その赤は、響く。
今思い返してもそれはひどく、心を乱す「赤」だった。
明け始めた夜、冷え切った妙義山で出会った赤――――アデン・レッドを纏う、プジョー206RC。
目の前を駆け上がっていくそれに、届きそうで届かない、もどかしさと歯痒さ。
身体の芯から溢れるように湧き上がる熱は、これまで感じたことの無い快感を刻み付けた。






苛々と信号を待っている慎吾がふと視線を向けたのは、コンビニの駐車場の隅で俯いて携帯電話を操作している女性。
彼女の傍らに在る206RC。その、ボディカラーから目が離せなくなった。

間も無く信号が青に変わる。
後列の車から激しくクラクションを鳴らされていることにすら気付かず、慎吾はただ「赤」を見つめていた。




「見ィつけたッ!!」

逃がすまいと彼女の手首をしっかり掴む。と同時に、そのしなやかさに驚いた一瞬の動揺が慎吾の脳裡に滲んだ。
彼女は突然の襲撃に驚く様子もなく緩慢にこちらを振り返り、なにやら面倒なことになった、という表情を浮かべている。
「……なに、誰?手、はなして」
「お前、オレのこと覚えてるか?」
「…………?」
「まァいーや。お前、オレとバトルしろ」
「バトル?……ケンカするの?」
「オレは女殴らない主義なんだよ」
「それって割と普通だと思うけど」
呆れたような吐息が白く立ち上った。彼女は再び携帯電話へ視線を落とす。
こちらを見ようともしない彼女に痺れを切らした慎吾は、背後に在る赤い車を指した。
「その車、忘れてねェからな」
「人違いじゃない?結構売れてるよコレ」
「絶対これだ!間違いねえって言ってンだろ!」
溜息を吐いた彼女は携帯電話を畳み、嫌味たらしく呟いた。
「……うっざ……」
「なンだとコラ!」
手首を強く掴み直した途端、不意に知らされた彼女の名前。




「どうした、夢子




「啓介君」
安堵したような彼女の声色が、やけに癪に障った。彼女が呼んだ「名前」が聞き間違いでないのなら余計に。
ペットボトルを2本、右手に提げている男に見覚えはあった。
「高橋弟……」
「お前――、ナイトキッズの庄司だな。夢子に何の用だ」
強い口調にたじろいで力を緩めた途端、脱兎のごとく駆け出して啓介の背中に隠れる夢子を見遣り、慎吾は小さく舌を打つ。
「……チギられたんだよ、そいつに」
「はぁ?いつ、どこで」
「先週の火曜……日付じゃ水曜か。妙義の上りで」
「おい、いくら上りったってお前の地元だろ」
「……だからムカついてンだろーが!言わすな!」


激情を受け流していた啓介は、ふと何かを思い出したように慎吾と視線を合わせた。
「……火曜の夜?」
「ああ。忘れねーよ」
夢子、そん時オレと約束してなかったか?」
「あーバレたあー」
振り返った啓介に訊ねられた夢子は苦笑を浮かべながら、ぺちぺちと額を叩いている。
「お前、オレとの約束破ってまで妙義行ったのかよ!」
「だってタイヤ履き変えたばっかで嬉しかったんだもん」
「ウソだろ……オレはタイヤに負けたのか……!」

肩を落とす啓介を眺めて微笑っていた慎吾は、自分が無視されていることに気付く。
「おい、オレの話どーなってんだよ」
「るっせーな、それどころじゃねぇだろ察しろよ」
「ンだと?」
不意にエンジン音が耳に入る。


ふと気付くとそこに居るはずの夢子の姿は無い。運転席から身を乗り出し大声で叫ぶ夢子を見付けるも、既に遅かった。
「そこの人、バトルしたいなら啓介君が相手するからー!」
「――夢子ッ!」
「何だそりゃ!待てゴラァ!」
慌てて引き留めるが、夢子はフランスが誇る駿足を駆って姿を消し、後には呆然と立ち尽くす2人が残された。



どちらからともなく溜息が零れ、束の間白く揺らぐ。
「……ったく、夢子のやつ……」
「お前ら付き合ってんのか?」
「いや、あいつオレのこと男として見てねえし」
「へェ……。お前みてーなボンボンでもフラれんのな」
「うるせェよ」
夢子が居ないのなら、高橋弟に用は無い。
興味を削がれた慎吾が背中を向けた途端、啓介の棘のある口調が足を止める。
「庄司」
「あ?」
「本気で夢子を狙うなら、オレが黙ってねーぞ」
「どーするってンだよ」
「お前を潰す。全力でな」
「――は。上等だよ温室育ちが」
こちらを振り返りざまに中指を立てながら、下卑た嘲笑を浮かべた慎吾が心底憎たらしく思え、啓介は唇を噛み締めた。






ああ――――どうすれば伝えられるだろう。

夢子に乱された心の昂りを、寸分違わず夢子へ。






愛車のシートに身体を埋めた慎吾はゆっくりと、まるで彼女の――夢子の心に触れるようにステアリングを握り締めた。





[その赤は、響く。]END.