最近やっと機種変更した携帯電話。メモリNo.000・カイ専用の着メロが鳴ったのは0時を少し回った頃だった。
「え……だって明日1限でしょ?」
『夢子の顔見たらすぐ帰るから』
「ホントに大丈夫?」
『ああ』
「わかった。気をつけて来てね」
『サンキュ。30分くらいかかると思う』
「うん。待ってる」
先週の日曜に会って以来だから、今日で3日。たった3日会っていないだけでもう会いたいなんて――嬉しい。
夢子は閉じた携帯を握り締めて、こっそり唇に笑みを浮かべた。
控え目にチャイムが鳴った。電話が鳴ってから、ちょうど30分が経った頃。
玄関に飛んで行き、一応ドアスコープを覗く。革のジャケットを羽織ったカイが立っていた。待ち人来たる。
「いらっしゃい」
小声で呟いてドアを開けた。冷たい風と一緒にカイがするりと侵入してくる。
「……会いたかった」
玄関先の慌しい抱擁。夢子の存在を確かめるようにカイは腕に力を込める。そこに確かに在る、夢子の体温。
「お茶する時間くらい、あるよね?」
「ここで追い返されるのも面白いけどな」
「そんなことしないよー。上がって」
もう一度腕に力を込めてカイは体を離した。
夢子が差し出したスリッパは、カイの為に用意したメンズサイズ。カイが駆るMR2のボディカラーに似た青色のもの。
「急にごめんな、夢子。何してた?」
「んとね、お風呂入ってから民訴のレポートやってた。もうすぐ終わるよ」
ジャケットを脱ぎながら問うたカイは、ノートパソコンに目を向けた。書きかけの文章が、カーソルを点滅させて続きを待っている。
「民訴って民事訴訟?だっけ」
ソファに腰掛けてダイニングの夢子に聞いた。彼女は法学部に在籍していて弁護士を目指している。
『オレが悪いことしたら夢子に弁護頼むな』
『もー……。悪いコトなんかしちゃダメだよー』
呆れたような可愛い笑顔を思い出した。
「そうだよー。刑訴と同じ、手続法ってやつ」
夢子は背中で答えながらお気に入りの紅茶をカップに注ぐ。淡いオレンジの水色はゆるりと湯気を上げた。
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
隣に腰を下ろした夢子はニコニコとカイを見上げている。
「……何だよ夢子。オレの顔、何かついてんのか?」
「んーん。嬉しいなぁって思って」
えへへ、とはにかむように微笑って夢子はティーカップを掌で包む。
楽しい、嬉しい、哀しい、淋しい。
夢子は感情を素直に口にする。それはカイが夢子を好きな理由のひとつ。
「だってカイが会いに来てくれたんだもん。すごく嬉しい」
温かく柔らかな唇をそっと塞ぐ。軽く触れるだけの筈が――このままだと止まらなくなりそうで怖くなる。
どうにか理性で唇を解放すると夢子が呟いた。
「カイ、冬の匂いがするね」
夢子の肩を抱いて体温を感じていた。
ただ「一緒に居る」ことで、こんなにも安らいだ気持ちになったのは初めてだった。
「――そろそろ帰らないと」
部屋の時計は1時半を指そうとしていた。
「うん……そだね。明日早いもんね」
名残惜しげに体を離した夢子が、カイの頬に小さく口づける。遠慮がちなその仕草はひどく愛しく感じられた。
別れの抱擁は、今までの嬉しさを裏返すようで胸がきつく締め上げられる。
「このまま夢子を持って帰りたいな」
呟いたカイの背中に腕を回した。広くて温かい、ひなたのような背中。
「車のとこまで送るね」
週末になればまた会える――夢子は自分に言い聞かせた。
会いたいときにすぐ会えるなんて、贅沢過ぎるくらい幸せなんだから。
「あ、雨だぁ」
手をつないで外に出ると、柔らかな霧雨が降っていた。夢子は羽織っているパーカーのフードをすっぽりと被る。
「夢子、部屋戻れよ。風邪引くぞ」
「いつもあの角曲がるまで見てるもん。今日も見てる」
カイは苦笑しながらMR2に乗り込んだ。
「じゃあな」
「ん。土曜日ね」
運転席の窓を開けてカイが手招きする。腰を屈めるように顔を近づけると、小さな口づけ。
「おやすみ、夢子」
「……おやすみ。気をつけてね」
夢子は少しだけ赤くなって手を振る。
角を曲がる少し手前、霧雨の中でMR2が短く2度鳴らしたクラクション。時間を考慮してかかなり控え目だ。
思わず笑った夢子の息は、微かに白く上った。
MR2のテールが見えなくなる。
部屋に戻ると、カイの残り香に切なくなった。
ティーカップを片付け、書きかけのレポートを保存しようとノートパソコンを開いた夢子の手が止まる。
【 愛してる 】
夢子が書いていた堅苦しい文章から4行空けたところに、甘い甘い愛の言葉。
普段は照れてなかなか口にしてくれないカイの、恐らく精一杯の愛情表現。
冷たく光るディスプレイをそっとなぞると、そこだけ指先が甘く痺れた。
平日の深夜、道路も静まり返っている。信号待ちのMR2の中、カイは欠伸を噛み殺した。
ふと携帯を取り出すと夢子からのメールが届いている。
『オービス光らせたらダメだよ?安全運転でね
微笑って閉じようとすると、続きがあることに気付く。カチカチとスクロールしていくと――
『カイありがとっ
信号が青に変わる。カイは赤面しながらアクセルを開けた。
思わず右足に力が入ってしまい、無人の交差点に大きなスキール音が響く。我慢しても零れる笑み。頬が緩む。
「浮かれてんな……」
苦笑して呟いた。
君の街まで飛んでいくよ。オレに似合うと言ってくれた、青色のMR2で。
さっき別れたばかりなのに――もう会いたいんだ。
今度会ったらちゃんと、夢子の目を見て言おう。
「愛してる」
……オレ絶対真っ赤になるだろうな……。頼むから笑わないでくれよ。オレの素直な気持ちだから。
愛してるよ、夢子。
[君の街まで]END.