ゆめうつつ
『風邪ひいた 一応 病院 行ってくる』
これだけのメールに3分もかかってしまう。……我ながら情けない。だが、今の自分にはこれが限界だ。
智幸は携帯電話を閉じると眉間を揉み、溜息を漏らす。風邪をひくなんて、一体いつ以来だろうか。
金曜の今日から仕事を入れていない、気ままな週末だったことは不幸中の幸いと言えよう。
原因として思い当たることといえば、昨夜の――まあ、判ったところで治るわけでもなし。
ベッドからのろのろと起き上がった智幸は、外出の準備に取り掛かることにした。



混雑する病院から自宅へ辿り着いた頃には、既に疲弊しきっていた。気休め程度に処方された薬を、どうにか流し込む。
片手で開いた携帯に、彼女からの着信もメールもないようだ。ほんの少しだけ〈期待〉をしていた自分に気付く。
メールを送信した時刻は恐らく、彼女が自宅を出た頃だっただろう。だとしたら、昼休みには何らかの連絡が入るだろうか。
明日は来ると言っていたが、このままでは風邪をうつしてしまうかも知れない。
久し振りの逢瀬を断るのは気が引けるが――もちろん俺だって彼女に会いたいのだから残念だ――後でまたメールでも打っておこう。
今はただひたすら気だるく、眠い。全身を支配する倦怠感に頭を振る。
身体をベッドへ投げ出すとすぐ、深海へ飲み込まれるように目蓋を落とした。





眼前に極彩色が広がり、視界の全てを覆われている。
これは夢で、熱に浮かされているせいだと解っていた。
内容など有って無いような、目を開けた瞬間に、見ていたことすら忘れてしまうような夢。
何かが――いや、誰かが眼前を横切り、ああ『彼女』だ、と。思った瞬間。
玄関の鍵が何者かによって開けられる、ひどく無機質で無愛想な音に身体が揺れた。





誰かの気配だけが届く。鍵とチェーンの施錠音。帰宅した際、チェーンを掛けていなかったことを思い出す。
スリッパの足音が洗面所へ向かい、水音が微かに聞こえる。
しばらくして躊躇いがちに、ここ、寝室のドアが開けられる音。
智幸はようやく、朦朧とする意識の中で目蓋を開ける。これは、夢だろうか。頭を覗かせていたのは、彼女――夢子だった。
夢子と目が合って夢ではないことを認識し、慌てて上体を起こした途端、ひゅ、と喉が鳴った。全身で咳をする。
やっと呼吸を落ち着けて投げ掛けた疑問――しかし途絶えがちの単語しか出てこない。
「お前、仕事、」
「有休溜まってたから消化。急ぎの案件もないし」
掠れている智幸の声に眉根を寄せ、夢子は答えた。


「……昨日の長電話さ、智幸はお風呂上りだったんだよね。付き合わせてごめん」
否定も肯定もしない彼の表情は冴えない。枕元へ膝をついた夢子は、智幸を寝かせて布団をかけ直す。
されるがままの智幸をゆるやかに見下ろしながら、幼子をあやすように問い掛けた。
「病院、行ってきたんでしょ?」
「……ああ」
「薬飲んだ?」
「ああ」
「そっか。……じゃあ私がする事もないか。寝てなよ」
立ち上がり離れようとする夢子の腕を掴む、智幸の熱い手。思ったよりも強い力。




「ここに居てくれ、夢子
化粧を落としたあどけない素顔の夢子は、中腰のまま智幸を凝視した。




「…………珍しい。カゼのせい?」
「そうだ」
躊躇うことなく肯定する智幸に苦笑を返す。
夢子は掴まれていた左腕を解いて立ち上がり、羽織っていたジャケットを脱ぎ始めた。
一つにまとめていた髪を下ろし、ブラウスのボタンを外し――次第に露わになる素肌に、智幸は視線を何処へ置いていいのか困惑したまま言う。
「……着替え、クローゼットに」
「いらない。寒くない」
そして下着のみの肢体をベッドへ滑り込ませた途端、その〈熱〉に驚いて声が上がる。
「うわ。智幸、熱っつい」
「悪い」
「や、謝んなくていいって。びっくりしただけ」
ゆっくりと、ベッドの中で互いの体温が溶け合っていく。


やがて腕を突き出してきた夢子を、智幸は怪訝そうに見遣る。
「腕枕。いつもしてもらってるから、今日は私がしてあげる」
「……腕、疲れるぞ」
「いいの」
有無を言わさずねじ込まれた温く柔らかい二の腕が、智幸の火照った頬に触れる。
「ひとの頭って、やっぱり結構重いのねえ」
「痛くなったら言えよ」
「大丈夫。智幸は早く寝なさい」
その言葉に従うように大人しく目を閉じる。赤みを帯びている頬を撫でると、無精髭が掌をくすぐった。
夢子の胸元へ顔を埋めた智幸の呼吸は、普段よりも荒く速い。熱い吐息が肌を滑る。
「……しんどい?」
問いへ緩慢に首を振った智幸は、やがて思案するようにゆっくりと唇を動かした。




夢子が、居るならすぐ治る」
智幸は自分がどれほど重大な発言をしたか、まったく認識のないまま目を閉じている。
自分にすっかり身体を預けている智幸が愛しく感じられて、夢子は顔をほころばせた。





――――俺はまた、夢子の夢をみるのだろうか。
落ちていく意識の中でしがみ付くように抱き締めた夢子の存在は、確かにここにある現実。





[ゆめうつつ]END.