碓氷の夜に
避暑地・軽井沢。辺りが夕闇に包まれ始める頃には、真夏の賑わいも熱も、明日に備えて少しばかりおとなしくなる。
テーブルに並んでいるグラスの氷は、我が物顔で紅茶を薄めていく。


「やっぱレモンでしょ。レモン味、ってよくいうじゃない」
ストローでざくざくとアイスティーをかき回しながら沙雪が笑い、夢子も納得顔で幾度か頷いた。

夢子はファーストキス覚えてる?」
「ん、覚えてる。歯磨き粉のミント味だった」
「はァ?何それ。ファーストキスってフツー、もっとキレーな思い出でしょォ?」
「そんなこと言ったってしょーがないじゃん、事実だし」
大袈裟に唇を尖らせ眉根を寄せた夢子が、沙雪へ精一杯抗議の意思を示す。
そして思い立ったように真子へ問い掛けた。
「ねえ、真子は?」
「えっ?」
「まさか、キスしたコトないわけないよね?」
問いを受けた真子は俯くように視線を外した。
ぱちぱちと瞬きをした夢子は、真子の顔を――穴が開くほどに――まじまじと見つめる。
「……マジで?」
夢子ー、真子に聞くだけムダだって」
「だって沙雪、いくら何でも!」
「……いいじゃない、べつに」
俯きがちのまま乱暴にオレンジティーをかき混ぜる真子を見遣り、夢子は心底呆れたように深く溜息を吐いた。
沙雪へ視線を移すと、肩をすくめて苦笑を浮かべている。
「真子さァ、中学生よりオクテなんじゃない?」
「ホントホント。言ってやってよ、夢子
「か、関係ないでしょっ」
「……あ、でも秋名のさ、池谷にはバージンあげてもいーとか言ってたじゃん」
「――ちょっと沙雪、」
「真子ってば極端すぎー!」
夢子、声大きいよっ!」
3人で過ごす夏の夜。もっと暗くなったら碓氷峠へ行って、そして朝まで走る。
そんな、いつもと変わらない一日になるはずだった。



「おねーさん達、オレらと遊ばない?」
背後から声を掛けられ、夢子は半笑いのままで振り返る。ピンクブラウンに染めたばかりの髪が静かに揺れた。
チャラい格好の男性が2人、夢子達に満面の笑みを向けている。
近辺には民宿や大学の宿泊施設も多い。きっとどこかの大学の、お遊びサークルの合宿だろう。
「みんな地元?オレら東京から――」
「車、何乗ってんの?」
猫撫で声を遮って夢子が問う。彼等は少し驚いたように夢子を見つめ、そして怪訝そうに車種を述べた。
「……RX-8、だけど」
「一台?」
「ああ。それが何か……」
「ね、どーする?」
訝しげな表情を浮かべる彼等の問いには答えず、沙雪と真子を見遣ると、2人は夢子を見つめたまま諦めたように笑っている。



夢子の好きにしたらいいよ。ねぇ、真子」
「……うん。夢子に任せる」
「よし。おにーさん達、峠行こっか」
「は?」
「私とバトルしてソッチが勝ったら、私達3人が一晩付き合ったげる」
「……?」
「そのかわり、私が勝ったら大人しく帰って」
椅子から立ち上がった夢子は「あ」と声を漏らし、思い出したように付け加える。

「私達の地元だから、ハンデあげてもいーよ」
夢子の言葉を受け、彼等は神妙な面持ちで背を向ける。傍らで仁王立ちとなった沙雪がそれを見遣り、憎憎しげに呟いた。
「……あいつらきっと、女なんかに負けるはずないとか言ってんのよ」
「沙雪、何怒ってんの?」
「だってバカにされてんのよ?夢子、ムカつかないの?」
「んー、もう平気。慣れたのかな」
「はーぁ……まったく。慣れちゃダメよ、こんなのに」


沙雪は少し躊躇った後に夢子の右手を取り「ホントは」と呟いた。
夢子のバトル、あたし達いッつも心配してんだから」
「沙雪……。ごめん、なさい……」
「謝んなくてもいいけどさ。夢子がやりたいなら止めないけど、絶対ムリしないで。ケガしてもダメだからね。約束」
「うん。無理もケガもしない。約束する」
2人の会話を見守っていた真子がそっと立ち上がり、控えめに――確かな決意を込めて呟く。
「あたしも、止めないよ」
「……真子」
「沙雪も、あたしも。夢子のこと、信じてるもの」
「ありがと。真子のバージンは私が守るからね!」
「……あのね、夢子。お願いだからそういうこと言わないで……」
真子が困ったように笑み、夢子の左手を握る。両手を包み込む柔らかくしなやかな感触に安心感が湧き、夢子は微笑った。



「なあ」
声が飛び、反射的に顔を上げた。夢子が見つめるその先、男2人が薄く笑っている。
「本当にオレらが勝ったら、その……」
「約束は守るよ。女に二言はないから」
彼等は値踏みするように夢子を見つめた後、夢子と手を繋ぐ沙雪、真子の身体を視線でなぞっている。
やがて互いに目配せをして、唇の端で笑った。
どうやら彼等の御眼鏡に適ったようだ。――ちっとも嬉しくないけれど。

「で、峠ってのはどこだ?案内してくれよ」
はっきりと嘲笑の意味合いを含ませた声。沙雪の掌に、僅かに力が入ったことが分かる。
「ついてきて」
夢子は両手にしっかりと力を込めた。
握り返してくる2人の掌から、ひどく穏やかな熱が伝わる。それは驚く程に心地良かった。






碓氷峠には、軽やかな虫の声が輪唱のように絶え間なく響いている。
説明を終えた沙雪が、「それで」と髪をかき上げた。
「先行、後追い、どっち?」
「後追いで行かせてもらうよ。オレはバックが好きなんでな」
野卑な笑い声に、3人は思わず眉をひそめる。
「ヤな感じ。ていうか引くわ」
「気をつけてよ、夢子
「うん。いってくる」
夢子は沙雪と真子へ手を振り、愛車――S14のドアを開ける。
静寂が満ちる車内、シートへ身体を埋めてベルトを装着し、エンジンを叩き起こす。
心地良い振動を受け、唇へ薄っすらと微笑を浮かべた。
バックミラーに映るRX-8は夢子の後ろに張り付いて、今や遅しとスタートを待っている。

初めて走るコースで後追いを選んだことは正解だろう、と夢子は思う。
知らない道なら、前を走る車を追い掛ける方が断然ラクだ。
ここ碓氷に限っては追い抜きのポイントは少ないが、油断は出来ない。秋名のハチロクの例もあるし。
今回の相手がどれほどの腕前か、なんてことはわからないけれど、今の自分ができる精一杯で走ろう。
後方からのライトパッシングを受け、夢子はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。





C-121を振りっぱなしで駆け抜け、うん、と夢子は頷いた。
立ち上がりで多少ベストラインから外れたが、決して悪くない。今日の自分は乗れている。愛車の機嫌もすこぶる良い。
一瞬バックミラーへ視線を遣り、RX-8が居ることを確認する。
地元の車にそれほど遅れることなくついて来られるのだから、彼はきちんと「巧い」ドライバーなのだろう。
テクニックのある者と会えたことに嬉しさを感じた直後。


後方を走るRX-8のヘッドライトが一閃、全身に衝撃が走る。
心の表面をざわざわと逆撫でるような音が幾度か背後から上がり、その度に自分ごと揺さぶられる。
それが「ただの」プッシュではないということ。疑念の余地は欠片もなかった。
バクバクと鳴り出す心臓、ガードレールへ引き寄せられるような感覚を捻じ伏せ、崩された体勢を立て直し始める。
夢子は短い舌打ちを何度も繰り返しながら、前方を駆けていくRX-8を睨んだ。
随分差がついてしまった。抜き返すのはちょっとツラい、か?……いや、まだだ。まだ終わったわけじゃない。
勝負は最後の最後までわからない。自分に言い聞かせるように夢子は呟く。ステアリングを握る掌に、じっとりと汗が滲んでいる。



真っ赤なRX-8のテールまで、あと数十センチ。抜き返すことは出来なかった。



のろのろと停車したS14へ駆け寄る2人――沙雪と真子は、困惑と沈鬱を混ぜたような表情を浮かべている。
「やられた」
運転席から降り立つ夢子の一言で、沙雪の顔色が変わり、真子が息を呑む。
投げ遣り気味に指したリアサイドには、明らかな傷が見受けられた。響き渡った怒号は沙雪のものだった。
「ちょっと――あんた、ぶつけたでしょッ!」
「はあ?」
「見なさいよココ!! ただ突付いただけじゃないでしょコレ!」
「知らねーな。最初からそうだったんじゃねえの?なぁ」
「そうそう、言いがかりだろ。こいつがやったって証拠でもあるんなら話は別だけどな」
「……プッシュが悪いってんじゃない。限度ってモンがあるでしょ。こんなやり方、恥ずかしくないの?正々堂々勝負しなさいよ!」
「うるせぇな。お前には関係ねーだろ」
「悔しかったら証拠見せてみろよ。あんのかよ?」

「あるよ」

2人へ更に噛み付こうとする沙雪を、夢子の声が制した。深く静かな怒りが滲んでいる。
小ぶりのノートパソコンを抱え、せわしなく指先を動かしている夢子を見遣り、沙雪が問いを投げ掛けた。
夢子。編集、どのくらいかかる?」
「3分あれば充分」
頷きでそれを受けた沙雪は早口で彼等へ尋ねる。答えを聞くつもりなど、端から無い。
「S14に載せてるカメラの映像、ネットに上げるわ。何もしてないんだもん、誰に見られてもマズいコトないのよね?」
「あ。夢子、モザイクかけなきゃ」
「そんなもん必要ないわよ真子。夢子、ナンバーも顔も全部晒してやんな」
「ごめん、もう加工しちゃった」
「まったく……あんた作業早いのよ」


彼女達の会話を呆然と聞いていた2人は、自分達が最早「有利な立場」には立っていないことに気付く。
互いに視線を合わせ、ややあって蚊の鳴くような声でドライバーが謝罪を口にした。
「……悪かったよ」
「はァ!? こんなヘコましといてソレだけ!? ホントに謝んだったら土下座しなさいよ土・下・座ッ!!」
「もー。そんなのしなくていいって沙雪」
「ああもう!だから夢子は甘いのよッ!こいつらに言うことないの!?」
不意に手渡されたパソコンを慌てて受け取った真子は、離れていく夢子の背中を眺め、それから沙雪へ視線を移す。
男達への憤りを隠そうともしない沙雪は、静かに歩を進める夢子を目で追っていた。少し心配そうに、見守るように。





…………何故、オレは夜空を見上げているのだろう。硬い地面を、嫌という程背中に感じている。うまく、呼吸、が、できないのは、





彼の疑問はすぐに解ける。
自分を見下ろしているのは、つやつやと濡れて何処までも黒いビー玉のようなふたつの瞳だった。
やがて、これ以上ない程の静謐さをもって「彼女」が呟く。全ての感情を忘れてしまったかのような、色の無い声で。

「ねえ。〈次〉はないよ。絶対ゆるさないからね」

爪が喰い込む程強く掴まれている喉奥で「ひっ」と音が出た。
それは自分の声なのに他人事のように鼓膜を震わせ、現実感はどこまでも稀薄だ。
逃げ場を求めているのか、アスファルトを掻き毟るように指が踊っている。

「バイバイ、おやすみ」
ニッコリと笑った夢子が彼の喉から手を離して立ち上がり、幾度か咳込む様子を可笑しそうに眺めている。


「ねえ真子、車交換して」
「ん……ハイ、鍵。パソコン積んでおく?」
「うん、ありがと。沙雪、横乗ってちょーだい」
「オッケー。じゃあ夢子が先行ね」
腕を組んだり髪を撫でたり、まるで仔犬のようにじゃれあいながら、それぞれが車へ乗り込んでいく。
遠ざかっていく2台のテールランプを見るともなしに眺め、彼等はぼんやりと思った。



女3人寄れば姦しい――――



身体の奥から込み上げてくる甘酸っぱい気持ちと胃液は「何か」に似ている。
「おい……大丈夫か?」
「……ああ……」
彼等は溜息を吐き、どちらからともなく肩を叩き合った。
やがてセルを回す音、ロータリーエンジンの始動音、気の抜けた炭酸のような走行音が碓氷峠に響く。





無人となったその場所はまるで、何事も起こらなかったかのように静まっている。
いや――事実、何も起こらなかったのだ。はじめから、なにも。
夜の碓氷峠、聞こえてくるのは虫の声。





[碓氷の夜に]END.