廃墟のダンスホール
「大輝ー。だーいーきー。起きてるー?」
控え目なノックに続いて聞こえてきたのは姉・夢子の声。中の様子を窺うように細くドアが開き、小動物のようにぴょこんと頭が覗いた。
大輝は雑誌を閉じ、寝転んでいたベッドから上半身を起こして言葉を返す。
「あぁ、起きてる」
「良かった。ねぇ、シビ子貸して?」
「どこ行くんだよ」
「コンビニー」
「何で?」
「なんか今ものすっっごくハーゲンダッシが食べたいから」
「あれ?冷蔵庫入ってなかったっけ」
「大輝が最後の一個食べたからなくなった。楽しみにしてたのになー」
「……食ってねぇよ」
「ハイ嘘ー。というわけでシビ子の鍵をよこしなさい」
夢子がベッドによじ登り、微笑いながら大輝に右手を差し出す。去年、誕生日にねだられたリングが人差し指で光っている。
スプリングの微かな軋みに合わせて大輝の体が揺れた。

「――とっくに日付変わってんぞ。こんな時間に食うのかよ。また太るぞ」
「うるさいな。DVD全部売り飛ばすぞ?あ?」
「……すいません勘弁してください」
「わかればいーの。早く貸しな」
「オレも行く」
「あ、そう。じゃあ帰りは大輝が運転してね」
「行きは夢子なのか?」
「だってすぐ食べなきゃ溶けちゃうもん」
「まぁいいけど。つーか服着ろよ」
「は?着てるじゃん。バカにも見える服ですよ」
「……そんな格好で外出んなって言ってんだよ」
「何よー、おとんみたいなコト言ってっ」
むくれた夢子が両手で大輝の頬を抓んで、思い切り引っ張った。
「うっわ大輝ブサイコ!」
「……いてーだろ。はなせ、夢子
「姉の言う事は黙って聞くモンだと決まっているのだよ、大輝くん」
「すげー理不尽だな。誰が決めたんだよ」
「あたし☆」



気のせいだろうか。手にしたEK9の鍵は普段より軽く感じた。



「こら夢子、車いないからってあんま飛ばすなよ」
「えぇ?こんなのフツーでしょー」
「一般道で130キロが普通かよ。夢子の運転すげー危なっかしいんだよ」
「あらー。それ、峠でヤンチャしてる大輝のセリフじゃないよね。危なっかしい、じゃなくて危ないもん。ホラ次のコーナー慣性ドリいくよー」
「オレは大丈夫だ」
「自信過剰な奴は死ぬよ」
「…………」
助手席で黙り込んでしまった大輝を尻目に、夢子は嬉々としてEK9を走らせていた。


(こいつ、普段車乗らねーのに何で巧いかな……)




「待ってるからさっさと行って来い」
「うわ、冷たー」
けらけらと笑いながら夢子が運転席から降りる。煌々と明るいコンビニの入口付近で大輝は煙草に火を点けた。

「あれ?大輝じゃん」
「よぉ、久しぶり」
「あ、先輩。どもっす」
「これから行くのか?」
「いえ、何つーか……パシリみたいなモンです」
「へー。カノジョ?」
「……いえ……」
何となく気まずくて言葉を濁した次の瞬間。


「大輝、お待たせー」
夢子……」
見事、バッドタイミング。
「お知り合い?」
「……先輩」
ふ、と夢子の顔が「よそ行き」に変わった。

「こんばんは。いつも大輝がお世話になっています。二宮夢子です」
「あ、えと、こちらこそ……ご丁寧にどうも」
「ども、コンバンワ。妹さんですか?」
「これでも一応姉なんです」

「……おい大輝、お前にこんな可愛い姉貴がいるなんて聞いてないぞ」
「言ってないスもん」
「このー、独り占めしやがって」

夢子さんは、車って好きですか?」
「はい、好きですよ」
「俺達これから走りに行くんですけど、一緒にどうすか?」
「でも……私が峠に行くと皆さんの邪魔になるから、って大輝に止められてるんです」
「そうだったんですか?邪魔だなんてそんな。大歓迎っすよ!」
「ホント、夢子さんが来てくれると皆すっげーやる気出ますって」


少し困ったように眉を寄せて夢子は大輝の裾を引いた。
「大輝、連れてってくれる?」
ソワソワと好奇心を感じる、あどけない表情で見上げてきて。
「……少しだけだからな」
仕方なく大輝は頷いた。
「ありがと」
「乗れ。行ったらすぐ帰るぞ」
「うん」
バックミラーに先輩の車を捉え、目一杯アクセルを開けた。

もし、オレが断ったとしたら。夢子は先輩の車に乗ったのだろうか。
普段から「知らない人の車に乗ってはいけません」と言い聞かせているが、「だって大輝の先輩だもん」とかいう理由で簡単に拉致されてしまいそうだ。



助手席でモリモリとアイスを頬張る夢子を見遣り、大輝は苦い溜息を吐いた。




「コレ、姉貴です」
「はじめまして。二宮夢子です。隅っこで大人しく見学させてもらいますね」
ぺこりと頭を下げた夢子はやっぱり――よそ行きの笑顔だった。


先輩や塾生に囲まれている夢子をむくれて眺めていると、酒井が近付いてきた。
「大輝、姉貴と結構似てるんだな。目元とか」
「はぁ。よく言われます」
「悪い虫がつかないように隠しておきたかったんだろう?」
「……別に、そーいうワケじゃないすけど……」
「へぇ。じゃあ俺、狙ってもいいか?」
「――いや、あの、ウチの姉貴はやめといた方がいいっすよ。ワガママで頑固でジャジャ馬で、オレから見ても可愛いトコなんかひとッつもないですから!」
「ふふ」
「……何すか、酒井さん」
「いや、姉貴のこと大好きなんだなぁと思ってさ」
「ち――違いますよっ!」
「まぁ姉弟仲が良いってのはいいことだよな」
酒井は口元で微笑って大輝に背を向け、DC2に乗り込んだ。
遠ざかるテールを眺めていたが、DC2がコーナーを曲がりエンジン音が変わった刹那――
気付けば大輝は口に出していた。


夢子!帰るぞ!」


突然の大声に、その場に居た全員が振り向く。
当の夢子は呆れながらも笑っていた。よそ行きとは違う、大輝だけに向けられる笑顔で。
「もう?」
「明日も仕事なんだろ」
「うん。でも3時間くらい寝られればいいし」
「うっせ。帰んだよ」
「はーい。……皆さん、どうもありがとうございました。おやすみなさいー」
「また来てね!夢子ちゃん!」
「大輝、ぜってー連れて来いよ!」
投げ掛けられた言葉に背を向けて、ただ夢子の手を引いていた。触れている左手だけが、やけに熱かった。





「シット?」
「――はぁッ!?」
EK9の車内は重い沈黙に満ちていた。それを引裂いたのは夢子のたった一言の台詞。
緩い坂道の途中、EK9は哀しい音を立ててエンストした。
「お姉ちゃんを守ってくれようとしたんだよねー」
「バカ、誰が……っ」
「てのひらも、身長も。あたしより大っきくなったの、いつだったかな」



『大輝、誰にやられたの?名前言いな!』
『ち、ちがうよ、ガラスにぶつかったんだよ……』
『ウソつかないの!ホラ、誰?』
『……2組のアツシくん……』
泣きべそをかいていた小さな大輝と、借りを返して泥まみれになった小さな夢子
夕暮れの公園から手をつないで家に帰った。母にはこっぴどく叱られたけれど、それでも2人は満足だった。



やっとのことでかかったエンジン、再び落ちる沈黙。
「そろそろ弟離れ、しなきゃいけないな」
ぽつりと呟いた夢子の言葉は確実に大輝に刺さったけれど。大きなスキール音で掻き消した――つもりになった。


「家着いたら起こしてー」
「寝んのかよ!」
「帰ったら、一緒に寝よ」
「……ったく……幾つになっても夢子は甘えたがりだな」
「大輝だって、怖くて眠れないーってあたしの部屋来たでしょ」
「いつの話だよ」
返事がないのを訝しんで助手席に目を遣ると、夢子はすやすやと寝息をたてている。

「早っ」
なるべくロードノイズを伝えないように、そっと、そっと。でも出来るだけ早く、速く――今はただ家に帰りたかった。




初めて抱きかかえた夢子は思ったよりも軽く、大輝は少し驚きながらベッドへ寝かせた。
自分も隣に身を横たえ、夢子の寝顔を月明りの下でしげしげと眺める。



こんなに、睫毛長かったっけ。
こんなに、肌白かったっけ。
こんなに、唇――



咎められたような気がして、ドクンと心臓が跳ねた。不規則な鼓動が続く。大輝は少し震えた深呼吸を繰り返した。
無造作に放り出された夢子の掌を両手で包み目を瞑る。
リングの硬さと手の冷たさとその小ささ。全てを包んで。



こうして一緒に寝るのはもう最後かも知れない。だから、この感触をしっかりと焼き付けておきたい。
あの頃の2人はもう何処にも居ないけれど、繋いだ手の確かさだけは変わらずに。
許されるなら、この時間があと少し続けばいいと――――願っていてもいいですか。





[廃墟のダンスホール]END.