ジューン・ブライド。
6月に結婚した花嫁は幸せになれる――由来は諸説あれど、女性の憧れであることには変わりない。
例え四季のある日本では、6月が梅雨の最中だとしても。
年度始めのスケジュール調整に頭を悩ませ、自宅へ着いたのは23時。
宅配ボックスの荷物を取り出した後、覗いたポストには真白な封筒。華々しい[寿]シールで中身が分かる。
差出人は高校時代の同級生。
エレベーターに乗り込んでボタンを押した時、夢子は気付いた。
連絡を取り合う〈女友達〉の中、独身で居るのは自分だけになったことに。
がむしゃらに仕事をこなしてきた夢子がふと立ち止まり、振り返る。
これまで、自分にとってベストな選択をしてきたつもりだ。後悔はない。……恐らく。多分。きっと。
丁寧に封を切った夢子は、招待状に記された文字を目でなぞる。
凝った肩を揉みながら溜息と共に呟いた。
「6月、ね」
海の向こうの神様は、箱根の花嫁も祝福してくれるだろうか。
無敵の晴れ女だった〈花嫁〉のお陰だろう。とうに梅雨のはずが、今日は朝から快晴。
昨日の天気予報は、大きく外れたことになる。
芦ノ湖上を風が滑り、夢子のシフォンワンピースを揺らして通り過ぎていった。
ウエディングソングが流れ始め、司会が高らかに二人の入場を告げる。
間も無く姿を現したのは、深い青色をまとったロードスター。ぱっちりと目を開けたNA6CE。
運転は、モーニングコート姿の新郎。柔和な笑みを浮かべている。
助手席で微笑む花嫁は純白のドレスに身を包み、優雅に手を振っていた。
オープンカーの利点を活かした演出に、夢子は素直に拍手を送る。
式は滞りなく進行した。
しかし終盤、にこやかな司会が発した言葉に、夢子は少しだけ途惑いを覚える。
『ブーケ・トスを行います。未婚女性の方は前へどうぞ』
「ほら夢子、行ってきなって」
「そうそう。もぎ取っておいでよ」
「えー、いいよ恥ずかしい。若い子いっぱいいるし、あの子達で……」
「何言ってんの。せっかくのチャンスなんだから」
「ほら、行った行った」
既婚の友人達に背中を押され、重たい足で歩を進める。
ブーケ・トスに意欲を燃やすことは、『私は独身です。結婚したいです』と公言するのと同じだ。
最後列に突っ立っていた夢子は、ふと花婿へ視線を移す。
花嫁の歴代彼氏からは随分掛け離れている。人畜無害の優男、といった印象。
恋愛と結婚は違う?もし同じだとしたら、それは幸せなことだろうか。
『それでは、お願いします』
司会の合図を受け、未婚女性達から大きな歓声が上がる。
花嫁が背を向けて高く放り投げた小さな花束は、まるで最初から決まっていたように綺麗な弧を描き――夢子の手中に収まった。
どよめきと拍手が起こり、夢子は手元に痛い程の視線を感じる。
困惑気味に微笑を浮かべていると、花嫁が夢子へ駆け寄った。
彼女と視線を合わせた夢子は、「幸せ」とはこういうものだと、ほんの少しだけ理解した。
「結婚、おめでとう」
「ありがと、夢子。次は夢子の番だよ」
「だといいね。入場、良かったよ。ロードスター、ダンナさんの?」
「そう。趣味用の車みたいだけど、私はよくわかんない」
「素敵なダンナ様を捕獲したようで、なによりです」
「当然。今度うちに遊びに来てよ」
「本気でお邪魔しに行くね」
旧友は突然、右手の人差し指を夢子の鼻先へ突き付ける。
繊細なレース細工が施されたグローブの美しさに見惚れている夢子を諭すように、花嫁がそっと呟いた。
「あんたも早く結婚しちゃいなさい」
夢子は苦笑して「はいはい」と肩をすくめた。
駐車場で待っている〈相棒〉を目にし、夢子はほっと息を吐く。
引き出物、ビンゴの景品、どれも壊れ物ではないようなのでカーゴへ積む。受け取ったブーケは、そっと助手席へ。
普段は絶対に履かない高さのヒールを脱ぎ捨て、くたびれたシューズへ履き替えた。
運転席に腰を下ろすと、シートへ背中を預けて目を閉じる。
30秒程経った時、夢子はゆっくりと目を開けてシートベルトを装着した。
左足をクラッチペダルへ置き、右手の指先をエンジンスイッチへ伸ばす。
彩られた爪先に視線が移る。無駄に長いネイルチップは外した方が良いだろうか。
でも、見せたい人が居る。都合良く〈そこ〉に居るかどうかは分からないけれど。
夢子は一度深呼吸をし、小さく頷いてエンジンを始動させる。
相棒・インプレッサ――GRBは直ぐに目を覚まし、全身を歓喜に震わせた。
温かな夜風に髪が踊る。
行きつけのヘアサロンで作ってもらったスタイル、それに合わせたメイク。きっと一人では再現出来ないだろう。
ヤビツ峠、頂上駐車場。夢子は華やかな指先をピンと空へ伸ばし「結婚か」と呟いた。
「やっぱりまだ考えられないな。第一、相手も居ないし」
「なんてカッコしてんだよ、夢子」
小さな独り言に、背後から思わぬ反応。
右手を下ろしながら振り返ると、視線の先に居たのは大宮智史――『チーム246』のリーダーであり、夢子の友人でもある男。
いつもなら聞き逃さないNB8Cの音すら耳に届かなかったことに驚く。我ながら珍しく感傷に浸っていたのだろう。
夢子は足もとを見せ付けるように、ワンピースの裾を両手でふわりと持ち上げた。
「ちゃんとレーシングシューズですよ」
「そういう問題じゃないだろ」
「じゃあ、どういう問題?」
ヒラヒラと裾をはためかせた夢子が小首を傾げる。
それを眺めていた智史は何か言い掛けるように唇を開きかけたが、言っても無駄だと思ったのか、小さく溜息を吐いた。
「海でも行くか」
「どっから海が出てくんのよ」
「夢子の服と車」
「?」
「海の色だ」
招待状を受け取った翌日に衝動買いしたマリンブルーのワンピースを見下ろし、思わず笑みが零れる。
「まぁいいけど……空腹でたまりません」
「メシ食ってこなかったのか?あのホテル、フランス料理で有名なんだろ」
「ちょこっとつまんだくらい。コンパ状態だったし。あ、お酒は飲んでないからね」
「そもそもお前下戸だろ」
夢子は頷き、小さなバッグから名刺の束を取り出すと「見てよコレ」とトランプの手札よろしく広げて見せた。
知名度の高い、大手企業の社名がズラリと並ぶ。
それを受け取った智史は、印字をしげしげと眺めながら感嘆するように溜息を零した。
「すげーな、モテモテじゃん夢子」
さほど関心がないのか、夢子はGRBのフロントフードを撫でている。愛しくてたまらないものに触れるような仕草で。
「あたしのコイビトはこのコだけよ」
「寒ッ」
「それは置いといて、早く行こーよ。おなかすいた」
「ったく、ここ来る前にどっかで食って来りゃ良かったろ」
「こんなカッコで適当なお店入れないし、ひとりで食べるのも味気ないし」
「……それじゃ真っ直ぐ帰れば良かっただろ。何しに来たんだよ」
「何って、智史に会えるかもって思ったから」
智史が呆気に取られたように口を開け、何度か目を瞬かせる。
硬直したような智史の手から名刺を取り返し、それをバッグへ突っ込んで夢子が振り返った。
「乗るの?乗らないの?」
「……乗り、ます」
「どーぞ」
助手席のドアに手を掛け夢子が笑う。
「お。夢子、これってブーケ?」
白を基調とした小さな花束を取り上げた智史は、物珍しそうにそれを眺めている。
「あ、後ろ置いといて。それ受け取ったら次の花嫁になるらしいよ」
「へえ、良かったじゃん」
「別に良かないよ。今は仕事と車が充実してるからさー」
「んなこと言ってたら一生独身だぞ?」
「それも一つの生き方だと思うけど」
「……そうかもしんねぇな」
夢子は静かに愛車を発進させた。
車内は微かなロードノイズで満たされている。
「智史は結婚したいって思う?」
「まぁ、人並程度には。って言っても金ねぇしな」
「知ってる。あたしさ、なんとなくで結婚するのは嫌なのよね」
「なんとなく?」
「ガツンと手応えがある恋愛の先に在ってほしい、って……でもコレってワガママかね」
「いいんじゃないか。夢子らしいと思うぜ」
「褒め言葉として受け取るわ」
夢子は唇に笑みを浮かべ、4速へ放り込んで5速へ繋ぐ。
しなやかにシフトチェンジを繰り返す夢子の左手を見遣り、助手席で智史が問うた。
「なあ、夢子。お前、走ってて楽しいか?」
「はぁ?何それ」
「一歩間違えたら、死ぬかも知れないんだぞ」
「重々承知の上よ。智史と一緒なら、それもイイかもね」
まだ死にたくないけど――と、アクセサリーを選ぶような口調で夢子が呟いた。
「あたし今死んだら絶対成仏できないよ。やりたいコトなんか、いっぱいありすぎてわかんないし」
「例えば?」
「んー……仕事以外だったら、アレかな。プロジェクトD」
「ああ――」
「神奈川は厳しいってコト、教えてあげなきゃいけないじゃない」
「おい、夢子が走るつもりか?」
「冗談。あたしは傍観者よ。下りは智史でしょ?上りはコバのエボか34あたりかな。あ、FD対決でも面白いかも」
「ったく、面白がってんなよ。コッチは真剣なんだから」
「失礼な。あたしだって真剣よ?」
「どうだか」
ふ、と互いに笑みが零れ、それはひどく穏やかに車内を漂う。
心地良い沈黙を、智史が突然終わらせた。
「夢子。俺と、してみるか」
「するって何を」
「ガツンと手応えのある、恋愛ってやつ」
「は――」
夢子は進行方向を向いたままで笑いかけたが、うまく笑みが出てこないのに気付いた。
自分が動揺していることに気付き、それがまた大きな動揺を誘う。
「……やだな、からかわないでよ。そんな冗談、智史らしくない」
「俺は本気だ」
声色から察するに、それは本当だ。彼が恐ろしく真剣だということを知る。
夢子はステアを強く握り締めた。ネイルチップの先端が掌へ食い込む。
左手の甲の辺りに視線を感じ、ひどく落ち着かない気持ちが背中を這った。
「智史のこと、友達だと思ってんのに……変に、意識させないで」
「上等。夢子は俺のことだけ考えてろ」
「…………、あのさ、」
「何だ」
「……あたし、智史のこと好きだよ」
「ああ」
「でも、その……け、結婚を前提にっていうのは、えっと……」
「んなの気にしなくていい。急がねぇよ、俺は」
智史はフイと視線を逸らし、おもむろにパワーウィンドウのスイッチへ触れる。
潮の匂いを遠くに含んだ風が流れ込み、車内の空気と夢子の心を揺らした。
「智史」
「ん」
「……ありがと」
「こちらこそ」
相好を崩した智史が、ふと思い出したように呟く。
「夢子さ、その格好俺に見せたかったんだろ」
「は?」
「だから髪も服も爪も化粧もそのまま、会場から直行した」
「ふむ」
「着替え持って来るだけで済むのにな」
「いやーそれは気づかなかったなー。……あ、コンビニ寄るよ」
智史の返答を待つことなく、ウィンカースイッチに手を掛けた。
駐車場へ停車させたGRBのエンジンを止め、夢子はシートベルトを外す。
店内の照明がGRBを煌々と照らし、智史が助手席で苦笑を漏らした。
「夢子」
「え?」
「すっげー顔赤い」
「……っ!」
「首まで赤いってどういうことだよ」
「あーあー!聞こえない!」
運転席から飛び降りた夢子が、助手席の智史をキッと睨む。
「智史のオゴりだからね!」
車体の振動が智史まで伝わる程乱暴にドアを閉め、自動ドアへ駆けていく。
華やかなワンピースとは不釣合いな、履き古したレーシングシューズの後姿。
店内に駆け込んだ夢子の姿は既に見えなくなっているけれど、多分唇をきつく結んで居るだろう。
焦った時や恥ずかしい時に出てしまうらしい、夢子の癖だ。
本人が気付いているかどうかは分からないが――智史は片頬に笑みを浮かべ、助手席のドアを開ける。
温い空気で深呼吸を一度。
ドアを閉めようとした左手が止まった。後席に置かれた白いブーケが視界を掠める。
智史はしばらく考えを巡らせるように動きを止めていたが、静かにドアを閉めると青いGRBに背を向けた。
彼女は願う。全ての花嫁と花婿に、神の祝福があるように。
(Happy Wedding to the best couple!!)
[青い車と6月の花嫁]END.