「清次。どうして指輪してくれないの?」
うららかな日曜の昼下がり。夢子が真剣な表情で清次に詰め寄った。
「……指輪なんてガラじゃねぇだろ」
「せっかくペアリングなのにー」
随分前に買ったものだけど、清次の指輪は未だケースの中にある。
夢子は思案顔で立ち上がり、ごそごそと引き出しを漁っている。
「どうしたんだよ、夢子」
「左手出して」
「は?なんで――」
「いいから出して」
言われるがままに清次が左手を差し出すと、夢子は微笑って清次の手を取った。
「清次のここ、あたしが予約するからね」
言葉の意味を理解しようと努力し始めた途端、薬指にくるりと線が引かれた。なるほど、ペンを探していたのか。
「うっわ、何すんだよ夢子ッ!!」
「だから予約だってば」
悪びれる様子もない夢子の言葉を背に、清次は洗面所へと走っていった。
聞こえてくる音から察すると、勢い良く水道の蛇口をひねり、必死で左手を洗っているのだろう。
「おいおいマジかよ、オレ明日仕事なんだぞ」
「知ってるー。油性だからしばらく落ちないと思うよ」
含み笑いの夢子を鏡越しに睨みつけ、清次はタオルを手に取った。勿論、薬指には夢子によって描かれた歪な線を残したまま。
「なによ、そんな怒んなくたっていいでしょー」
どっかりとソファに腰を下ろした清次を見上げ、夢子が床で膝を立てて呆れるように呟いた。
「ほら、も一回左手出して」
「……今度は何する気だ」
「心配しなくても大丈夫だから」
何が大丈夫なんだ――と思いつつ、清次は大人しく従う。黒い線の上へ、バンドエイドがぺたりと巻かれた。
「んー……なんかブサイクだけど、まぁいっか」
それはまるで、指輪のかわり。
「今度はあたしが買ってあげるね。お給料の3ヶ月分で」
「……おい夢子、それってプロポーズの定番だろ……」
「うん、そうだけど」
清次が脱力したようにソファにもたれる。
「受けてくれる?」
「……そういうことはオレが言いたかったんだけど……」
小さく溜息を零し、バンドエイドで出来たリングを見つめている。
「……なんか全然実感湧かねぇ」
「ねー。結婚するんだね、あたし達」
「他人事みたいだな」
「結婚したら、なんか変わるかな?」
「いや……オレらは多分このままだろ」
何つーか、いい意味で――と清次が笑う。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
突然、床へ三つ指をついた夢子が深々と頭を下げる。
「……こ、こちらこそ」
清次がソファから転がり落ちるようにフローリングの床へ正座し、慌てて夢子へお辞儀を返した。
「あ」
「どうした?夢子」
「婚約指輪って右手じゃなかったっけ」
「……多分、右手の薬指だろ」
「逆かー」
参ったな、と夢子が眉をしかめて立ち上がる。間も無く戻ってきたと思ったら、右手にはあの油性ペンが握られていた。
「やり直すねー」
「ちょ――おい、もういいだろ!」
「だーめっ」
嬉々として夢子が清次にタックルを仕掛ける。全身全霊、愛をこめて。
左手の約束は、近いうちに果たされることになるだろう。
[左手の約束]END.