眠れないの?それじゃあ御伽噺をしてあげようか。
これはある時代、ある場所の物語。
貧富の差が埋まらない乱れた世界の片隅に、ひとりの少年が居ました。彼の名は『慎一』。
両親は居ません。物心ついたときからずっとひとりでした。この街では珍しいことではありません。
大きくなるにつれて、ものを盗むことを覚えていきます。
そして彼の周りの子供達も、当たり前のように盗みを働いて生きていました。
慎一は足が速いことが自慢でした。風のように走る彼には大人でも追い付けません。
『どうしてひとのものをとるの?』
あなたも毎日ごはんを食べるでしょう?
彼は死にたくなかった。だから盗んでいたのです。今の空腹を満たすためだけに。
是非など彼には関係ありませんでした。
慎一の清らかな心は穢れることなく、ただ純粋に罪を重ねていきます。
(人は皆平等?一体どこのペテン師が言ったセリフだ)
それはいつものように、盗んだパンを抱いて逃げる途中のことでした。
人込みを避けて裏道へ入ろうとした彼は、行列を目にして立ち止まります。
華やかな行列の中にひとりの少女を見つけました。ブロンドの髪が美しく揺れる、小柄な少女です。
きっと遠くの街から売られてきたのでしょう。
この頃、人身売買は当然のように行われていました。
貧困に喘ぐ親は、僅かな金と引き換えに我が子を手放しました。手放した我が子がどうなるか――充分知っていながら。
そうでもしなければ彼等もまた、生きていけなかったからです。
「可哀相に……まだ小さいのになぁ」
「まったく地主様の横暴も困ったもんだ」
「しっ、聞こえるぞ」
俯いて歩く少女の瞳には薄っすらと涙が浮かんでいました。
首から下げたプレートには、震える字で『夢子』と書かれています。
きっと彼女の名前なのでしょう。恐らく金輪際、呼ばれることのない美しい名前。
行列が地主の屋敷に吸い込まれていくのを見届け、慎一は再び走り出しました。
生まれて初めて芽生えた感情のやり場がわからず、ただひたすら叫んで走ります。
彼女の清らかな身体に、穢れた手が触れているのかと思うと。
慎一には力がない。夢子には自由な思想が与えられない。
もし神様がいるのなら、どうして僕らだけ愛してくれないのだろう。
夢子を見掛けてから数日後。慎一は日が暮れるのを待って剣を盗みました。
自分の背丈程もある剣はとても重く、引きずるようにして持たなければなりません。
〈風〉と呼ぶにはあまりにも哀しい姿。それでも慎一は黙々と、屋敷へと続く坂を上っていきます。
盗んだ剣はすぐに紅く濡れました。
怒りと憎しみを刃先に乗せて、慎一は剣を振るいます。
ようやくたどり着いた地下室で、ふたりは初めて視線を合わせました。
「夢子」
慎一の呼び掛けに、彼女は薄く笑みを浮かべました。虚ろな瞳と傷だらけの身体で。
白い肌に生々しく残る紅い傷跡が、やけに鮮やかでした。
彼が引きずる重たい剣は、迷うことなく彼女を貫きました。
どのくらい経ったのでしょう。
慎一は泣くことも忘れていました。少しずつ感覚が戻ってきていました。
真っ先に思い出したのは空腹感。そして、痛み。
(オレは今、生きている――――)
慎一はゆっくりと立ち上がり地下室を後にしました。
これはある時代、ある場所の物語。
――さあ、お話はここでおしまい。あら……眠ってしまったのね。どうかゆっくりおやすみ。永遠に――――
[カルマの坂]END.