あの頃、マウンドで確信したことがひとつあった。
「あ……雨、上がったみたいだよ」
あっという間に雲が流されていく夕空。レビンの助手席で夢子が呟いた。
「ねぇ渉、ちょっと寄り道していかない?」
「ん、どこに?」
「小学校」
「……なんでまた」
「行きたくなったから。ね、いいでしょ?」
「いいけど。校門開いてんのかな」
「開いてなくてもいーの」
ニコニコと微笑う夢子に促されてウィンカーを点滅させる。
夢子とは小学校に上がった頃からずっと同じクラスだった。
俺達が初めて会ったのは教室。そして気付けばもう15年以上も一緒に居る。
だけど、どんなに長く居ても飽きることがない。
「腐れ縁ってヤツ、かな」
「うわーそれひどくない?」
渉の呟きを聞き逃さなかった夢子がむくれる。
「彼女に向かって腐れ縁なんて」
「だって夢子、よく考えてみろよ。小学校、中学、高校って……何年一緒のクラスだった?」
「ホント。もう奇跡としか言いようがないよね!!」
「何感心してんだよ」
「きっと運命だったんだよ。あたしと、渉が出会ったのも」
「……夢子……よくそんな恥ずかしいセリフ言えるな……」
「なに照れてんのよー」
近くの空地ににレビンを停める。さすがに正門は閉まっているようだ。
「諦めるか?」
「正攻法がいつも効くとは限らないのよねー」
裏手の校庭に回るとフェンスの扉が開いていた。
「不用心だな……」
「おかげで入れるじゃない」
点在する水溜り、赤く錆びた鉄棒、低い滑り台、作りかけの山がある砂場。あの頃とちっとも変わっていない。
「あれ……こんなに小さかったっけ?」
うんていの横で夢子が目を丸くする。
「あんなに苦労したのに、足ついちゃうよ」
「夢子はコレ苦手だったよなぁ」
「運動神経イイ人にはわかんないでしょー」
「カンタンじゃん」
「握力弱いからかなぁ……」
夢子は頬を膨らませて右手を閉じたり開いたりしている。それがやけに真剣で、渉はこっそりと微笑んだ。
「あ、忘れ物」
そろりと散策していた夢子が、ブランコの横で拾い上げたのは白いボール。渉に見せると突然、夕空へ高く放り投げた。
「おいおい……あんなの取れるわけないだろ」
「取れなくてもいいよ」
笑った夢子に背を向けて走った。落ちてくる白球を右手に収めたとき、不意に懐かしさがこみ上げる。
ずっと野球をやっていた。
夢子を甲子園に連れて行くという約束。
甲子園のマウンドで、ベンチに居るのは勝利の女神だと――信じることに迷いはなかった。
「背番号6番、秋山渉っ!」
夢子が大声を上げる。ゆっくり振り返ると両手を振っていた。
「パスパース!」
「……サッカーじゃねぇんだから……」
苦笑してボールを放る。
そう遠くない距離、ワンバウンドで白球を受け止めた夢子は嬉しそうに笑った。
「お、ナイスキャッチ」
「いくよー」
夢子が放ったボールはへろへろと力なく飛んできた。
そしてつたないキャッチボールが続く。
しばらくすると夢子が飽きてきたようだ。帰ろうか――と言おうとした矢先、夢子が唇の端を上げて笑う。
あの顔は……どうやら何か思い付いたようだ。
「えいッ」
夢子が投げたのは、コントロールなんかまるで無視したカーブ。
「あ、曲がったー!」
「こら夢子!取れるわけないだろ!」
偶然曲がったらしいその球を、呆れながらも必死で追った。もつれる足がひどくもどかしい――ここ最近の運動不足が悔やまれる。
「うそ……取れないと思った……」
夢子が心底驚いたように手を叩く。
「見たか、夢子。元エースの実力だ」
渉は喜色満面で夢子へ白球を放る。それは美しい弧を描いて夢子に届く。
夢子が投げ返してくるボールはいつも、俺の届かないところへ飛んでいく。
わざとなのか、ただ単に運動オンチなのか。
ナイター照明が点いた校庭で、たどたどしく弧を描く白球を追い掛ける。
あの頃泥まみれになって追い掛けた白球――それと共にある夢子の存在。
朝練が終わって教室へ向かう時、いつも待っていてくれた。
放課後、夢子は図書館の窓際の席からグラウンドを見てた。
ああ、そうだった――――いつも夢子がそばに居たんだ。
何度も俺にボールを投げる夢子が、急に愛しく思えた。
「取れなくてもいいよ」なんて……微笑ってほしくないんだ。
夢子の球筋が少しマシになってきて、距離を置いてみる。だけど心は近付いたような気がして。
きっと今まで、色々見逃していたんだ。俺の一番近くに夢子は居たのに、ずっとずっと前から。
そこに居ることが当たり前過ぎて――気付かなかった。
「そろそろ帰ろっか。もう真っ暗」
夢子が渉の元へ駆け寄る。泥で汚れたスカートの裾を気にすることもなく。
元あった場所へボールを戻す。濡れた草の間に転がる白球は少し泥に塗れていた。
フェンスの扉を閉めて校庭を後にする。
「渉はいつも、あたしのココに直球投げてくれるね」
そう言った夢子がそっと触れたのは渉の心臓。
「好きだよ、渉」
「俺も……好きだぜ、夢子」
心臓に触れた小さな手を握り締めて抱き寄せた。
「早く帰ろ。今日はウチでごはん食べてってね」
夢子が耳元で囁いて、背中に回された腕に力が入った。
「夢子……こんな時にメシの話かよ……」
「なんで?母さんも渉が来るの楽しみにしてるのに」
「……わかった、行こう」
苦笑してしっかりと夢子を抱き締める。
「渉、痛いよー」
夢子が身を捩って笑う。きっと少し眉を寄せて、唇を尖らせて。
もう少しだけ、こうさせてほしい。
ふたりでキャッチボールを続けよう。これからも、ずっと。
[キャッチボール]END.