例えば、仕事でつまらないミスをした時。奈保と喧嘩した時。オレは愛車、ロードスター・NA6CEを駆る。
それは頭を冷やすためであり、走り慣れた道をなぞって安心するためでもある。
付き合って5年――いや、もう6年になるか――彼女・奈保との喧嘩は、別段珍しいものではない。
だが今回は互いに折れないため、やけに長引いている。
歩み寄るきっかけを掴めず、オレからは謝らない、と開き直ったのはつい先程。
あそこに行けば時間帯問わず誰かしら居るだろう。特に当ても無く愛車を走らせた。
富士見台駐車場は、雪上にタイヤ痕が何本も描かれていた。
地面へ降りた途端に吹く突風に首をすくめる。今日は首都圏でも雪らしい。
ドアを閉めたトオルが真っ先に目にしたものは、薄く白を被った濃い緑色のロードスター・NR-A。
「あぁ……夢子来てんのか」
呟くと、彼女はすぐに見つかった。車の傍に立っている後ろ姿は間違いなく夢子だ。
歩を進めるにつれ、その姿は鮮明になる。お気に入りのベロアコートを着て――何か、食べているようだ。
「何食ってんだ、夢子」
背中へ問い掛けると、夢子は驚いたように肩を震わせた後こちらを振り向いた。
夢子は太巻きの端――どうやら最後の一口らしい――をくわえたまま、慌てて両方の掌をこちらへ向けた。きっと「タイム」と言いたいのだろう。
大人しく待っていると夢子は携帯を取り出し、わたわたとボタンを押し始めた。
直後、ダウンジャケットに突っ込んでいたトオルの携帯が震えてメール受信を告げる。
『恵方巻 食べきるまで話しかけないでください』
夢子は何事もなかったかのように先程の方向を見つめ、咀嚼を再開した。
トオルはそれを眺めながら、ボタンを打ち始める。
『何故?』
『ならわしです』
『ならわし?』
『節分の慣習』
そう言えば今日は2月3日、節分。簡潔な回答に納得していると、夢子はようやく完食したようだった。
NR-Aのボンネットに置いてあったタンブラーを引っ掴み、少し慎重に唇を寄せた。
こくりと喉を鳴らした後、夢子は満足したように息を吐いた。立ち昇った吐息と湯気は柔らかく消えていく。
何故ここで――そう問おうとした時、夢子はトオルに背を向けて助手席のドアを開ける。
手にした紙袋の中から『七福神恵方巻(ハーフ)』と銘打たれ、華々しく包装されたパックを取り出した。
「まだあるのかよ」
「数量限定販売だったんで、勢い余って2本買っちゃって。トオルさん、食べませんか?」
「……ん?オレ貰ってもいいのか?」
「はい、もちろん。あ、お手拭ありますよ」
「お、サンキュ」
さり気なく細やかな気遣い。本人に言わせれば〈普通〉のことかも知れないけれど。
夢子が差し出したハンディタイプのウェットティッシュを一枚引き抜く。
アシンメトリーのベリーショート、化粧気のない素肌、負けず嫌いで頑固な性格。
男勝りを地で行く彼女には、多数のファンが付いている。言うまでもなく、女性ばかり。
「南南東はコッチですよ」
「……南?」
「今年の恵方です。恵方を向いて、願い事浮かべながら食べるんですよ」
「夢子、わざわざ持ってきたのかよ」
左手の方位磁針を指すと、夢子はそれを慌ててコートのポケットへしまい込んだ。
「だ、だって正確な方角なんて分かんないじゃないすか!」
「はいはい。よっぽど楽しみにしてたんだな」
「笑わないでくださいよ。……えっと、食べてる間は喋ったらダメなんですって」
「何で?」
「……そういう慣習だそうです」
「へぇ。じゃ、いただきます」
夢子が差した方角――南南東――を向き、トオルは恵方巻を受け取り頬張った。
願い事は何にしよう。今年の初詣、何を願ったんだっけ。毎年そんなに代わり映えしないけど。
とりあえず、交通安全と無病息災と家内安全だったかな――今回もそれでいいか。
おみくじは平吉だったけど良いのか悪いのか分かんねぇよ。
オレは何故こんな場所で恵方巻を貪り食ってるんだ?
しかし具が多いな。奈保はかんぴょう嫌いなんだよな。美味いのに。
食べ進めていくうちに、腹が立っていたことも、悩んでいたことも、何だか全部がどうでも良くなった。
殆ど無心で恵方巻を平らげると、全く根拠の無い充足感を覚えた。
「ごちそーさん。美味かった」
「良かったです。お茶、どうぞ。まだ熱いですよ」
夢子がタンブラーを差し出した。
「サンキュ。で、夢子の願掛けは?」
「チームの皆が元気で仲良くいられますように、と――」
「と?」
「トオルさんのロードスターと、少しでも長く一緒にいたいです」
温かい緑茶の香りに、棘を持つ心がほぐされていく。
「ずいぶん健気なんだな」
「トオルさんは?」
「交通安全、無病息災、家内安全」
「家内……いよいよ結婚ですか!」
「……人間関係全般の話だからな?まぁ夢子と変わんねぇか」
「あの……全般ってことは、自分も入ってますか?」
「ああ、もちろん」
「やったー!」
夢子は拳を握り締め、バンザイと叫んで思い切り突き上げた。驚くと同時に呆れてしまい、トオルはまじまじと夢子を見つめる。
「何だよ夢子、そんなに嬉しいか?」
「嬉しいに決まってますよ!今年一番嬉しいです!」
「ったく……いちいち大袈裟なんだよ夢子は」
「そんなー。仕方ないじゃないすか」
苦笑してタンブラーを返すと、夢子はそれを包み込むように両手で受け取った。
「夢子、隣乗るか?」
「お願いしますっ」
「よし、行くぞ」
助手席に放ったバッグの中へタンブラーをしまい、夢子はトオルの足跡を追い掛けた。
運転席のドアを開けたトオルへ、夢子がふと思い出したように問う。
「今日、日曜ですよ。奈保さん一緒じゃないんすか?」
「……ケンカ中」
トオルがぼそっと呟くと、夢子は呆れたように眉を寄せた。
「また、ですか。早く奈保さんとこ、行ってあげてください」
「でも……夢子、ナビに――」
「何言ってんすかトオルさん。奈保さんと仲直りするのが先です。自分はいつも、ここに居ますから」
にこりと笑った夢子に促されるように、トオルは渋々シートへ腰を下ろした。
エンジンをかけて窓を開けると、夢子は小走りで助手席側からこちらへ近付いてきた。息が白く弾んでいる。
「悪い、夢子。埋め合わせは今度な」
「やだな、そんなの気にしないでください。奈保さんにヨロシクです」
「おう」
雪の中で確かな存在感を持つ、クラシックレッドのロードスター。夢子にとっては、NA6CEを駆る〈彼〉そのものだ。
遠ざかっていく赤を見つめ、夢子は細く息を吐いた。
「夢子」
「――淳郎さん。こんばんは」
背後から名前を呼ばれ、夢子は我に返る。淳郎は駐車場の出入り口を顎で示し、低く訊いた。
「……いいのか?」
「え?何が――」
「しらばっくれる気か。トオルだよ」
「それ、どういう意味ですかね。自分わかんないっす」
唇の端で夢子が微笑った。どこか哀しげな笑み。
それ以上の詮索は無用だと――いや、酷だと気付かされる。淳郎は思い留まって、ゆっくりと首を振った。
「……何でもない。トオルの代わりになるか分からんが、付き合うか?」
淳郎が指したのはER34。それを受け、穏やかな声で夢子が答えた。
「代わりなんて言わないでください。淳郎さんは淳郎さんでしょ」
「ああ……」
「自分、淳郎さんの走り好きっすよ」
「……そうか」
「あ、もちろん淳郎さんも好きですからね」
「――っ、夢子、そういう冗談は止めろ。心臓に悪い」
「冗談のつもりは一切ないんですけど」
肩をすくめた夢子に反省する様子はなく、淳郎はやれやれと溜息を吐いた。
夢子を見遣ると、鼻の頭が薄っすらと赤く染まっている。
このまま、ここに居るつもりだろうか。いくら待ってもトオルは来ないということ、夢子が一番知っている筈だ。
「夢子、明日は早いのか?」
「いえ、試験終わったんで暇っす。慎一はまだみたいですけど」
「そうか。それなら付き合え」
「オールすか」
「まぁ、そんなとこだ。無理にとは言わん」
「全然ヘーキっすよ。バッティング付き合ってくれますか?」
「ああ。夢子と行くのは久しぶりだな」
「ですね。自分こないだ野球部乱入したんすけど、120とか130は一応当たってたんですよ」
「130キロか……スピードガンで?」
「はい。対マシン用の練習にピッチャー使うって、本末転倒な気ぃしますけどね」
けらけらと笑う夢子に、先程の陰りは見当たらない。安堵して、つられて淳郎も笑った。
「行くか、夢子」
「はい」
淳郎はER34へ、夢子はNR-Aへ。2人は愛車へ乗り込み、雪を舞い上げて富士見台駐車場を後にする。
真白な雪とタイヤ痕だけがそこに残った。
[S.S.E]END.