抑えきれずに時折零れる声、敏感過ぎる程の反応を示す身体。自分の意思が届かない、自分のものではないように感じた。
迷うことも、悩むことも、何もかもを忘れるような時間。伸ばした指先に触れたものは、蜜のように甘くとろける。
束の間の快楽に溺れる自分は愚かだろうか。それでも求めずには居られない。
「夢子。……夢子」
耳元で低く囁かれた東堂の声。背筋を這い上がるこの感情は。
――――音。
聞き覚えのある音が聞こえた気がした。いや、音と言うよりは咆哮に近いかも知れない。
酒井は工具を整理する手を止め、壁の時計を見上げた。
閉店時間を一時間程過ぎている。ガレージには酒井と大輝、DC2とEK9。
こちらへ近付いてくるその音の正体を確かめるべく、耳を澄ますように酒井が目を伏せる。
EK9のオイルチェックを終えた大輝が、ゲージを戻してふと酒井を見遣った。
「どうかしたんすか、酒井さん」
「いや……」
ガレージを出た酒井が目にしたのは、停車したばかりの小さな青い車。少し遅れて大輝も姿を見せる。
ホンダ・ビート。オープン2シーター、ミッドシップの軽自動車。
ボディカラーは原色に近い青にパールが入った、『バージョンC』限定のキャプティバブルーパール。
東堂商会の顧客が所有する車の中、東京管轄のナンバー自体は珍しいものではない。
ただ、品川ナンバーの青いビートは自分が知る限り一台だけ。
単に速い車よりも、走ってて楽しい車が好き――そう言っていた〈彼女〉に間違いないだろう。
ライトが消え、エンジン音が止んで少しの間があった後、運転席のドアが開いた。
パンプスのヒールが小さく鳴り、スーツ姿の女性がアスファルトに降り立つ。
彼女がドアを閉めるのと同時に酒井は息を飲んだ。彼女の表情はひどく硬い。
「――夢子さん」
「久しぶり、酒井くん」
「お久しぶりです」
「こんばんは、夢子さん。今日はオイルすか?オレやりますよ」
「二宮くん。――社長、いる?」
「はい。上で原稿書いてるみたいっす」
「そっか。ありがと」
ショップの2階を指す大輝に礼を言いながら、夢子は急ぐように背を向けた。
夢子の背中を見遣り、大輝が思い付いたように呟く。
「コーヒーでも持ってくかな」
「……やめておいた方がいいと思う」
「どうしてですか?」
「何て言うか、結構深刻そうだ。邪魔するなよ」
分かったような分からないような表情を浮かべ、大輝は愛車の元へ戻る。
酒井はブラインドが下ろされている社長室の窓を見上げた。
階段を早足で上り、奥の社長室へたどり着く。夢子は右手で一瞬躊躇いながら、ドアを小さくノックした。
「どうぞ」
東堂社長の声にドアを開ける。
「……失礼します」
「なんだ、水臭えな。勝手に入れや」
後ろ手でドアを閉めた夢子は、デスクに向かう東堂の目前に立った。
社長室と呼んではいるが、そこは東堂個人の書斎のような部屋。書き物をするときは、ここに一人で居ることが多い。
価値があるのか怪しいパーツ類が床に転がり、隅には仮眠用の簡易ベッドが折り畳まれている。
東堂は灰皿に煙草を揉み消すと、椅子の背もたれに上半身を預け、夢子を見つめた。
「どうした」
穏やかな口調。夢子は開きかけた唇をきつく結び、俯いた。
視界に映るのは机上に置かれた数冊の雑誌と、ページ見本と思われるA4程度の用紙。
それと、走り書きの原稿用紙。東堂はどんな原稿でも、下書きと推敲を欠かさない。
初めてここを訪れたときは、単なる〈代理〉だった。
車雑誌を作る部署からのヘルプを受けたとき、夢子はちょうど帰宅しようとしていた。
「頼む、原稿取りに行ってくれ!」
あの頃は仕事量を多くこなすことに夢中だった。
女は隙を見せたら馬鹿にされる、蹴落とされる。だから誰にも頼らない、弱いところは見せない。
「いいよ。場所教えて」
二つ返事で引き受け、タクシーを飛ばして向かった先は『東堂商会』。
受け取った原稿は東堂の直筆で、ヨレも汚れもない美しい原稿用紙に濡羽色のインクが映える。
デジタルに慣れきった夢子にとって生原稿の重みは新鮮で、感動すら覚えた。
夢子と東堂を引き合わせた張本人は、昨年度の部署異動で同僚となった。
同期入社の彼と〈お付き合い〉が始まったのは、いつだっただろう――
「黙ってちゃ分かんねぇだろ、夢子」
東堂が椅子から立ち上がるとデスクを半周し、夢子の隣で足を止める。
夢子は体の正面を東堂へ向け、少し見上げるように視線を絡めた。感情を出さず、冷静で居るよう努めた。
「この間、プロポーズされました」
「そうか」
「……だから私、もう……」
用件だけを告げて〈別れる〉つもりで夢子はここへ来た。
泣くことは自分の弱い面をさらけ出すことだ。だから、誰かの前で泣くなんて絶対に――
「まったく……夢子、おまえいつも虚勢張ってんな」
そう呟いて夢子の髪を撫でる。東堂の掌はひどく優しい。
自分の前ではまるで子供のようになってしまう夢子を、東堂はとても愛しく思う。
とめどなく溢れる涙、俯いた夢子は手の甲で乱暴に目元を擦った。
「夢子」
はっと顔を上げた夢子が、東堂の腕の中に居る自分に気付き目を見張る。
抱き締められ、髪を撫でられ――優しい抱擁は後を辛くするだけだ。分かってはいるが、それでも縋り付いてしまう。
嗚咽し、ボロボロと涙を流し、詰まった声は言葉にならずに零れ落ちる。
東堂の背中へ腕を回した直後、唇が重ねられた。抗うことなど出来はしない。どこかで自分も望んでいた筈だ。
軽く触れるだけの一度目、それより少し長い二度目、吐息を乱す三度目――――
舌の上に在る煙草の苦味。顎や頬をくすぐる髭。息継ぎさえ惜しい。
与えられる恍惚感に囚われたが最後、立っていられなくなる。
「さよなら」
声がうまく出ないのは涙のせい。
思い出を閉じ込めるように長いくちづけを交わし、夢子はそっと東堂から離れた。東堂はそれを止めようとはしなかった。
ドアノブに触れ、夢子はふと振り返った。東堂は夢子を真っ直ぐに見つめている。
「また来いよ、夢子。今度はノックいらねぇからな」
夢子は迷った末に微笑い、東堂に背を向けてドアノブを回した。
一段ずつゆっくりと階段を下りながら、夢子は何度も深呼吸を繰り返す。
愛車へ向かう夢子の姿を捉えた酒井が、ガレージの出入り口でふと足を止めた。
夢子はパンプスから〈運転用〉へ履き替えているようだった。スニーカーの爪先で、軽く地面を叩いている。
躊躇いながら歩き出した酒井を追い抜き、小走りで夢子へ駆け寄った大輝が声を掛ける。
「あの、夢子さん。オレ達これから走りに行くんすけど、よかったら一緒に行きませんか?」
こちらを振り向いた夢子が一瞬、哀しげな表情を浮かべたように酒井には見えた。
だが、夢子は何か吹っ切ったように柔らかく笑っていた。
「ごめんね、二宮くん。また誘って」
「はぁ、残念です。お疲れした」
「夢子さん、」
酒井が真っ直ぐに夢子を見つめる。
視線を返してきた夢子に、目元の涙の跡を気にする様子はなかった。安堵と同時に焦燥を感じ、酒井は言葉の続きを探した。
「なに?酒井くん」
「いえ……あの、気をつけて」
「ありがとう。塾の皆によろしく言っといて」
「はい」
運転席から手を振った夢子が、あの音と共に遠ざかっていく。
ビートを見送ると、酒井は2階の社長室を見上げた。ブラインドから室内の明かりが漏れている。
窓辺に立つ人影は、すぐに見えなくなった。
「酒井さん、早く行きましょうよ」
ガレージから急かす大輝の声を受け、酒井は俯いた。自分に言い聞かせるようにそっと呟く。
「また会える」
「え?何すか?」
「何でもないよ」
酒井は大輝へ薄く微笑った。
いつか、また、どこかで。
それまで、さよなら。
さよなら、夢子――――愛してる。
[さよなら愛してる]END.