「――嫌い!智幸なんか、もう嫌いッ!」
リビングで夢子が精一杯の声を上げる。
きっかけは本当に些細なケンカだった。智幸が、夢子が取っておいたドーナツを食べた、とか、食べてない、とか。
楽しみにしてたのに!と怒る夢子に対し、智幸はそれをなだめるのに必死。
怒りに任せて、言うつもりのなかった言葉を口にした途端、智幸が少しだけ眉をしかめた。
それに気付いてようやく――夢子は事の重大さを知る。
「ウソつき」
憎たらしいほど余裕を浮かべた表情で、智幸はたった一言呟いた。
それがひどく腹立たしくて、夢子は更に大声を張り上げる。近所迷惑もお構いなし。
「……大ッ嫌い!」
「今のも嘘だ。オレは知ってる」
「……っ」
やっとのことで堪えていた涙が、いとも容易にぼろぼろと溢れた。
「な……んで、そんな意地悪言うの……っ」
「なんでって……夢子のこと、好きだから」
「……?」
「好きな子はイジめたくなるのが、男のサガってヤツ」
「……小学生みたい」
「ああ。オレきっとその頃から成長してないんだと思う」
思わず笑みが零れる。
「やっと笑ったな」
「……うるさい」
指摘されてきつく唇を結び、不機嫌なフリをした夢子。
智幸が視線を合わせようとすると、大げさな程そっぽを向いてしまう。
頭を撫でて、膝の上に抱きかかえた。素直に体を寄せてくる夢子の体温が、じわりと伝わる。
「夢子に嫌いって言われると、周回遅れより焦る」
「うわ……じゃあ……大嫌い、は?」
「クラッシュより困る、かな」
「相当だ、ね」
スポンサーの威信を賭けて走る智幸が、レースに例えて言うのならきっと本当だ。
さっきは、テンションに任せて言い過ぎた。ドーナツなんて、また買えばいいじゃない。
「智幸、ごめんね。ほんとは、大好き」
「知ってる」
唇に軽く触れるだけの小さなキス――それだけで、夢子の機嫌はすっかり直ったようだ。
「……あのね、」
夢子が言い掛けた言葉を唇で塞ぐ。
その先も知っている。2人がケンカした後の「仲直り」にはコレが必要だから。
「あいしてる、だろ?」
こくりと頷いた夢子を抱き締める。
伝わる体温が愛しくて仕方なかった。きっとオレは――夢子を手放すことなんか出来ないだろう。
腕の中で大人しくしている夢子に、もう一度口付けた。
[暗号のワルツ]END.