ある大学の研究室。夢子は悩んでいた。手元にある内定通知を幼馴染に見せるべきか否か。
彼はきっと喜んでくれるだろう。でもそれは同時に、決定的な別離を意味する筈だ。
20年と少しの間うやむやにしてきた自分の気持ちに向き合い、夢子は小さく溜息を吐いた。
「あたし、こうちゃんのおよめさんになるっ」
「うん、やくそくだよ夢子ちゃん。ゆびきり!」
17、8年も前の無邪気な約束を思い出した。
幼稚園の砂場で交わした小さな指切りは、時間にまみれて汚れてしまったのだろうか。
少なくとも夢子の中ではまだ、微かに息づいている。
「いらっしゃいませ……あ、夢子さん!」
「イツキくん、久し振り」
ようやく決意を固めスタンドへ行った夢子を迎えたのは樹だった。
「浩一郎いる?」
「池谷先輩なら今配達出てますよ。もうすぐ戻ってくると思います」
「そっか……。じゃあ待たせてもらってもいい?」
「はい、じゃあ車こっちに寄せてください。オレ誘導しますから」
「うん。お願いね」
カプチーノをスタンドの隅に停める。隣に在るのは<彼>のS13。トクン、と心臓が跳ねる。
待合スペースのドアを開けると、店長が煙草を燻らせていた。
「おお、夢子ちゃん。久し振りだなぁ」
「ご無沙汰してます」
「就職活動かい?」
「はい。ヒール苦手です……」
夢子はソファの隅へ腰を下ろす。
「夢子ちゃんはミルクティーだったっけ」
「ありがとうございます。よく覚えてますね」
「カミさんの誕生日はうろ覚えだけどな」
「それはいけませんねー」
苦笑しながら缶を受け取った。温かいミルクティー。
「池谷なら配達行ってるぞ」
「あ、はい。イツキくんから聞きました。戻って来るまで待たせてもらえますか?」
「もちろん。いっそウチに就職しないか?夢子ちゃんなら大歓迎だぞ」
「あー……はい。考えときます」
いただきます、と頭を下げ、缶のプルタブを起こす。
流れる有線、置いてある雑誌、くたびれたソファ。ここに来るのは本当に久し振りで、でも何も変わっていない。
テーブルに置いてある雑誌を見るともなくめくっていると、表から店長が声を掛けてきた。
「夢子ちゃん、池谷戻ってきたぞー」
夢子は慌てて立ち上がり身だしなみをチェックする。
幼馴染に会うのに緊張するなんて、おかしい。おかしい……よね。
「ご苦労さん。お客さん来てるぞ」
「オレに客すか?」
「ああ。キレイになったなぁ……」
遠くを見るように店長が言う。
事情を飲み込めない、といった表情の池谷は帽子を手に待合スペースへ入ってきた。
「……夢子」
「久し振り」
はにかむように笑った夢子をまじまじと凝視して池谷は聞いた。
「どうしたんだ?」
「あのね、浩一郎に話したいことがあって」
ソファの向かい側へ腰を下ろした池谷を真っ直ぐ見つめる。
「何だよ、改まって」
夢子は傍らに置いたバッグから封筒を取り出す。その中から一枚の書類を池谷へ差し出した。
「お前、内定もらったのか」
「……うん」
「すげえじゃん!良かったな!」
まるで自分のことのように喜んでくれる彼を見て、夢子は胸が痛んだ。
「……行きたくないよ」
「何でだよ。第一志望の会社だろ?」
「本社勤務だもん。東京なんか行きたくない……」
そして少し震えた声で夢子が言った。
「浩一郎と、離れたくないよ」
「夢子……」
池谷は唇を噛んで立ち上がり、夢子の手を取った。
「――来い。オレも夢子に話がある」
S13の助手席に夢子を座らせると池谷は店長の元へ行き、すぐに戻ってきた。慌しくエンジンを始動させる。
「仕事……いいの?」
「目つぶってるから行ってこいってさ」
2人で少しだけ笑う。
「覚えてるか?ナビに夢子を初めて乗せたときのこと」
「死ぬかと思ったよー。交差点の真ん中でエンストしちゃってさぁ」
「悪かったって」
池谷は苦笑しながらウィンカーを点けた。
「運転、うまくなったよね」
「そりゃまぁなー」
「浩一郎が峠で事故ったって……健二くんから聞いたとき、心臓止まるかと思ったよ」
「……あぁ……」
「すっごい心配したんだからね」
「わかってる。もう事故は起こさないよ。……約束する」
池谷が左手の小指を差し出す。小さく指を絡ませて――指切り。
「オレがフラれたとき、夢子は笑わなかったな」
「……笑ったり、できるわけないよ」
好きなひとが辛い思いをしているのに。
「お前自分のことみたいにワンワン泣いたよなー」
「もー、いいじゃんそれは。恥ずかしいから忘れてよー」
少し赤くなって視線を窓の外に移す。木々はすっかり色付いている。冬になれば葉はすっかり落ちてしまうのだ。
秋名湖は静かだった。
「寒くないか?」
「うん。大丈夫だよ」
湖畔に佇む2人の影は長く伸びている。
「夢子。行けよ、東京」
「浩一郎……」
池谷は真っ直ぐ夢子を見つめた。
「諦めたら一生後悔するぞ」
「だって……」
浩一郎の傍に居たいと。そう願っていただけなのに。
「群馬と東京なんて関越乗ればすぐだろ。辛いことがあったら飛んでくよ」
「あたしは――」
優しくなんか、しないで。
ぽたり、と涙が落ちた。堰を切ったように溢れ出して止まらなかった。
「夢子に約束してほしいことがあるんだ」
池谷は夢子の左手を取った。
「……約束……?」
「東京に行っても、ここは空けておいてくれ」
壊れ物を扱うように、夢子の薬指にそっと口付ける。少しかさついたその感触は、ひどく愛しかった。
「夢子を迎えに行くから。そのときまでオレのために空けとけよ」
「……浩一郎、顔真っ赤」
「うるせーな。恥ずかしいんだよっ」
池谷はわしわしと頭を掻き回して夢子を抱き締めた。微かな煙草の匂いと、スタンドの匂い。
キザな台詞は似合わないと――笑い飛ばすことができたなら、どんなに楽だろう。
「あたし、本気にするよ?」
「おう。望むところだ」
水面を滑る風は冷たい筈なのに、寒さは感じなかった。
「ねぇ浩一郎、約束覚えてる?」
「いつの?」
「幼稚園のときの」
「ああ、砂場で指切りしたやつか」
「覚えてるの?」
「当たり前だろ。オレのファーストキスだぞ」
指切りを交わしたあと、唇と唇をほんの少しだけ合わせた。
『好きな人同士がする』それを真似たひどく幼稚な、それでいて神聖な行為。
「夢子、好きだぜ」
「……うん。あたしも――」
大好き、と言いかけた夢子の唇を池谷が塞ぐ。
突然の出来事に目をつぶる暇すらなかった。
一瞬触れ合うだけのキスは、幼稚園の砂場で交わしたそれと寸分違わず深い意味を持った。
「……びっくりした」
「……わり」
「うぅん。……ねぇ、不安じゃない?春から離れ離れだよ」
「距離なんか関係ないさ」
「東京でイイ男につかまっちゃうかもよ?」
「もう浮気宣言かよ……。勘弁してくれよ」
「やだ、冗談だよー。あたしが好きなのは浩一郎だもん」
「夢子……。そんな可愛いこと言うとまたキスするぞ?」
池谷の唇が夢子の額に軽く触れる。そこは微かに熱を帯びた。
「……もうしてるじゃん……」
「夢子が可愛いからいけないんだ」
「バカ。……大好き」
「愛してるぜ。夢子」
少し遠回りしたけど、これから2人で歩いていこう。心が繋がっていれば何処に居たって関係ない。
どんなに離れていても、君だけを想うから。
[君だけを想ってる]END.