アカルキミライ
世界中と瞬時に繋がるネットワーク。冷たいディスプレイの向こうに居る〈誰か〉。
パソコンの電源を切れば、あたしは薄暗い部屋にひとりきり。澱んだ空気と紫煙が充満する部屋に。



大学2年の夏休み。太陽が眩しすぎて昼夜逆転の生活。
バイトもしない、少ない友達にも会わないほとんど引き篭もりの毎日。東京はそれでも充分快適に生きられる、隣人に無関心な街。
夕方起きて、いつものようにネットを徘徊していたときだった。日本最大と言われる掲示板群。その中のひとつの板を覗いてみる。
漫然とスレッドを眺めたり、時々書き込んでみたり。ここに来れば誰かしら〈居る〉から、暇潰しにはもってこいだ。
ふと、ある書き込みが目に留まった。何の説明もなく、アドレスだけが一行素っ気無く書かれている。業者の宣伝を疑いながらページを開いた。

そのクリックが、自分の人生を変えることになるなんて――――あたしは微塵も思ってなかった。

「……何だこれ……プロジェクト、D?」
いわゆる〈走り屋〉のサイトだった。群馬の走り屋が関東に遠征して、各地の峠で〈バトル〉を繰り広げる――
馬鹿げたネタとしか思えなかったけれど、戦歴、走行タイムを見る限り完全な〈嘘〉と言うには疑問が残る。
掲示板はまるで荒らされているかのような、過激な書き込みで溢れていた。
「バカじゃないの。公道バトルなんて、道交法違反に決まってんじゃん」
悪態をつきながらも、本当は少しだけ羨ましいのかも知れない。あたしには何も、打ち込めるものがないから。
自分がやりたいこともわからない。だから毎日こうして現実から逃げているだけ。


煙草のフィルターを噛みながら『Next Battle』を見ると、そこには見たことのある名前が出ていた。
「……東堂塾……」
確か、父の知り合いだったはず。夢子は携帯を開いてリダイヤルを表示した。

「あ、もしもし」
『おう夢子、生きてっか』
「生きてるよ。あのさ、東堂塾って知ってるよね?」
『ああ。どうかしたか』
「あ、いや……別に、どうもしないけどさ」
『何だよ急に。そういやお前、車乗ってっか?』
「あー、全然」
『一回見てもらえ。行ってこいよ東堂の店』
「やだよ、遠いし」
『いいから行け。仕送り止めるぞ』
「……わかったよ」
『東堂に連絡しておくからな。地図もメールしてやる』
「はいはい」
生返事で通話を終えた。



憧れていた東京の大学へ入学が決まったとき、父から貰った餞別は古い車だった。
『ちょっと、こんなボロ車いらないから』
『まぁそう言うな。お前が小さい頃から乗せてやってたろ』
『……駐車場代もバカになんないのに……』
『金出すのは誰だ?』
『……お父様です』
『だろ。それに、アシがあった方が何かと便利じゃねぇか』
『そういうことにしときます』
受け取った鍵はなんだか古びていて、ちっとも魅力を感じなかった。






今日は腹立たしいほどに快晴。父からのメールを頼りにようやく栃木県、東堂商会へたどり着く。
出迎えてくれたのは赤いツナギの男性・東堂社長。年齢は父と同じくらいだろうか。
「おう、来たか」
「こんにちは。田中夢子です」
「知ってるよ。俺がオムツ替えてやったの覚えてねぇか」
「……本当ですか?」
「ちっちゃい頃からヤンチャでな。鼻にスプーン突っ込んだ時は焦ったぜ」
「…………」
「ま、覚えてねぇなら俺ん中にしまっとくわ。とりあえず、向こうで待っててくれるか」
「はい」
東堂に指示されたそこは待合室のような場所。
少し戸惑いながら隅のテーブルにつくと、橙色のツナギを着た背の高い男性が夢子に近付いた。
「いらっしゃいませ。コーヒーで良いですか?」
「あ、はい。ホットでお願いします」
「わかりました。少々お待ちください」
恐らく給湯室へと向かう彼を見送り、マガジンラックに目を向ける。
車雑誌を一冊手に取ってめくってみるけれど、そこに書かれている内容はさっぱりわからなかった。

「コーヒー、お待たせしました」
「あ、ありがとうございます」
「さっきの70スープラ、あなたのですか?」
「はあ、一応……」
「結構マニアックなんですね」
「……父からのお下がりで。あんまり乗ってないんですけど」
「そうなんですか?勿体ない」
ふ、と彼が微笑む。夢子を責めるわけでもなくただ微笑った。
「社長の点検はすぐ終わると思うんで、少し待っててくださいね」
「……はい」
トレイを手にしたまま頭を下げる彼に、夢子も小さく会釈を返した。




「おう、待たせたな」
東堂がファイルを手に夢子の前に腰を下ろす。

夢子。あれ、駐車場に置きっぱなしにしてただろ」
「……はぁ……すみません」
「あいつはブン回してやると喜ぶんだが」
「知ってるんですか、あの車のこと」
「ああ。お前の親父とは長い付き合いでな」
東堂は手元のファイルから一枚の紙を抜いて夢子に向けた。
そこには夢子が父から譲られたスープラ――JZA70――の、エンジン内部の構造が簡単に描かれている。
どうやら夢子は〈車オンチ〉だと早々に見抜かれたらしい。
そんな夢子にもわかるよう、東堂は部品の位置を指しながら説明を始めた。内部の現状。交換した部品。今後のメンテナンス――等について。
「こういうのは手間も金もかかるからな。夢子みてぇなのが乗っていいタマじゃねぇんだが」
懇切丁寧な説明にも関わらず、理解しているのかどうか怪しい夢子を見遣り東堂が苦笑する。


「古いからいらないって言ったんですけど、父が……」
「そりゃお前に乗って欲しかったからだろ」
「え?」
「あれはお前の親父の宝物なんだよ」
どういう意味か、聞こうとしたとき。
「お話中失礼します。社長、講壇社さんからお電話です。写真掲載の件、至急確認したいことがあるそうですが」
「おう酒井。何番だ」
「外線1番です」
「わかった。夢子、ちょっと待っててくれ」
「はい」
酒井と呼ばれた彼がコーヒーのおかわりを持ってきて、一杯めのときと同じように頭を下げた。




「待たせてばっかで悪いな」
戻ってきた東堂に夢子が尋ねる。
「……あの、聞きたいことがあるんですけど」
「おう。何だ」
「プロジェクトD、って……」
「へえ、知ってんのか」
「いえ……この間初めてサイト見たんですけど」
「群馬から出張ってくるってんだから、もてなしてやんねぇとな」
「あたし、見に行ってもいいですか?」
「そりゃ勿論構わねぇが。夢子が見ても面白いモンじゃねぇと思うぞ」
「……それでもいいんです」
呟いた夢子が俯いて唇を結んだ。





対戦結果から言うと――東堂塾は負けた。上りも下りも。言い訳出来ないくらいにハッキリと。
夢子がショップに行くと、東堂がシャッターを下ろしているところだった。
「社長……」
夢子。せっかく来てくれたのに――悪いな」
「あの、あたし、」
「どうした」
「ここで雇ってもらえませんか?」
「……本気か?」
「今は何もできないけど、雑用でも何でもやります。お願いします」
「大学はどうするんだ」
「辞めます。やりたいこと、見つかったんで。車に携わる仕事がしたいんです」
「そうか。お前の親父に怒られっかな……」
「父は説得します。わかってもらえるまで話しますから」
「……本気なんだな。わかった、いつでもウチに来い」
夢子は差し出された手をしっかりと握った。熱いオイルの匂いを嗅いだ気がした。





東京を捨てることに未練はなかった。狭いアパートの鍵を不動産屋に返却した途端、気持ちが軽くなったのを感じた。
上京するときはあんなに浮かれていたのに、今は何故か安堵していて――
愛車の鍵を太陽にかざして、夢子は唇で微笑んだ。





初出勤の日、『宝物』の意味を東堂に問うた。
「あの車は、お前のお袋が好きだったんだ」
数年前に亡くなった母を思い出す。
「……聞いたことないんですけど……」
「俺から言うのは筋違いだしな。詳しいことは親父に聞いてみろ」

大学を辞めて東堂商会に就職する――と伝えたとき、父は思ったよりもあっさり頷いて「そうか」とだけ呟いた。
反対されるとばかり思っていた夢子は驚いて、小さな声で「ありがと」と言って少し泣いた。




「社長、夢子ちゃんていいセン行ってると思うんですけど。センスも技術も」
「……ま、カエルの子はカエルってことだな。おーい、お前ら集合!」
開店前のスタッフミーティングが始まる。
「いつかあたしが、リベンジします。ハチロクとFDまとめて」
新入社員として紹介された夢子の挨拶に、スタッフ全員が目を丸くした。
酒井が拍手をして、それに続くようにパラパラと拍手が起こる。照れるように夢子が頭を下げて、髪が揺れた。





煙草を止めた。髪型を変えた。早起きが出来るようになった。ほんの少しだけ痩せた。
あたしはなにかに導かれたのかも知れない。きっとこれから、迷うことなく進んでいける。




今日も暑くなりそうだ――
新品のツナギを着て、快晴の空を見上げた夢子が大きく背伸びをした。





[アカルキミライ]END.