「なァ夢子。来週の月曜って何の日か知ってっか?」
「6限に哲学の試験」
「即答かよ……ちげーだろ。ほら、オンナが好きなイベントだよ」
夢子が分厚いテキストから目を上げると、まとめた髪がハラリと揺れた。
「どっかでバーゲンあったっけ?」
「……なァ、それはボケなんだよな?オレはツッコんでいいんだよな?」
「バーゲンじゃないなら、やっぱ哲学の試験」
「ちげーよ!バレンタインに決まってンだろ!」
慎吾が痺れを切らしたように大声を上げる。再びテキストに視線を落とした夢子は少し笑った。
「へぇ。だから?」
「お前なぁ……。察しろよオレがこんだけアピってんだから」
「つまり慎吾は、あたしからのチョコが欲しいと。そういうこと?」
ページをめくりながら夢子が聞き、慎吾は渋々頷いた。
「……まぁ、そういうことになるな」
「なら最初からそう言えばいいじゃん。遠回りなんて小賢しい」
「うるせー。いいからチョコ寄越せ」
「やだ」
「……何でだよ」
「それどころじゃないもん」
「お前アタマいーんだから哲学なんか余裕だろーが」
「頭良かったらこんな大学入ってないよ……。土日は勉強するからチョコ作ってる暇なんかないのっ」
「お。作ってくれんのか?」
「……慎吾、あたしの話聞いてた?」
「コンビニのでもいいぜ」
「それなら自分で買えば?あ、後輩脅して貢いでもらうとか」
「オレはお前からのが欲しいんだよ」
プイとそっぽを向く慎吾の頬が少し赤く見えたのは、窓から射し込む夕陽のせいだろうか。
「ふぅん。じゃあ時間があったら作ったげる」
「よっしゃ!絶対だぞ?」
「時間あったら、って今言ったよね?」
「楽しみにしてっかんな」
慎吾はわしわしと夢子の頭を掻き回し部室を後にした。
彼――庄司慎吾とは、入学式以来〈男友達〉のような付き合いが続いていた。
好きか嫌いかと問われたら、好きだと答えるだろう。でもそれが恋愛感情かと問われたら――夢子にはわからない。
どうせならうんと甘いやつを作ってやろうと企み、帰宅途中にクーベルチュールチョコレートを買った。
月曜の昼頃、正門前でスクールバスを降りた。見事な快晴。風が冷たい。図書館の裏を通れば部室への近道だ。
「受け取ってください!」
突然、声が上がる。悪いとは思いつつ――好奇心には勝てなかった。
こっそり覗いてみると、どうやらチアリーディング部の一年生。可愛くてスタイルがいいと評判のコだ。フリーだったとは意外。
彼女は顔を真っ赤に染めて、可愛くラッピングした箱を差し出している。
「あらあら。相手は幸せ者だねぇ」
呟いてほんの少し身を乗り出すと、果たしてその〈相手〉は茶髪に赤いパーカー。後ろ姿しか見えないが、どこかで見たことがあるような――――
「慎吾……」
慌てて頭を引っ込めると全身の毛穴が開いて一気に汗をかく。踵を返して部室へ向かう。
口元まで覆ったマフラーをむしり取って乱暴に丸めた。心臓だけがキリキリと痛かった。
(あたしじゃなくて良かったんじゃん)
あれだけ可愛いコから告白されたんだ。女好きの慎吾が断る筈ない。夢子は手にした小さな紙袋に視線を落とし、ゴミ箱を探した。
「田中先輩、はよーっす」
背後から陽気な挨拶が飛んでくる。動揺していることを悟られないよう、冷静な声で「おはよ」と呟いた。
「それ、チョコすか?」
「あんた甘いモン大丈夫だっけ」
「はぁ、好きっすけど」
「じゃあコレあげる。よかったら食べて」
「マジすか!でも……誰かに渡すんじゃないんですか?」
「いーの。フラれたからさ」
「え……」
「味見はしたから大丈夫だよ。じゃね」
「あ、ありがとうございます……」
押し付けるように紙袋を渡す。一つ下の後輩の目は見られないまま。
部室への階段を駆け上がったら、鼓動の速さは何のせいなのか判らなくなった。
慎吾とは〈友達以上・恋人未満〉――そんな言葉がお似合いの関係だった。彼に〈恋人〉ができたのなら、あたしはただの〈友達〉だ。
あぁ、そうか――あたしはずっと、慎吾が好きだったんだ。
なんて、ありがちな話。気付くのが遅過ぎた。今更気付いたって何の意味も無い。
部室のドアを開けようとしてふと思い留まった。
ここにいたら慎吾に会うかも知れない。会えない。会いたくない。どんな顔をすればいいのか判らない――――
唇を噛んで踵を返す。携帯を取り出し、ゼミ仲間へのリダイヤルを押した。
「そっち机空いてる?」
『あぁ、散らかってるけど大丈夫だぜ。茶淹れとくよ』
「ありがと。すぐ行く」
勢い良く携帯を閉じた。今考えるべきことは6限にある哲学の試験だけ。夢子は深呼吸して階段を一気に駆け下りた。
「あーもう範囲広過ぎー!」
「今年から持ち込み不可になったんだってな」
「そー。去年カンニングしたバカがいたんだって。やるならバレないようにやれっつーの」
テキストとノートを開いたまま夢子は溜息を吐いた。
ゼミ仲間が集まる研究室は、資料の為の書籍がうず高く積まれ雑然としている。
夢子が訪ねたとき、ひょろりと背の高い友人が一人でパソコンに向かっていた。昼でも薄暗くカビ臭いそこは不思議と居心地が良かった。
「田中は誰かにチョコやったか?」
「やーそれが……未遂に終わったよ」
「何だよそれ」
ぽつりぽつりとかいつまんで話す。彼が淹れてくれた蜂蜜紅茶は優しい味がした。
「庄司って……あれだろ?妙義の、ナイトキッズとかいうチームの」
「ん。あんま良くわかんないけど、赤いシビック乗ってるよ」
「田中はあいつのこと好きなのか」
「……うん。でももう遅いよ。相手はチア部の可愛いコだよ?誰だって断んないっしょ」
「俺なら、他に好きな奴がいたら断るけどな」
「あいつ今フリーだしさ。あーもうやる気しないー」
机に突っ伏して嘆いた。慎吾のことは諦めよう。〈友達〉なら祝福するべきだ。
「言うだけ言ってみればいいじゃないか」
彼の優しい声に頭を上げる。
「慎吾に告れって?」
「ああ。田中はこのままでいいのか?」
「うー……。いくはないけど……」
「俺は言った方がいいと思うぜ」
「……うん、ありがと。今度チョコ作ってくるね」
「胃薬とセットでくれよな」
「そんなに破壊力ないよ!」
精一杯、抗議の気持ちを込めてブンブンと手を振る。
「やっぱ田中は笑ってる方がいいよ」
きょとんとした夢子の頭を軽く撫でて彼は立ち上がった。
「試験6限だろ?そろそろ5限終わるから早めに教室行っといたら?」
「あ、そだね。ありがと。ごちそーさま」
「ああ。試験頑張ってな」
「まかしといて!ヤマはバッチリ!」
笑顔でドアを閉める夢子を見送り、彼は細く溜息を吐く。
「俺もつくづくお人好しだな……」
中庭を歩く夢子の後ろ姿を眺めブラインドを下ろした。
「夢子が言ってたとこ出たね!」
「ホント助かったー!あそこしか勉強しなかったもん」
試験は思ったよりも手応えを感じた。ヤマを賭けた箇所が丸々出題されていて、試験時間中に小さくガッツポーズをした程嬉しかった。
「このあとどっか寄ってく?」
「あ、あたし明日も試験あるから」
「うん、ありがとー。明日頑張ってね夢子」
友達数人と別れ、夢子は図書館へ足を運んだ。暫く各階を物色して、レポートの資料と息抜き用の小説を数冊借りる。
ふと気付くと閉館時間間際。夢子が図書館を出るのと同時に、最終スクールバスが発車するのが見えた。
「……うわ、歩いて帰んなきゃ」
少々気落ちしながらも、哲学の重たいテキストをロッカーに置いていこうと部室へ向かう。
(慎吾、は……もう帰ったよね)
部室の窓を見上げた。明かりが点いている。試験期間だし、誰かが残って勉強しているのだろう。
2号館の階段を3階まで上る。足取りは軽い。ドアを開けると軋んだ高い音が鳴った。
「よぅ夢子。遅かったな」
「……慎吾……」
「何だよ。オレがいたらまずいのかよ」
「別に……」
俯いてドアを閉めた。エアコンで暖まった空気がゆるりと循環する。
「ん」
慎吾が右手を差し出した。掌を上に向けて、左手はパーカーのポケットに突っ込んだまま。
「何?」
「ナニじゃねェだろ。チョコだよ。寄越せ」
「……作ってきたけど、今持ってない」
「あ?約束したろ」
今朝、後輩に会ったので彼に渡したことを伝えると、明らかに苛立った表情の慎吾が「意味わかンねぇ」と夢子を睨んだ。
こいつ、彼女いるのにあたしからチョコたかろうとしてる――夢子も負けじと睨み返す。
「彼女いるんだから、あたしのチョコなんかいらないでしょ」
「あ?誰の彼女だよ」
「チア部の一年に告られてたじゃん」
それは夢子の精一杯の切り札だった。慎吾は呆気に取られたようにぽかんと口を開けている。
「お前……何で知ってンだよ」
夢子はロッカーにテキストを放り込むと乱暴にドアを閉めた。スチールが甲高い悲鳴を上げる。
「前、慎吾が可愛いって言ってたコだよね。良かったね向こうから告ってきてくれて」
慎吾に視線を向けられないまま早口でまくし立てる。
「じゃ、お疲れ。彼女と仲良くね」
明るくそう言い残して部室を出ようとした。これ以上ここにいたら、あたしはきっと泣いてしまうから。
「――待てよ」
すれ違う瞬間、慎吾に左腕を掴まれた。思いのほか力は強く、振り解くことができない。か細い声で抵抗するのが精一杯だった。
「はなして」
「お前勘違いしてんぞ」
「うるさい、も、はなしてよ……っ」
「夢子」
強い口調で名前を呼ばれ、びくりと体が震える。
「オレの話、聞けよ」
恐る恐る顔を上げると、慎吾が真剣な面持ちで夢子を見つめていた。
「座れ」
有無を言わせない、でもどこか優しい口調で慎吾が促す。夢子はそれに大人しく従って腰を下ろした。スチール製の机の端に慎吾が腰掛ける。
「お前が言ってるチア部の一年に……今日の昼、告られた」
言葉を選ぶように慎吾が話し始める。
「付き合ってくれ、って言われた」
「OKしたんでしょ?」
「……いや、断った」
「嘘……。どうして?」
「オレ、他に好きな奴いるから」
「……へぇ……」
「お前だよ、夢子」
「……へぇ…………え?」
今度は夢子が呆気に取られる番だった。ぽかんと慎吾を見つめると、頬が少し――赤い、ような気がする。
「え……や……嘘でしょ?」
「こんなことで嘘なんかつかねェよ」
「だって……え……?」
ぐるぐると混乱した様子の夢子を眺め慎吾は苦笑した。
「だからこの間、お前からのチョコが欲しいって言ったろ」
「な、だって作ってきたけど……慎吾彼女できたんだから、そしたらこれいらないじゃんて思って、
ちょうど、朝……あいつ甘いモン好きだって言うから、捨てるよりだったら食べてもらおうって、」
言い訳を必死で並べ立てていた夢子の唇を慎吾が塞いだ。目を瞑る暇も与えられない、ほんの一瞬触れるだけのキス。
「うるせェ。また今度作ってこい」
「――な……っ何すんのよ!」
「旨そうだったから」
「ちょっともー信じらんない!」
「つーかお前チョコ持ってねェのかよ」
「……あ、M&M'sならあるよ」
ごそごそと鞄の中から小袋を取り出した。
「しょーがないからコレあげる」
「……しょっぼいな……」
慎吾は渋々受け取ると封を開け、カラフルな数粒を掌に転がした。口に放り込んでもしゃもしゃと咀嚼する。
「おいしい?」
「……硬い……。甘い……」
「そ。良かったね」
「ちっとも良くねェよ」
夢子の頬に手を伸ばし、先程よりもゆっくりと口付ける。今度は唇の感触も、温度も、微かな震えも伝わった。
歯列を割ってするりと侵入してきた慎吾の舌は、やけに甘かった。
「……甘っ」
「チョコ食ってんだから当たり前だろ」
「うわー喉渇く」
ベロ、と舌を出して夢子が眉を顰める。桜色の頬が可愛い。慎吾の視線に気付いたのか、掌を頬に当ててむくれてみせた。
「帰るっ」
「ちょっ……待てって。もうバスないんだろ?送ってく」
「ホント?やったぁ慎吾大好きー」
「……全く心がこもってないお礼の言葉ありがとよ」
慎吾はEG6の鍵を手に部室のドアを閉めた。
「エアコン消した?パソコン電源切った?」
「うるせェな。大丈夫だよ多分」
「もー。最後に出る人が責任持って戸締りしないといけないんだからね」
夢子は一足先に、パタパタと階段を下りていく。
外は既に真っ暗。試験期間の為か、学生用駐車場にも殆ど車がない。真面目な学生達は早々に帰宅したのだろう。
「寒ー!」
「コート着てンだから寒くねェだろ!」
マフラーをぐるぐると口元まで巻いているのに震えている夢子を眺めて苦笑する。
「エアコンつけてやっから黙ってろ」
助手席でぷるぷると縮こまっているその姿も、ひどく愛しい。
「……あ、あったかくなってきた」
やっと微笑った夢子はマフラーを緩め、体を運転席の方に少し傾けて呟く。
「ねー慎吾」
「あ?」
「好きだよ」
くわえようとしていた煙草がポロリと落下する。
「…………は?」
「だから、好き。あたし、慎吾が好きだよ」
「…………」
「あれ?慎吾顔赤い?」
「るっせェな!暑ィんだよ!エアコン消すぞ!」
「やだぁ!消さないでよ!」
EG6は大きなスキール音を響かせて発進した。煙草はシートの下に転がったまま。
〈愛〉とかそんな大袈裟なモンじゃねぇ。少しだけ、オレの方が夢子を好きなだけだ。
「次はキスじゃ済まねェからな」
「えー何?聞こえないー」
「喋ると舌噛むぞ」
夢子はマフラーで口元をすっぽり覆ってそっぽを向いた。
本当はしっかり聞こえていたのだけど――それを少しだけ期待する自分を悟られるのが死ぬ程恥ずかしくて、聞こえないフリ。
慎吾に触れられた唇が、今頃になってじわりと熱を帯びた。
[MAGENTA STORY]END.