コーヒー・ルンバ
『フリーライター』という職業がある。字の如く、「出版社などに所属しないフリーランスのライター」。
キャッチコピー、雑誌・フリーマガジンの記事、メールマガジン、映画やドラマのシナリオ――――
内容は多岐に渡り、それまで漠然とイメージしていた〈気楽な仕事〉とは程遠いことを知った。

土曜の夜(とは言え〈フリー〉ライターに土日などない)。
妖気を漂わせた般若のような形相でキーボードを叩いているのが、俺の恋人。フリーライター歴約2年、田中夢子
今は確か、車雑誌の記事を書いている筈だ。試乗レポート、連載コラム、時々漫画も描いている。


「コーヒー淹れたぞ」
「サンキュ」
夢子はディスプレイから視線を外さずに、言葉だけで短く答えた。カタカタとキーボードの音だけが響く。
こういう時、こちらからは何もしないのが得策だと毅は知っている。
さて、いつまでかかるか――ソファに腰を下ろした瞬間、鋭い声が飛んだ。
「苦ッ!!!!」
驚いて立ち上がりかけた中腰のまま、毅が夢子を見遣る。
「殺す気か!」
すごい勢いで柔らかいクッションが飛んできて、思わずソファにへたり込む。
見事顔面にヒットしたそれは、職業病・腰痛解消のために毅が贈ったものだった。
クッションから少し遅れて飛んできた夢子が、毅の胸倉を掴んで見下ろした。
久しぶりに触れた夢子の熱に笑みが浮かびかけ、般若の形相に気付き慌てて口元を引き締める。

「……悪い。わざとじゃないんだ」
「わざとだったら今すぐ消えてほしいくらいですけど」
「……それ、締め切りまだ先だろ?そんなに焦ることないんじゃ……」
「違ーう!だって毅来てンのにやりかけの仕事あったら落ち着かないじゃん!」
「そんなの気にしなくても……俺は本でも読んでるから」
「気にするッつーの!」
夢子のページ、皆楽しみにしてるからな」
「それは期待じゃなくてプレッシャー!」
散々わめいた夢子が、くたりと毅の隣へ座り込んで長い溜息を漏らす。


デスクの上で所在なげに佇むマグカップを手に取ってキッチンへ。夢子に嫌われたブラックコーヒーは自分が引き受けるとして――
淹れ直した琥珀色のカフェオレを、資料が散らばるデスクの隅にそっと置く。
ソファを振り返ると、手足を投げ出した夢子が厭世的にこちらを見遣り、すぐに視線を逸らした。
「手、抜けないのよ私」
夢子が零した呟きは、ひどく頼り無いものだった。隣に腰を下ろすと、夢子が掌を見つめて言葉を選んでいる。
「どんな記事にも写真にも、ひとつひとつ全力懸けちゃうから。効率良くないのは解ってるんだけど」
「いいんじゃないか、夢子はそれで。俺は、夢子のそういうところも好きだし」
「……毅はいつも、そーやって甘やかす」
じとりと睨む夢子の眉間のシワを指でつつくと、少しだけ表情が和らいだ。

「待ってる」
そっと抱き寄せて呟くと、夢子は腕を解いて立ち上がりデスクへ向かう。
「……夢子?」
「話し掛けないで今いいのキタから!」
唖然とする毅を尻目に、夢子は脇目も振らずキーボードと格闘している。
デスクの隅で湯気を上げるマグカップは視界に入っているだろうか。




幾分冷めたコーヒーを啜りながら、資料や掲載号が詰まった本棚の前で雑誌をめくる。
女性誌やフリーペーパー、タウン誌、車雑誌。
『AT限定解除に挑戦!―半クラって何ですか?―』  『サーキットDE初・体・験☆』  『何はなくともまず試乗』
夢子が書いた車関連記事の掲載号は自宅にもあるけれど、こうして見るとやはり圧巻。夢子が積み上げた経歴だ。
ある雑誌の『イマドキ走り屋事情。』コーナーで妙義にアポなし取材に来た頃は、まだ限定免許でキューブに乗っていた。
夢子が今みたいに物怖じしなくなったのはいつからだったか――――


ネットがこれだけ普及しているのに、紙の媒体はなくならない。そして「文章を書く」という仕事も。
今まで紙媒体のみで文章を書いていたライターが、ウェブに移行しているとも言えるだろうか。
例えばネットショップ。どんなに良い商品でも、それを伝えるための〈文章〉がなければきっと売れないだろう。
そんなことをぼんやり思いながら棚に雑誌を戻す。キッチンへ行くついでに夢子の様子を窺うと、何やら電話をしているようだ。
「ありがとうございます!失礼しまーす」
ニコニコと通話を終えると、椅子から立ち上がって毅に小さくガッツポーツを見せた。
「一発OK!しかも誉められちゃった!」
「良かった。お疲れさん」
「ね、ぎゅってして」
両手を広げて夢子が笑う。きつく抱き締めると、夢子の溜息が耳をくすぐった。
「あーやっぱコレだー。どんなエステよりマッサージより気持ちいいもんね」
そしてまた、至福の溜息。
「……それなら、もっと気持ちいいコトするか」
抱き上げてソファに横たえると、唇にキスを落とす。不意に夢子がそれを制した。
「私多分、色々抑えらんないと思うけど――いい?」
夢子が豹のような瞳で毅を真っ直ぐ見上げて問う――いや、これは有無を言わせない女王の瞳だ。
「大歓迎」
ふたりで笑い、キスの続きを。
「毅、コーヒー味」
「あ……悪い。苦かったか?」
「んー。でもコレはコレでアリかも」



コーヒーは情熱のアロマ。空になった夢子のマグカップが、それを物語っている。





[コーヒー・ルンバ]END.