infection
俺は何時の間に――こんなに弱くなってしまったのだろう。




「ね、淳郎、晩御飯ウチで食べるでしょ。何食べたい?」
「何でもいい」
「……それイチバン困るって言ってるよね」
ぷくりと頬を膨らませて夢子が淳郎を見つめた。
日曜の午後、賑わうカフェ。テーブルの下でツンと小さく脚を突付かれた。夢子の靴の爪先が一瞬触れる。

夢子が作るものなら何でも旨いから、何でもいい」
「んむー……。今日寒いし、お鍋にしよっか?」
「いいな」
「帰りに買物してこうね。そろそろシアター行く?」
「ああ」
椅子の背もたれに掛けていたコートと映画のチケットを手に夢子が立ち上がった。
するりと淳郎の手を取って「行こ」と微笑う。
凛とした空気をまとう夢子。何よりも愛しい、俺の恋人。



「ねぇ淳郎、白菜まるごとだと多いかな」
「……火が通ればカサは減るんじゃないか?」
「限界ってモンがあるでしょー。あ、でもウチの土鍋大きいから大丈夫かなぁ」
「大丈夫だろ」
「お鍋余ったら持ってく?ジップロック入れたげるよ」
「ああ」
「うし。じゃあ白菜どーん」
カートを押す淳郎に白菜を手渡した。家族連れや夫婦で混雑する夕方のスーパー。




時々、足がすくんだように動かなくなることがあるけれど。
俺はそれに気付かないフリをしている。




「あ、新商品だ」
お菓子コーナーで夢子が立ち止まった。子供に交じって真剣に『期間限定』のチョコを見つめ悩んでいる。
「淳郎、どっちがいい?」
そう言って掲げたのは抹茶と――もうひとつはミルクティーのチョコレート。
「……どっちも好きなんだろ?」
「うん!」
夢子は笑いながら、2つの箱をカートのカゴへ放り込んだ。取るに足らない、本当に小さな幸せ。




お互い一人暮らし。仕事の都合で会えるのは週末。
今週の土曜――つまり昨日――は夢子に急な仕事が入った。
正直に言うと、寂しかった。それも、ひどく。勿論、夢子にはこんなこと言えやしない。




「こんなもんかなぁ。買い忘れない?」
山盛りになったカゴに気付く。夢子は普段から自炊をする為、週末の買出しが習慣になっている。
「あ、大根。おろしがないとね!」
小走りでヒールを鳴らし、野菜売場へと向かう夢子の後ろを苦笑しながらついて行く。



「……結構な量だな」
「卵とか割れ物は入ってないから、ちょっとくらい転がっても大丈夫だよ」
「そんな荒い運転はしないさ」
ER34の後部座席に積んだ買物袋を見遣り淳郎は微笑った。
「知ってるよー。淳郎は安全運転だもんね。峠以外は」
思ったよりも空いている道路。ラジオから流れる曲に合わせて鼻唄を零す夢子は上機嫌のようだ。
「先輩がね、今度結婚するんだけど。送別会の幹事になったんだよ」
「そうか。責任重大だな」
「うん。あ、トオルくんの課と一緒なの。時期が同じなんだって」
「トオルも幹事なのか?」
「そ。あとウチの後輩で3人。色々決めようって集まっても、ただの飲み会になっちゃうんだよねー」

トオルとは課は違うが同じフロアで仕事をしていて、よく一緒にランチをすると聞いた。
夢子が会社にいる時間は一日の約1/3。
トオルとずっと一緒に居るわけでもないのに、少し嫉妬している自分に気付いた。



「……トオルくんね、奈保ちゃんとケンカしたみたい」
夢子はトオルの彼女・奈保とも仲が良い。走り屋の彼氏を持つ者同士話が合うようだ。
とは言え本人も――否定するが――凄腕の〈走り屋〉なのだが。
「またパーツのことだろう」
「うん。トオルくん言ってた?」
「大体想像はつくさ」
「何だかんだ言って仲いいんだよね」
「大っぴらにしているうちは大丈夫じゃないか」
「ふふ。お似合いだよ、あのふたり」
渋滞に巻き込まれることなく夢子のマンションに到着した。
地下の駐車場は一部屋につき2台分割り当てられている。
夢子の愛車・BMW Z4の隣に停めてスカイラインGT――ER34のエンジンを切った。


「荷物降ろすー」
ナビから降りた夢子が買物袋を持ち上げる。
「俺が持つ」
「ありがと」
淳郎が受け取ったそれはずしりと重い。両手に袋を抱えた淳郎は、隣のZ4に目を向けた。
「最近走ってるか?」
「通勤以外は全然。もみじライン行きたいなぁ」
トオルとのパラレルドリフトはギャラリーを大きく沸かす。
ダウンヒルだけではなく、ヒルクライムも淳郎と同じくらい――調子の良いときはそれ以上に――速い。
BMWのドリフトなんてそうそう見られないだろう。セブンスターリーフの紅一点、ムードメーカーのような夢子の存在。


「さすがに通勤途中にドリフトするわけにもいかないしねぇ」
「……捕まるぞ」
オートロックを解除しながら夢子が溜息を吐いた。
「近いうち走りに行くか」
「うん!行こうねっ」
にこにこと淳郎を見上げて夢子が笑う。
部屋に着くと「適当にくつろいでて」とテレビの前に押しやられた。



このマンションは夢子の親のものだと聞いた。
いわゆるデザイナーズマンションで、建築・デザイン雑誌にも何度か取り上げられたことがある。
賃料・販売価格共に決して安くはない筈だが、現在空室はないそうだ。



見るともなしにテレビを眺めていたが、やはりダイニングの夢子が気になって覗いてみる。大方の準備は終わったらしい。
無造作に束ねた髪の間からちらりと覗く白いうなじに、淳郎がごくりと唾を飲み込む。
そっと近付き後ろから抱きすくめた。
「もう少しでできるよ。どしたの?」
「こっちの方がうまそうだな」
首筋に噛み付き、きつく吸い上げると紅い花びらが散った。
「淳郎、今あとつけたでしょっ!」
「……いいだろ、このくらい」
「明日会社なのにー」
「虫に刺されたとでも言っておけばいい」
「季節外れ……」
苦笑して洗い物を続ける。




夢子の首筋に紅く散った所有の証。暗く灯った嫉妬の焔。




「邪魔するとごはん抜きにするよ?」
「……それは困るな。夢子の料理楽しみにしてたんだぞ」
「できたらそっち持ってくから、おとなしく待っててね」
夢子がくれた触れるだけのキスで淳郎は頷いた。



「はい、ごはんの前のご挨拶」
2人は両手を合わせて「いただきます」と声を揃える。

「あのね、今度はちゃんと土日休みだよ」
「そうか。じゃあ金曜の夜にでも走りに行くか?」
「うん、行くっ。トオルくんに声掛ける?」
「ああ……俺から言っておくよ」
「そう?あたし明日会うと思うけど」
夢子は小首を傾げて箸を動かしている。



本当の俺を知ったら夢子は幻滅するだろうか。嫉妬深くて小心者の――――



「淳郎、こぼしてるよ」
「……ああ、悪い」
夢子の苦笑で我に返る。
「どしたの?ぼーっとして」
「別に……」
「あたしとトオルくんのこと、疑ってる?」


テレビから流れる明るいバラエティは、どこか別世界の出来事のように思えた。


「……いや……」
「嘘。淳郎すぐ顔に出るもん」
「…………」
「あたしが好きなのは淳郎だよ。トオルくんは同僚。淳郎の友達。違う?」
夢子……俺は――」


夢子が静かに箸を置く。
いそいそと淳郎の隣に座り、頭を抱えるように抱き締めた。


「……俺はトオルに嫉妬してる」
消え入りそうに小さな声で淳郎が呟いた。
「くだらないと思われるかも知れないけど……夢子と毎日会えるトオルが羨ましいんだ……」
「くだらなくなんかないよ。あたしのこと好きって思ってくれてるからだよね」
「――ああ」
「嬉しい」
淳郎の頬にそっと夢子が触れる。


「……ね、一緒に暮らそうか?」
「え……?」
夢子の提案に淳郎は目を丸くする。
「お互い一人暮らしって、家賃も時間も損してると思う。ウチなら家賃いらないし、それに、」
淳郎を見上げた夢子ははにかむように微笑っていた。
「毎日飽きるくらい一緒に居られるよ」
夢子となら、毎日一緒でも飽きないな」
しっかりと夢子を抱き締めて微笑いながらキスを交わす。夢子の長い睫毛はほんの少しだけ震えていた。




ヤキモチは恋愛を盛り上げる極上のスパイス。ただし――使用は控え目に。





[infection]END.