってしまうものらしい、ということは幼い頃から知っていた。
コト、という小さな音に顔を上げる。
「さっきの薄くなかった?」
「いや、ちょうどいい」
「そ。ゼリーと水羊羹、冷蔵庫入れといたから後でお食べ」
「ああ」
卓袱台へ2杯めの麦茶を置いた夢子の、左手で光る指輪。血の繋がった家族は、婚姻届を経て他人のようになってしまうのだ。
家族をつくること。血を繋げていくこと。何代もずっと、絶やすことなく。
その結果、自分が今ここに存在する――なんだか壮大なスケールが思い浮かんだ。拓海は畳へ寝転び、アルバムの続きをめくる。
「こんにちはー」
来客の声に起き上がりかけた拓海を「いいよ」と掌で制し、夢子はワンピースを翻してサンダルを突っ掛けた。
ヒールが鳴らす軽やかな音に夏を思う。
「いらっしゃいませ」
「あら、夢子ちゃん!ひさしぶりだわァ」
「ご無沙汰してます。皆さんお変わりないですか?」
「元気元気。夢子ちゃんも元気そうで――あ、ウチの子やっと片付いたの。もう、やっとよ、やっと!」
声から察すると多分、川井果実店のおばさんだ。娘さんが同級生と結婚したのは先月のこと。確か、親父が披露宴に行ったはず。
夢子がここに居た頃は、豆腐より世間話目当てで来店する客も大層多かったものだ。
視線は開いたままのアルバムを通り過ぎ、天井を見つめる。ゆっくりと瞬きを繰り返す。
「ありがとうございました。またどうぞ」
弾むような姉の声。あの頃当たり前だった光景はもう戻ってこない。
天井からアルバムへ目を移す。自宅のリビング。快晴のゴルフ場。新緑の湖畔。今日着ているワンピースと同じもののようだ。
車の傍らに立つ義兄と夢子。輸入車だろうか。車種もメーカーも拓海には分からない。イツキなら、すぐに分かるのかもしれないな。
世間話を含む接客を終えた夢子が居間の畳を踏んだ途端、上体を起こした拓海と視線が交錯した。
そのまま数秒見つめ合い、どうかしたかと言おうとした矢先、拓海がぽそりと問い掛ける。
「夢子、今日帰るのか?」
「夕飯用意したら帰るけど。なんか食べたいの、ある?」
夢子は座布団へ膝をつき、布巾で卓袱台の水滴を拭う。ぼんやりとそれを眺めていた拓海の視界を、指輪が掠める。
「……いや、特には」
「お昼なに食べた?」
「社員食堂で…………」
「忘れたの!?」
「覚えてるよ。鶏の唐揚げ、黒酢あんかけの定食」
「あんかけ美味しいよねえ。うーん、じゃあ洋っぽいのがいいかなー」
居住まいを正した夢子は二つに畳まれたチラシの束を手に取る。どうやら献立を考えているようだ。
拓海はフォトアルバムを閉じる。姉が幸せな結婚生活を送っていることは十二分に理解できた。
コップは空になっている――冷蔵庫に入っているであろう麦茶のおかわりを束の間迷い、もごもごと「ごちそうさま」を転がす。
「ハチロク元気?」
何気無く投げ掛けられた問いに、唇を開きかけて言葉を飲み込んだ。
数年前まで同居していた姉は、知っていたのだろうか。自分が中学生の頃から――今も続けている、毎朝の〈配達〉のことを。
配達へ出掛ける時も、帰宅する時も、鉢合わせることはなかった。単なる偶然か、それとも。
「……乗って、確かめるか?」
「運転は遠慮したいなぁ。秋名湖あたりにドライブなら付き合うけど」
だってペーパードライバーだし、ハチロクってマニュアルだもんな……ぶつくさと呟いて眉をしかめ、ちびちびと麦茶を飲む。
「夢子もマニュアル乗れるんだろ?そっちで運転しないのかよ」
「面目ない。左ハンドルのマニュアル車、私にゃ無理だわ。まあ元気ならいいのよ、あんたも車も」
「元気って言っても……」
「古いから、今のと違って手間暇かかるんでしょ。拓海ができるとこまででいいからさ。……最後まで、大事にして」
最後と口にする瞬間、どこか寂しげに夢子の髪が揺れた。
ハチロクの最後、って何だろう。いつか別れるときが来るのだろうか。いつ、どこで、どんなふうに。
例えば赤城でエンジンを〈壊した〉あの時みたいに?――――急に、胸のあたりが苦しくなったように感じられた。
「なあ、やっぱり乗れよ。助手席ならいいだろ」
「いいとも。ついでに買物行こ」
拓海の提案を一も二もなく受け入れ、夢子はチラシの裏にサラサラとボールペンを走らせる。献立は何に決まったのだろう。
二つのコップを洗い、表へ出た途端。ぞろぞろと、こちらへ歩いてくる集団が目に入る。何事だ。そして彼らは何者だ。
「ちょっと、待ってよ拓海!」
大声と小走りの足音が背後から迫る。直後、集団――恐らく、商店街の店主達――に、夢子も気付いたようだ。
訝しんで顔を見合わせていると、川井のおばさんが駆け寄ってきた。
「よかった、間に合ったね。夢子ちゃんもう帰るとこ?」
「いえ。皆さんお揃いで……?」
「夢子ちゃん来てるってダンナに言ったら、みんな集まっちゃって。ねえ、あんた」
「地物だ。持っていきな」
「――あ……ありがとうございます、いただきます」
米、野菜、果物なんかの段ボールや袋がどんどん店先へ積まれて、あっという間にちょっとした山が生まれた。
昔絵本で読んだ『笠地蔵』のような光景さながら。
いや待てよ。べつにオレらは地蔵に笠やったとか、そういうきっかけがあったわけでもないよな。川井のおばさんが来ただけだし。
じゃあ、笠地蔵は違うか。だとしたら、今目の前で起こっているこれは一体なんなんだ。
「しっかしキレイになったなあ!すっかり都会のベッピンさんだわこりゃ」
「いやー私そういうの本気にしちゃいますから。ありがとうございます、ふふ」
「これ、昔夢子ちゃんのアイデア貰ったやつ。覚えてないかもしれないけど」
「うわっ、とうふぱん現役なんですか!覚えてますよ、嬉しいですホント」
店主達と話す夢子は、なんだかいきいきとしていて楽しそうで――ハイタッチでもしそうな勢いだ。
ドライブはまた今度。諦めかけたその時、夢子が振り返り弟の名を呼んだ。
「拓海」
「――ああ」
姉の言わんとしていることは分かった。
棒立ちで居た拓海が店頭の商品を確認すると、だいたい人数分はあるようだ。配分を考えながら手を洗う。
拓海がビニール袋へ詰めた豆腐や油揚げを、夢子が手渡していく。
「どうぞ、召し上がってください」
「いやいや、いいって」
「いえ、こんなにいただいてしまって……父に何て言われるか」
「そういや文太居ねえな」
「午後から政志さんと――」
「あら、出かけたの?せっかく親子水入らずなのにねえ」
「照れてんだろ。おれらも長居しちゃあ悪いな。夢子ちゃん、今度ウチにも顔出してくれよ」
「ええ。ぜひ」
一人一人へ袋を手渡すと「今度は旦那もつれてこいよ」、「元気でな」……口々に声を掛けてくれる。
何度も頷いて、握手をして。夢子の目が潤んでいるように見えるのは、オレの気のせいなのかな。
手を振って見送ると、店の前は嵐が去ったように静かになった。
ほう、と吐いた息が夕空にふたつ重なり、思わず顔を見合わせて笑う。ああ、よかった。泣いてはいないみたいだ。
「親父、帰ってきたら驚くよな」
「豆腐が化けてんだもん、びっくりするよ。でもほんと、ありがたいねえ。地縁は大事にしなきゃ」
「……夢子は大事なもんが多すぎるんだよ」
「一緒に背負う人がいれば、なんでもないのさ」
「ふーん。そういうもんか」
店先のシャッターを半分下ろした拓海は、サンダルを脱ぐ姉の背中へ投げ掛けた。
「なあ、メシ食ってけよ。家まで送ってく」
「や、送ってくれるなら駅でいいよ。拓海、帰るの遅くなっちゃう」
「オレ時間あるから。明日、遅番」
「そっか。……じゃあ、お願いしようかな。ハチロク?」
「インプの方がエアコン効くけど……夢子、そんなにハチロク好きだったんか」
「少なくとも、あんたよりは付き合い長いからねえ」
しじみのパック片手にフフンと口角を上げた。その表情は妙に誇らしげで、自然と苦笑が浮かぶ。
「当たり前だろ、オレの姉貴なんだから」
「まあね。これ明日使いなよ。砂抜きしとく」
「そのくらいオレやるよ」
「おー。率先してやるってのはイイねえ。姉貴カンゲキ」
「何言ってんだ」
拓海が唇だけで呟いた「ばか」の二文字。夢子は破顔一笑、左手の中指で拓海の額へビシッと一撃を喰らわせた。
電光石火のでこピンに思わず「てっ」と漏らした拓海をにまにまと見下ろし、犯人はしじみを掲げて台所へ飛んでいく。
麦茶。サンダル。ワンピース。梅雨が明けなくたって、もう夏みたいなもんだな。
拓海は額をさすりながら一人頷いて米袋を持ち上げた。
つまづいたり、転んだり、立ち止まったり。その都度、手を差し伸べてくれる人が、一緒に考えてくれる人が居る。
重たい荷物を一緒に持つ人が居る。そう思えば心も軽くなる。人は決して独りじゃない。
真っ直ぐに歩む姉を――姉の背中を、信じたいとただ深く思う。
揃えられたサンダルの隣でスニーカーを脱ぎ、拓海は夢子を追ってゆく。
[そうして ぼくらは いきてゆく]END.